第48話・許嫁、妬ける
その姿を見て抱いた感想は、『意外』だった。
ランニングウェアに身を包んだ氷浦は、その運動神経が滲み出るように凛と輝いてあまりに眩しい。
私は機能性はもちろん重視したけど、その次か同じくらいに可愛いさも求めていた。おかげで自分が着たときはちょっとテンションが上がるくらい可愛い服だと、思っていた。
けれど――身に纏った瞬間から、そして準備運動をしてウォーキング、ランニングと事が運んでいく中、氷浦はずっと、格好良い。
これがこの服の真価だったのかと、私の少し前を走る氷浦の後ろ姿を眺めながら痛感した。
制服を着れば優等生、ランニングウェアを着ればアスリート、部屋着を着ているときですら良妻。改めて氷浦帷の隙の無さに感服しながら、私は――
「……ちょ……あの、氷浦……休憩……」
「? っ! 大丈夫ですか、凛菜さん」
――限界を、迎えた。
「だいじょぶ……だけど……氷浦が余裕過ぎて申し訳ない……」
「そんな! 私のペースが配分が良くなかったです……」
一緒に走ることになった初日から、既に出来ている自分のフォームで軽々と身をこなし突き進む氷浦。まだトレーニングを始めたばかりの私は、ものの見事に足を引っ張ってしまった。
「次は凛菜さんにペースメーカーをお願いしてもよろしいですか?」
公園のベンチに腰掛け、私の汗を拭いながら氷浦が問う。叱責も同情も感じさせない、優しい声音。
「私の遅さじゃ……氷浦、走ってて退屈でしょ?」
「そんなことありません。私だって凛菜さんの背中を見ながら走りたいです」
私が氷浦の真後ろについたのは、なんとなく、歩道を走るにあたって広がるのが嫌だっただけ。別に背中が見たかったわけじゃない。『私だって』とは随分なもの言いだ。……まぁ、眼福だったけど。
「じゃあ次、本番の練習しよっか」
ようやく呼吸は落ち着きを取り戻したので、体が冷えてしまう前に次のメニューへ移ろうと提案すれば――
「本番の練習!? ですか!?」
――飛び跳ねるように驚く氷浦。なんで?
「う、うん……二人三脚の」
「あぁ、そっちですか……」
そっちってどっちだ。まぁ、どうせ変なことを考えていたんだろうけど。そしてその変なことについて考察する時間は、今はない。
「……」
「……」
立ち上がり、隣り合う。どちらからともなく密着し、腰に腕を回す。初日だから足を結ぶことはせず、結んでいる
「……」
「……」
公園と言ってもまだ朝早く、あちこちから目覚まし時計と小鳥のさえずりがチラホラ聞こえてくる程度の静寂に包まれている。
掛け声を出すのは憚られ、私達は無言で、ただ淡々と、交互に足を踏み出し続けた。
「……」
「……」
動く度に、氷浦の指先が、私の脇腹に食い込む。氷浦の腰は私の指先が食い込む余地などほとんどなくて、変なところで恥ずかしくなる。
軽く頭を振って雑念を弾き、呼吸に集中する。
氷浦のペースに合わせようとしたけれど、たぶん、氷浦の方が完璧に私に合わせてくれるかなと思い速度を上げた。案の定、彼女の左足は私の右足と完璧に重なって動き、たとえ紐が
「……」
「……」
段々と、不思議な感覚に体が包まれていく。ランナーズハイとはきっと全然関係ない心地よさ。
混ざり合っていく。呼吸の音が重なり、同じペースでただ前に向かって走り、体温が同じになっていく。シャンプーも汗の匂いも気にならない。夜明けを知らせる木漏れ日に照らされ、朝を告げる涼風が背中を押す。
「……凛菜さん、もう、そろそろ……」
「うん……わかってる」
当初予定していたよりも五周も多く公園内を走り、完全に疲れ果てた私はベンチに座りながら、なおも氷浦を離さなかった。離したくなかった。離れることが怖かった。おかしいとは思う。さっきまで二つだったものが一つになって、また二つに戻るだけだというのに。
「ちょっとくらい、遅刻、しちゃいましょうか」
「……イジワル」
氷浦のこういう、大人びた優しさは本当にイジワルだと思う。彼女は私が離れなくないことに気づいている。そして氷浦もそれを知っているからこそ離れようとはしないだろう。けれどそのせいで遅刻をしたら私が自責の念にかられることもわかっている。だから……私が否定するような提案をあえてするんだ。本当に、本当に、イジワルで……好きで、たまらなくなる。
