第47話・許嫁、纏わる
森閑とした帰路を、氷浦の手を繋ぎながら歩く。梅雨の湿気が混じった生ぬるい風と全身を優しく包む疲労感が夢見心地に思わせるけれど、手のひらから伝わる体温が私と現実を繋ぎ止めている。
「あっ」
自宅のあるマンションに差し掛かった辺りで、同じようにまったりと歩いていた氷浦が表情を尖らせ小さく声を上げた。
「あのナンバー……」
彼女の視線の先にあるのは、エントランス前に停められた一台の車。点滅するハザードランプが
「おかえり」
訝しがる私の一歩前を進む氷浦。やがてすぐ近くまでたどり着くと、見計らったようにドアが開いて人影が降りてくる。
「やっぱり。今度は
「そう辟易しないでおくれよ。……元気だったかい? 帳」
「ええ。
「だろうね。桜子さんと楓子さんから連絡があったんだ。バカが暴走しているからお灸を据えてやってほしいと」
「お二方ともそんな言い方はしていないでしょうに……」
すっかり置いてけぼりにされたまま、会話の行方を見守る。察するにもう一人のお姉さんだろう。匝さんの前でもそうだったけど、少し拗ねたように喋る氷浦から滲み出る
「おっと。宵倉さん、挨拶が遅れてしまって申し訳ない。私は氷浦
「は、初めまして。宵倉凛菜です」
視線が合うや否や突然会話が始まり慌てて頭を下げると、帥さんは「そうかしこまらないで」と柔らかい口調で言ってくれた。
「匝が迷惑を掛けたね。本当にすまなかった」
「いえ」
氷浦からの分も考えると私は謝られ過ぎだ。匝さんにも勘違いはあったにせよ、大本の原因は私の思慮不足なんだから。
「あの子は……まぁ頭は良いんだけれど……バカなんだ」
ものすごく矛盾した紹介にクエスチョンマークを浮かべる私を見て軽く微笑み、帥さんは続ける。
「勉強はできるんだけどね、人の心がまるでわかってない。……悪気はないんだけれど……それがまた
「……善人でもない気がしますが」
「おぉっと、こんなに不機嫌な帳は初めて見た」
私も初めて見た。氷浦でさえも、やっぱり身内だと苛立ちとか不満とか発露しやすいんだろうか。……というか……良い意味で甘えてる感じがする。……その感じ……いつか私にも出してほしいな……。
「今回も褒められた行動をしていないのは知ってる。けどね、二人のことを思ってというのは真実だろうし、宵倉さんとも仲良くしたがっている。本当だよ、気乗りしないだろうけど……謝罪を聞いてやってくれないかい?」
帥さんは視線を車にやる。えっ、そこにいるの? 匝さん。なんとなく再会するのずっと先だと思ってた……。
「凛菜さん、嫌なら大丈夫ですよ」
「……ううん。私もちゃんと、話したいから」
正直に言えば、怖い。匝さんの視線には、言葉には、今までの人生で味わったことのない敵意がある気がするから。それでも、私は――氷浦の家族になりたい。できることなら、氷浦が既に持っている関係性を一つも損ねることなく、円満な家族に。そのためにできることはなんだってやる覚悟なら、もうできてる。
×
「うぃ」
帥さんが開いてくれたドアから後部座席に座ると、すぐ隣にいる匝さんが、こちらを見ないまま――反対側の窓の外を見ながら――小さく手を上げる。
「こんばんは」
「はぁ。さっきぶり過ぎてどんな顔したらいいのかわからなくない? お互いに」
「はは、は……」
それはそう。良かった、この辺りの感性は同じらしい。
「ビックリしたよぉ、本当に。空港でいきなり捕縛されちゃってさぁ」
えぇ……氷浦家ネットワーク迅速過ぎない……? わかっちゃいたけど絶対敵に回しちゃいけない組織じゃん。
「帥ちゃんから謝れって言われたんだけどさぁ、人から強制されてする謝罪とか超無意味って思わない?」
思う。あぁ、びっくりする程こういうフィーリングが合ってしまう……。
「でも」
ふいにこちらを見た匝さんはこちらへ手を伸ばし、指先で私の目元をなぞった。
「泣かしちゃったみたいだね。それは謝る。ごめん」
「……いえ、元はと言えば私が能天気だったせいなので。こちらこそすみませんでした」
言った。言えた。私の言いたいことは伝えた。ミッションコンプリート。あとはもう徹底的に防御だ。心を守る。これからは絶対に泣かない。氷浦の涙を、もう絶対に見たくないから。
「そうやって下に出られるとすんごい悪者になった気分」
「す、すみません」
「はぁ……」
反射的に謝罪が口から出てしまった私に、大げさなため息を見せつけたあと匝さんは問うた。
「凛菜ちゃんはさ、宝物、ある?」
聞かれて、パッと思いつく物品は存在しなかった。それでも、脳内を駆け巡ったものは――二人で築き上げてきた幸せな記憶は――間違いなく、私の宝物だ。
「あります」
「ふぅん。……それって、帳ちゃん?」
「氷浦にまつわる、全てです」
「……そ。…………ふぅ~ん。じゃ、まぁ……いいか」
私の解答を受けて再び顔を反対側に向けてしまった匝さん。けれどその声音の棘は少し削がれたような気がする。
「……今月末、体育祭って聞いたけど? 大丈夫なのかにゃ? わかってるよね、凛菜ちゃん」
それについては私もここ最近、常に考えている。匝さんからしたら体育祭なんてどうでもいいのだろう。大事なのは今月末。6月、30日。
「ええ」
「最高の日にしてあげなよ」
「そのつもりです」
私の返答を最後に、車内は重力が増し酸素が薄くなる程の沈黙に包まれた。私から何か切り出した方がいいんだろうか、それとももう降りた方がいい……? なんて考えあぐねながらなんとか呼吸をしていると、匝さんの口が開かれる。
「凛菜ちゃん」
「なんでしょう」
「信じてるから」
氷浦と同じ色の匝さんの瞳が、格別の威風を纏って私を捉える。思わず
「帳ちゃんにまつわる全てが宝物って言葉、信じてるからね」
――続いたその言葉が私の全身を熱くさせ、心からスッと、釈然とした声が出た。
「はい。それだけは、自信を持って言えます」
×
凛菜さん……大丈夫でしょうか……ああは言っていましたが私が止めるべきだったのでは……。
関係者ですら匝姉さんと二人きりなんて避けたがるのに! やはり今からでも乗り込んで……!
