3 トシコさん、吼える

 講演会は専用のイベント・ルームで行われた。

 聴衆は専業主婦が大半で、さっきのサイン会とは違い、むしろ新聞社主催の教養講座、そんな雰囲気である。


「――ですから先頃の連載で、あえて私が金子みすず先生の『わたしと小鳥とすずと』でうたわれている有名なフレーズ、あの『みんなちがって、みんないい』が好きではない、むしろ『みんなおなじで、みんなふつう』なのではないかと書いたのは、その後に殺到した苦情の投書やネットの炎上で騒がれたような全体主義、没個性的な意味ではけしてないのです。

 私のつたない随筆を愛読してくださる皆様なら、きっとご理解いただけていると思いますが、それぞれちがっているものを『みんないい』と言い切る感覚は、かえって調和を重んじる日本人になじまない、あまりにも西欧的な画一的個人主義に思われるのですね。

 この世界には、確かに金子みすず先生がいて、小鳥がいて、鈴があります。しかし必ずしも金子先生の感性を鵜呑みにできない私というヒグマがおり、空を飛び回る小鳥に恐れおののく虫がおり、鈴の音を陰鬱と感じて嫌う人もいる。

『みんないい』ではないのです。

 たとえば、近頃なにかと話題にあがるLGBTQ、あるいは世界各地で根深い紛争の元になっている宗教的原理主義――。

 感覚的にゲイを嫌う殿方が、世間体を気にして「ゲイはいい」と公言するのは、むしろ欺瞞にすぎません。アラーが世界の創造主であると信じる方々に、お釈迦様の教えを説いても無駄ですわね。場合によっては、違った「いい」と違った「いい」の間で、喧嘩になってしまいます。

 ですから私、こう考えているのです。そもそも『みんなちがって』はいない。『みんなおなじ』なのです。そして『みんないい』は、むしろ西欧的個人主義に偏った欺瞞であり、ほんとうは『みんなふつう』なのだ、そう思っております。

 Lの方もGの方もBの方もTの方もQの方も、みんな同じふつうの人間なのです。キリストを信じようとアラーを信じようと仏陀を信じようと、みんな同じふつうの人間なのです。

 女も男も妻も夫も同じふつうの人間、そして人間もヒグマも、小鳥も犬も猫も狐も狸も、この地球に生きとし生ける者すべて――のみならず、かわいらしい鈴やきらきらのビー玉、お月様や太陽のような宇宙の星々、つまり自身の心をもたないこの宇宙の森羅万象――それらのすべてが『みんなおなじで、みんなふつう』なのだ――そうとらえることが、『みんなちがって、みんないい』よりも遙かにおおらかな、なんと申しましょうか、近頃の社会に不足しがちな穏やかで健やかな感性――日本語で言うところの『なごみ』、あるいは『ゆるみ』――そんな平和的な感性に通じる道なのではないかと、私には思えてなりません」


 そんな結びで一時間あまりの講演を終えると、もともと俊子の愛読者である聴衆からは、盛大な、しかしけして野放図ではない拍手が起こった。

 その後三十分ほど、質疑応答形式での懇談が行われる。


 和やかな懇談のなかば、他の客よりもやや若い女性が、俊子に訊ねた。

「私も、世の中が『みんなおなじで、みんなふつう』なら、どんなにいいかと思うんですけど……でも、やっぱり『ちがいすぎて悪い』方々も、現実の社会には時々いますよね。石狩先生の周りにも、きっといると思うんです。先生はそうした方々に、どう接していらっしゃるんですか」

 俊子は率直に答えた。

「あなたの参考になるかどうかは微妙ですが、私なら吼えます」

「……ほえる?」

「はい。吼えます。――つい先日、私どもの一家が動物園で本業にいそしんでいたとき、私の娘たちに、いきなり石を投げつけた酔っぱらいがおりました。私、岩場の壁を力いっぱい駆け上がり、酔っぱらいの目の前で、このように吼えました」


 ぐおおおおおおお――。


 大型の野獣の咆吼が、講演会場の隅々まで、低周波のように空気を震わせる。

 気圧されて沈黙する聴衆に、

「――まあ、これくらい吼えておけば、あの酔漢も二度とヒグマに石を投げようなどとは考えないでしょう。動物園なら吼えられるだけですが、森の中では生きて帰れませんものね」

 もともと俊子の愛読者である客たちは、一転、どっと笑った。

 そうそう、こーゆー芸風が石狩先生の真骨頂なのよ――そんなノリである。


 しかし、先ほど質問してきた女性は、あまり浮かない様子で言った。

「……人間の主婦も、先生ほど声が通ればいいんですが」

 その切実な表情に、俊子は好奇心以上の不安を覚え、

「よろしかったら、詳しい話を聞かせていただけます?」

「いえ、あの……私ではなくて私の友人、いわゆるママ友の方の話なんですが……その、夫のDVで悩んでいるみたいで」

 実は当人の話だな、と俊子は察した。他人の旦那なら、夫とは表現しないはずだ。

「あらまあ、それは大変ですわねえ。あなたのお友達の旦那さんなら、そうそう非常識な方とも思えませんが、いわゆる言葉の暴力なのかしら」

「いえ……」

「つまり、殴る蹴るの暴力ですか?」

「……はい」

 女性は思いきったように、

「自分だけならがまんできる……そう友人は言うんですが、まだ小学生の子供たちにも、ときどき、ひどくつらく当たると……」

「それなら迷うことはありません。警察の生活安全課、それとも配偶者暴力支援センターとか、近頃は親身に相談にのってくださいますよ。自分で吼えられなかったら、他の方に吼えていただけばよろしいわ」

「でも……その友人にも、色々事情があるみたいで……」

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