4 トシコさん、大いに語る

 女性の煮え切らない様子が、俊子には歯がゆかった。女性の身なりや化粧が上品に整いすぎているのも、かえって気になった。いわゆるヤンキー上がりの若いDQN夫婦、そんな単純な話ではない。


 男尊女卑の国で専業主婦の道を選んだ若い女性、しかも夫の稼ぎで子供を育てねばならない女性は、いまだに忍従という概念に縛られがちである。そして、妻子を一手に養うだけの甲斐性がある夫の中には、世間体だけは巧みにつくろえる男が少なくない。そう、家の外では立派な社会人を演じ、妻子にも自分の専有物として恥ずかしくない立派な装いを与え、しかしその衣装で隠せる部分には痛々しい内出血の痣を残せる、そんな男だ。無論、それは数多の夫婦関係の中の、ほんの一部にすぎないだろう。しかし一部には確実に存在するのである。


 俊子は、ステージの袖で控えている牧村女史と田島嬢に目配せした。

 演壇の陰に片手を下ろし、その手先と目線の動きで、二人に訴える。

〈この女性を、このままひとりで帰さないで〉


 牧村女史は、大手新聞社の文化部で活躍する女傑だから、その方面の出来事にも詳しい。田島嬢は専門外だが、現場系職業人として世間知を積んでいる。

 俊子の指示を敏感に受け止めた二人は、こそこそ相談したのち、こんな目顔と手振りを返してよこした。

〈了解しました。先生は適当に講演を締めてください〉


 俊子も手振りで、了解、と返し、

「――まあ、ここからの話も、人間の皆さんのご参考になるかどうか怪しいのですが、ここはあくまで、ヒグマの女としてお話ししましょう」

 先ほどの女性だけでなく、その場の聴衆全員に話題の対象を広げ、


「生きとし生ける者のどこからどこまでが『みんなおなじで、みんなふつう』なのか、場合によっては確かに難しい問題です。

 たとえば学校あるいは様々な生活集団の中で近年大きな問題になっている、いじめ行為。でも、そのどこまでがギリギリの遊びで、どこからが陰湿な加害行為か、それは本当に仕分けが難しいことですわね。

 一例をあげれば、そう、イルカさんたち――とても賢くて、人間にも友好的で、自然保護団体の方にも特に大事にされている、あの愛らしいイルカさんたちも、大自然の中では、元気な数頭が徒党を組んで一頭の弱いイルカを遊び半分にいじめている――そうとしか思えない姿が、明らかに観察されております。その状態を、他のイルカたちは咎めたりしません。つまりイルカの社会では、ただの遊びなのでしょうね。でも、船と並んで楽しく泳いでいるうちに、周りを数頭の強いイルカに囲まれて幅寄せを強要され、しかたなく硬い鉄の船腹をこすりながら泳がされる弱いイルカにとって、それは遊びでは済まない気もいたします。

 また、人間社会でときどき世間を騒がせる、子供を狙った通り魔事件。

 しかし大自然の中で生きる猿の群れの中でも、大人の猿がなんの落ち度もない幼い猿を突然地面に叩きつける、そんな出来事が何度か確認されております。どうやら動物というものは、知恵がつけばつくほど、自我の優位性にことさら執着する傾向があるらしいのですね。

 ですから私も正直、生きとし生ける者のどこからどこまでが『みんなおなじで、みんなふつう』なのかを、明確に規定する自信はありません。なにしろヒグマは、人間の皆さんやイルカさんやお猿さんほど、脳味噌が大きくないものですから」


 ここまで語ると、俊子ファンの聴衆も、さすがに真意がつかめずにとまどっている。

「ただ、知恵の足りないヒグマであればこそ、はっきりわかる仕分けがあります」

 俊子は背筋を正して言った。

「日曜の朝に、皆様に読んでいただきたいような話ではない――そんな理由で、今までエッセイに書いたことはなかったのですが――。

 私は幸いにして、動物園で優しい夫に出会い、いっしょに子供たちを育てる環境に恵まれました。でも、大自然の中で生まれ育った男のエゾヒグマは、人間社会にたとえれば、ほぼ全員がクズ男なのです。女と交わり自分の種をまいたら、すぐに姿を消してしまいます。出産も子育ても女に丸投げし、それまでの縄張りを捨てて、新しい女を探しに旅立ってしまうのですね。

 まあ、それだけならば他の野生動物にもありがちな話なのですが、ヒグマの男女関係には、もうひとつ厄介な問題があります。

 私どもヒグマの女は、一度出産したら、その子供たちを独り立ちさせるまで、まったく男との交わりを求めません。ところが男のヒグマは、のべつまくなし女に言い寄ってきます。もし近場に独身女性が見つからないときは、子育て中の女性にもしつこく言い寄ってきます。ところが先ほど申し上げたように、子育て中の母親は、ヒグマの本能として絶対に男を受け入れません。その結果、片思いの男がどんな忌まわしいストーカー行為に走るか――野生動物に詳しい方なら、ご存じかもしれませんね」


 聴衆の中には、続きを知っていて顔をしかめる者もいたが、ほとんどは興味津々の表情である。

「――そう、その母熊が育てている子熊を、ことごとく亡き者にしようとするのです。ときには食べてしまうこともあります。育てる子熊がいなくなれば、母熊もなしくずしに独身女性に戻りますからね。もちろん母熊は、懸命に子熊たちを守ろうとします。いかんせん男のヒグマは、女よりもはるかに大きくて屈強です。ですから多くの場合、母熊は子熊を失ってしまいます」


 知っていた少数派も、知らなかった多数派も、同じように眉をひそめている。

「そんな大自然の森の中、私が迷子の子熊として人に保護されてからの話は、すでにエッセイに書きましたから、皆さんもご存じかと思います。でも実は、あえてまだ一度も書いていない、その前の話がございます。それもまた日曜の朝に読んでいただくような話ではありませんし、これからも書く気はありません。でも、わざわざここまで足を運んでくださった皆様にだけは、あえて聞いていただきましょう」

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