「ありがとう。帰ろう、氷浦」
「はい」
フッと。意を決して彼女から離れて立ち上がり歩き出すと、続く氷浦がさらりと私の右手をさらい、指を絡めて微笑んだ。
×
「な”っ……なに、を……!」
放課後。部活に所属していない私は、同じく帰宅部の友人に頼み、グランドのすみっコで二人三脚の練習に励んでいる。
そこへ通りかかった、生徒会メンバーに囲まれている氷浦は、私達を見るや否やなんだかすごい声を出してみせた。
「なにを……しているのですか……凛菜さん……?」
学内施設や部活の活動状況の視察をしているのだろう、と、私が氷浦の現状態を推測したように――
「何って……ストレッチだけど……」
――彼女だって今の私の姿を見れば、そんなこと簡単にわかるだろうに。
「そんなことは見ればわかります!」
じゃあ聞かないで。
「そういうことではなく……わかりました。凛菜さんはいいです。甘楽さん! どういうことですか!」
何故か矛先はわざわざ付き合ってくれている
「見てのとおり、ストレッチだよ氷浦ちゃん!」
当然、私と同様の答えを返す甘楽。この質疑応答になんの意味があるのか……。
「むぬぬ……むぬぬぬぬ……!」
氷浦は取り巻きの生徒会メンバーを置き去りにしてこちらへ近づいてくると、美術館の展示品を見るように甘楽を睨め回した。失礼だからやめて。
「甘楽さん……顔、赤いですよ」
「あ、赤くないよ! 全然! いつもどおりだよ!」
「なんだか……呼吸も変に荒くないですか?」
「あ、荒くない荒くない!」
氷浦の言いがかりに、何故か動揺の素振りを見せる甘楽。もー優しいなぁ。こういうのはバシっと言えばいい。
「準備運動してるんだから何もおかしくないでしょ」
「そ、そうだそうだー!」
「甘楽さん……まさか全っっっっっ然諦めてないんですか……!? 私と凛菜さんは「そ、それとこれとは話が別だもん。私は今、凛菜ちゃんの二人三脚の練習相手なだけで……」
「そう。それにまだストレッチの段階。ほら、氷浦も忙しいんでしょ? 行きなよ」
今朝実感した、氷浦との差。少しでも埋めるために時間は有効に使いたい。
「
ダメの範囲が広すぎる……。そんな雑な言葉狩りがあってたまるか。
「会長、行きましょう」
全く足音を立てずに、いつの間にか氷浦の真横に立っていたのは確か……副会長さん。抑揚のない声でそう告げると、氷浦の左肘を掴んでグィと引っ張り促した。
「っ」
「……」
銀縁メガネの奥で静かに燻る副会長さんの視線が、私を品定めするように一瞥する。反射的に、ムキになって私も眼力を込める。二ヶ月前の私だったら考えられない行動。
やがて再び続々と生徒会メンバーに囲まれ、いよいよ動かざるをえなくなった氷浦は、遠ざかりながら叫ぶ。
「ダメですからね! あんまりくっつき過ぎたらダメですからね!!」
「はいはい」
……自分だって……
「ごめんね甘楽、続けよっか」
「うん。……あのね、凛菜ちゃん」
「なに?」
「…………~~~! やっぱなんでもない! やろっ!」
「うん」
数々の運動部で磨かれた甘楽の体は引き締まっていて、たぶん、性別関係なく惹き付ける美ボディーだと思う。朝感じた格好良さという観点でも、街頭アンケートを取ったら氷浦といい勝負をするかもしれない。
だけど、彼女といくらストレッチをしても身を引き寄せあっても、緊張したり高揚することはない。ニュートラルなままで練習に励める。
「「いっち、に、いっち、に……」」
今朝みたいなトレーニングを氷浦と続けていくなら、体だけじゃなくて心も鍛えていかなくちゃなぁ、なんて思いながら――
「もう一回、行ける?」
「もっちろん!」
――グランドにいる運動部が片付けを始めるまで、私達は走り続けた。無言ではペースが合わず、掛け声を出して合わせることに、少しだけ、モヤモヤしながら。
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