その参

耳に入ってきたのは聞き覚えのある声。

子供の頃に大好きだった声。

そして、今はもう聞くことはないだろうと思っていた声。

男は恐る恐る声が聞こえた方を向く。

まるでそっちを向く事がわかっていたかのように、洗浄のため流されていた液体は止められて、女性は身体を後ろに一歩さがった。

男のさっきまで見えていなかった視界から、まるで何もかも見えるようになった視界の先に映ったもの。

それは、一人の男性だった。

年の頃は、七十前後だろうか。

白いものが混じった髪、深くたくさんもの記憶が刻まれたような皺、怖くなりがちな顔のつくりのはずなのに優しそうな目と微笑み。

そして、年季が入っているものの、清潔そうな白衣。

その男性を男は知っていた。

震える男の唇が動く。

それはまるでありえない事を確認するかのような口調だった。

「お、おじいちゃん先生?」

男は呟くようにそう言うのが精一杯だった。

それ以上のことを何も思いつかなかった。

思考は爆発し、真っ白になっている。

「坊は、わしの事を忘れてしまったのか?」

そう聞かれ、夢でもなんでもなく、目の前で実際に起こっている事だとわかり、慌てて男は首を横に振りつつ叫ぶように言う。

「忘れるもんかっ。おじいちゃん先生のこと。忘れてないよ……」

男の目には涙が浮かんでいたが必死でこらえているようだった。

それでもこらえきれないのか、顔をくしゃくしゃにしてなんとか押さえ込もうとしている。

その言葉と様子に、男性はうれしそうに笑った。

「そうか、そうか。坊は忘れていなかったか……。うれしいのう。もっとも、忘れていなかったからこそわしはここにいるんだがのう……」

「おじいちゃん先生、それはどういう……」

男がそう聞き返してきたのを男性は慌てて口を挟んで止める。

「おっと、それは秘密じゃ。わははは……」

そう言って笑って誤魔化すと、話題を変えるためだろうか。

今度はじろじろと男を見て聞き返す。

「しかし、坊も年をとったのう。結婚はどうじゃ?」

そう問われ、頭をかきつつ男は答える。

「結婚はまだだよ」

「そうか。ほれ、幼馴染の子とはどうなった?」

痛いところを突かれたのだろう。

男は苦笑気味の表情を浮かべた。

「ああ、あの子は別の人と結婚しちゃったよ」

「そうかぁ……。お似合いと思ったんじゃがのう」

そうしみじみと男性はそう言って、天井を見上げて呟く。

「世の中、思うようにはならんものじゃな、いつの時も……」

その時、微かだが、「あまり時間はありませんよ……」という声が聞こえる。

それは女性のようでもあり、男性のようでもある不思議な声だった。

「えっ……今の……」

男がきょろきょろと周りを見渡すと、いつの間にか女性の姿は消えており、診療室には、男と男性の二人しかいない。

じゃあ、今の声は……いったい……。

男がそう思ったとき、男性が呟く。

「そうじゃった。時間があまりなかったのう……」

そして、男性は男の方を見て聞いてくる。

「坊は、私に未練があるんじゃろう?その未練はなんじゃ?」

その問いに、自分の中にあるみれをを伝える為に男は口を開く。

「私は……、いいや、僕はおじいちゃん先生の名前を知りたい。知っておきたいんだ」

その男の言葉に、男性は面白そうな表情を浮かべて聞き返す。

「なぜじゃ?おじいちゃん先生でもよかったんじゃないかい?」

そう問われて、男はゆっくりと首を横に振る。

「確かにおじいちゃん先生でもいいかなとも思ったよ。でもね、それじゃ駄目なんだ。大好きなおじいちゃん先生の名前を覚えておきたいんだ。僕の中にあるおじいちゃん先生の記憶と共に……」

その言葉に、実にうれしそうに笑いつつ、男性は男の頭を撫でる。

それはおじいちゃんが、孫をかわいがるふうに見える。

そんなやさしい撫で方だった。

「そうか。そうか。坊は『名は体を表す』という事がわかっているんじゃな。さすがは、坊じゃ……」

そう言うと、すーっと男の顔を覗き込むように男性は顔を近づけた。

それは、まるで男の顔をしっかりと目に焼き付けるかのように真剣な眼差しだった。

「わしの大好きな坊。なら、わしの名前を覚えておいてくれ……」

そして光が目に入り込んでくる。

強い強い光だ。

そしてその光が視界を真っ白に染め上げていく。

そして、その光は目の前に見えていた男性の姿を包み込んでいく。

「おじいちゃん先生っ!!」

男が慌てて手を伸ばし、掴もうとした。

しかし、手ごたえはなく、ただ光だけが周りを…目に見える範囲を染め上げていく。

そして、その光の中、微かだが男の耳に届いた言葉かある。

「坊、わしの名前は……桜井……正文……じゃ……」

この微かだが届いた言葉に、男は叫ぶように答える。

「わかったよっ。絶対に忘れないっ。僕の大好きなおじいちゃん先生の名前はっ、桜井正文だって。死ぬまでっ、絶対に忘れないよっ」

何もかも光に包まれて見えてないはずなのに、男には男性が……男が大好きだったおじいちゃん先生が、微笑んでいるのが見えたような気がした。


そこまで話して、ふうと男が一息入れた時に、僕は突っ込んだ。

「いい話じゃないですかっ。どこが怖い話なんですか?」

僕がそう聞き返すと、男は苦笑して言葉を続ける。

「だから、まだだって。怖くなるのはこれからだって」

その言葉に、僕は笑って言う。

「本当ですか?」

「ああ、本当だよ」

「本当かなぁ……」

「ふふっ。心配しなくても最後には、君を驚かせてあげるからね」

男は自信たっぷりに笑いつつ、そう言うと、続きを話し始めたのだった。

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