その弐
男は女性に案内され、玄関から病院の中に入っていく。
建物が古いわけだから、中だって古い。
建物の作りが古いのだから、かなり古く築三十~四十年以上はいってそうだ。
現に、今風の病院にありがちな石膏ボードや綺麗に塗られた壁ではなく、木の板で作られた壁と漆喰で作られた壁で、天井の明かりもおしゃれな蛍光灯ではなく、裸電球だったりする。
懐かしいな…。
ふと男はそんな事を思う。
確か小さい頃、そう、まだ街に小さな個人でやっている病院があったころ、年老いた医師がやっていたかかりつけの病院がこんな感じだった。
今の病院の、いかにも清潔ですよって言う押し付けがましい感じの病院ではなく、なんか家を改築したかのような造りのなんか隣のおじいちゃんの家に遊びに行くかのような気軽さを感じさせる病院。
今では、個人でやっている病院なんてあまり見かけないものの、男がまだ小さいころはまだ結構あり、地区ごとにかかりつけのような感じであった。
男の地区には年配の白髪の混じった優しそうな、それでいて時折悪戯っ子のような表情をする先生が病気や怪我の時は見てくれていた。
そういや、よく秘密で、親に内緒で飴とかもらっていたっけ……。
記憶の奥底で眠っていた昔の古い記憶が蘇ってくる。
まるで十数年前に戻ったかのような、そう子供時代に戻ったかのような錯覚さえ感じさせる。
だからだろうか。
「いい病院だな……」
男の口から自然とそんな声が漏れた。
その声に、先に歩いていた女性は驚いて足を止める。
「あら、うれしいですわ。お世辞でもそんな事を言っていただけるなんて」
「いえいえ。お世辞ではなく、ここは本当にいい病院ですよ。素朴でも清潔で、そしてなんというか親しみと温かみがある。そんな病院です」
男は真顔ではっきりとそう言う。
その表情から、女性はうれしそうに笑う。
「そんな事を言っていただけるのは、実に何年ぶりかしら」
昔を懐かしむような顔をして女性が呟くように言う。
「今まで来たやつは、ここの病院のよさがわかっていないんですよ」
「ふふっ。ありがとうございます」
女性はそう言うと、機嫌良さそうに歩き出す。
男もその後を追い、診察室に一緒に入った。
中には、清潔そうな白いシーツのベッドとなにやら書類が一杯詰まっている本棚。そして、ガラス戸の棚にはいろんな機材が、実に綺麗に収まっている。
そして、多分、先生が使う為の机と椅子、それに診断を受ける人のための椅子が二つほどあった。
そうそう。
こんな感じだったよな。
部屋を見回し、男は懐かしさにうれしくなる。
女性はそんな男の様子を見てうれしそうに微笑みながら、椅子に座るように言った。
「ああ、はい。わかりました」
男が椅子に座ると、女性は男の顔に顔を近づける。
「少し診断しますね」
そう言って男の右目を開けておく様に言うと、左手の指で男の右目をまぶたと下の部分を押さえて少し大きめに開かせた。
そして、胸ポケットからペンシルライトを出すと、目に直接当てないように注意して照らしつつ覗き込むように右目をみる。
「ふむ……」
確認するように光源の位置を何度か変えると、「もういいですよ」と言って左手の指を男の顔から離してペンライトをしまう。
「多分、洗浄すれば大丈夫だと思います」
「そうですか。よかった」
男が心底そう言うと、女性はクスクスと笑う。
「それじゃ、洗浄の準備をしますね」
そう言った後、ふと思い出したかのように女性が男に聞いてきた。
「ちょっと時間がかかりますから、そうですね。よかったらあなたのその大好きなおじいちゃん先生のことやその病院の話でもしていただけませんか?」
その問いに、男は一瞬、考え込む。
この病院の事は褒めたけど……。
おじいちゃん先生の事や病院の話なんて、そんな事話したっけ?
なんかはっきりしない。
話したようでもあるし、話していないようでもある。
だが、大好きなおじいちゃん先生の話ができることに比べれば、それは些細な事に思えた。
だから、男は言われるままに、大好きなおじいちゃん先生と病院の話をした。
孫のようにかわいがってくれた事。
高熱を出した時に、深夜にもかかわらず、家に駆け込むように来てくれて治療してくれた事。
親には内緒で飴をもらっていた事。
そして、おじいちゃん先生の病院が大好きだった事も……。
「ふふっ。すごくいい笑顔ですね。本当に大好きだったんですね、そのおじいちゃん先生のこと」
「ええ。すごく大好きでした。祖父が病気で生まれる前になくなっていたんで、当時の自分としては、多分祖父の代わりだったんだと思います」
懐かしそうに男がそう言うと女性は少し考えた後、決心したように言った。
「また会いたいですか?」
その言葉に男が驚く。
まるで心の中で思った事を聞かれたと感じたためだ。
だが、答えは出ている。
だから即答した。
「ええ。会いたいです。実は……恥ずかしい話ですが、おじいちゃん先生の名前、知らないんですよ」
男が頭をかきながらそう言うと、女性はクスクスと笑う。
「もしかしておじいちゃん先生ってばかり言ってませんでしたか?」
「ええ。その通りです。苗字は覚えているんです。桜井って。でも名前は……」
「それが心残り?」
「ええ。それだけが……心残りです……」
男の返事に満足したのだろう。
女性は表情を引き締めると、男に告げる。
「では準備できました。洗眼しましょうか」
「はい。お願いします」
「では、右目を開けておいて下さいね。表面についている膜を洗浄します」
女性の言葉に、男が聞き返す。
「ええ。膜です。今まで見えていなかったのは、その膜の為だったんですよ。でも洗浄したら、全て見えるようになりますから……」
「そうですか。よかった」
女性に金属製のガーグルを渡され、右目の下に当てておくように言われ、男は言われるままに当てる。
そして女性は左手の指で右目を少し大きめに開けた後、スポイトのようなもので目を洗い流していく。
どんな成分が入っているのだろうか。
かけられる液体に痛みを感じず、それどころかすっきりとした感じさえ受ける。
「痛くないですか?」
「ええ。大丈夫です。痛くありません」
「そう。それならよかった」
段々と見えてなかった右目の視界が、少しずつではあるが液体をかけられていく事で視界が明けるように見えてくる。
「すごいです。見えています。見えていますよ」
うれしそうな男の声に、女性は少し困ったかのような口調で答える。
「もう少し。もう少しですからね。動かないでそのままでいてください」
「あっ。はい……」
男が慌てて、そう答える。
どうやら興奮しすぎて身体が自然と動いていたようだ。
「すみません……」
男がそういうと耳元で微かに声が聞こえた。
「相変わらずだな、坊は……」
その声は本当に本当に小さくて、もしかしたら気のせいかもしれないと思えるほど小さくて…。
普段なら、多分、聞き違いか、気のせいだと思ってしまうだろう。
だが、男はそう思いたくなかった。
それはとても懐かしい声だった。
それは……男が大好きだったおじいちゃん先生の声だった。
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