5 トシコさんの熊手

 固唾を飲む聴衆に、俊子は、なるべく感情を抑えながら、


「――私が最後に記憶している母親の姿は、頭二つ分も大きな見知らぬ男に、血を流しながら立ち向かってゆく姿です。そのとき私はすでに男に殴り倒され、意識が朦朧としておりましたので、その後の母の運命も、いっしょにいたはずの弟がどこに行ってしまったのかも、残念ながら記憶に残っておりません」

 沈黙している聴衆に、俊子は毅然として言った。

「ですから――知恵の足りないヒグマの私が、どんな存在を『みんなおなじで、みんなふつう』の世界から『みんなと違って、明らかに悪い』と仕分けるか――それはただひとつ、『私の子供たちを一方的に傷つけようとするもの』、ただそれだけです。男も女も、生物も無機物も関係ございません。ただそれだけを、私はこの世界から断固として排除します」

 俊子は両の掌を、闘争モードで振り上げて見せた。

「弱い女でも、私にはヒグマならではの武器がありますからね」


 俊子の肉球は野生の熊のように荒れていないし、指の間の毛も汚れていない。しかし黒光りする爪だけは、戦闘モードでむき出せば、鈍器と鋭器が融合したような禍々しい巨獣の爪に他ならない。


 会場全体に向かって語りかけながら、俊子は、あの若い女性を見つめていた。

 まだ具体的行動を起こす覚悟には至っていないようだが、先ほどよりは目に光がある。

 あとは講演が終わってから――そう思った俊子に、前列寄りの中年女性が手を上げた。

「でも、石狩先生」

 前にも世間話のような質問をしてきた、おしゃべり好きのふくよかな婦人である。

「やっぱり人間の私たちには、先生のように立派な熊の手がありませんもの。実はうちの旦那もしょっちゅう浮気するんですけど、か弱い女の私としては、せいぜい旦那のほっぺたを引っ掻いてやるくらいしか」

 剽軽な話しぶりに、会場の重い雰囲気が、すっと軽くなる。

 時間もちょうど終了予定の頃合いである。

 俊子は、ありがたくそのボケ寄りのツッコミを受け、駄目押しのオチを繰り出した。

「でしたら、これから大丸の東急ハンズに寄って、買って帰ればよろしいわ」

 いかにもお上品なすまし顔で、

「熊手――庭仕事や潮干狩りに使う、あの小さい熊手がございますでしょう? あれで御主人の鼻の横あたりを、力いっぱい横殴りにすればよろしいわ。私の熊手と違って、顔面半分ザックリえぐりとるのは無理でしょうけれど、お鼻くらいは、たぶん跡形もなく」

 それから、冗談ですよ冗談、と言うように、爪を隠した手を振って、

「お鼻のない旦那様に、もう浮気はできませんものね」


 会場が和やかな笑いに包まれた。

 そうそう、こーゆー芸風が石狩先生の真骨頂なのよ――。


          ◎


 講演を終え、イベント・ルームの出口で愛読者たちと握手しながら、あの女性を捜す。どこにも姿が見えないからには、二人がうまく連れ出してくれたのだろう。

 最後の客を見送った後、俊子は書店の講演担当者と共に、控え室に戻った。


 牧村女史と田島嬢、そして先ほどの女性が俊子を待っていた。

 書店の担当者には、控え室から下がってもらう。

 牧村女史が俊子に言った。

「こちらの方、お台場のマンションにお住まいだそうです」

 前々から身の上相談の記事なども手がけている牧村女史は、すでに女性から詳しい話を聞き出したらしい。

「湾岸警察署の生活安全課なら、私も何度か取材に行って、課長さんと面識があります。だから、私がご一緒しようと思って」


 その女性も、今後の覚悟ができたらしく、俊子に深々と頭を下げる。

「すみません先生……何から何まで」

「そんな、お気になさらないで。何事も人の縁、ヒグマと人も縁。私がこうして幸せに生きていられるのも、人との縁のおかげですから」

 お互い母親同士、気弱な後輩と頼りがいのある先輩、そんな視線を交わしていると、

「あと、トシコさん――石狩先生」

 田島嬢が、友達口調を途中から秘書口調に改め、

「私もこれから、こちらのお二人に同行してよろしいですか?」

「あらまあ」

 とまどう俊子に、牧村女史が説明した。

「この手の話は、初動が肝心なんです。つまり、お子さんたちを学校に迎えに行き、虐待の痕跡が薄れないうちに警察の方やお医者に見てもらったり、その後、本気で旦那さんの事情聴取や離婚の方向に動くなら、あちらが弁護士を立てる前に、お子さんたちをこの方のご実家に預けたり――私と奥さんだけでは手が足りません」


「なるほど、善は急げ。移動の脚だって必要ですものね」

 俊子は、あっさり納得した。

「じゃあ田島さん、車ごと、そちらに手を貸してさしあげて。私は電車で帰りますから」

「すみません先生、気をつけてくださいね」

 そう言いつつも、田島嬢の顔には、さほど心配の色がない。

 北海道の熊祭りで芸を見せていた娘時代、俊子はしばしば地下鉄で札幌の街を遊び回った。その頃の武勇伝を、田島嬢も聞いていたからである。

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