「宵倉さんとの暮らしは順調かい?」
動き出した私を制するように、帥姉さんが問いました。うぐぐ……どこまで見通されているのでしょうか……!
「順調ですよ。幸せすぎて……不安に思う日があるくらいに」
「ははは、いいことじゃないか。人は何かを手に入れたり壊すよりも、守るための方が強い力を発揮する。というよりも自然な機能だね、ホメオスタシスという言葉を知っているかい? あれは「帥姉さん……難しい話はまた今度に……」
凛菜さん程ではないにしろ私も、積極的に頭を使いたいとは思えないくらいには疲れています。
「おっと。そうだね、今度にしよう」
あぁ、余計なことを言いました。これは今度本当に難しい講義をされるパターンです……帥姉さんはそういう人なんです……。
「氷浦家のあれこれは私と匝に任せて、帳は宵倉さんとの幸せを一番に考えておくれ。今日伝えるのはこのくらいにしておく」
「ありがとうございます。けれど、お言葉ですが元よりそのつもりです」
「ふふふ。帳のそういうところ、本当にかわいいなぁ。匝が溺愛するのも正直、姉としてかなり共感できてしまう」
ぞっとするようなことを言わないでください。心配してくださるのは有り難いですけれど……匝姉さんみたいな人が二人もいる世界なんて想像したくもありません……!
「おや、終わったようだね」
真っ暗闇が裂けるように車のドアが開き、凛菜さんが降りてこちらへ歩いてきます。心なしか清々しい表情をされているようで、ホッと一安心です。
「それじゃ、また今度。元気でね、帳」
「はい。帥姉さんもお元気で。……一応、匝姉さんも」
「ふふ、伝えておく。きっと喜ぶよ」
帥姉さんも車の方へと歩き出し、凛菜さんとすれ違う際に一言だけ残して車に乗り込みました。
「宵倉さん、帳を頼んだよ」
「は、はいっ」
運転席に乗り込んだ帥姉さんがエンジンを掛け、車はゆったりと動き始めます。運転手さんを雇わないのは、あらゆることを人に任せる(人を使う)匝姉さんと違い、あらゆることを自分で行いたい性分の帥姉さんらしいです。
「凛菜ちゃん」
開いた窓から――どこか機嫌の良さそうな――匝姉さんが顔を覗かせ、小さく手を振りながら言います。
「正式に
「あ、ありがとうございま「結構です!!」
「あはは、つれない妹達だなぁ。またねー!」
ありがた迷惑な匝姉さんの提案に頭を下げようとした凛菜さんを止め、笑い声と共に遠のいていくテールランプを見送って私達はようやく、平穏の訪れを実感しました。
×
「あのね、氷浦」
オートロックのドアを解錠し、自宅に戻るためマンションのエレベーターに乗ってすぐ、凛菜さんが私の左手に右手を絡ませて……くださいました……! この感触、この感覚……何度味わっても高揚と安心が同時に押し寄せて幸福で胸がいっぱいになります……!!
「氷浦にね、二つお願いがあるの」
「なんでしょう」
そうあらたまらなくたって……凛菜さんのお願いなら私、何でもOKできちゃいますよ??
「一つは……朝もちょっと話したけど、体力が余裕ある時だけでいいからランニングに付き合ってほしい」
「もちろんです!」
なんてったってお揃いのウェアですもんね! もはやデートじゃないですか! 毎朝凛菜さんとランニングデート……! こちらとしても望むところ過ぎます……!!
「それともう一つはね、今日から……」
今日から……? えっ、もしかして今日から毎日一緒に寝ない? 的なアレですか……!? えー、そんなことお願いされちゃったら私……私……!
「今日から絶対、私の部屋に入ってこないで」
「!?!?!???!!?」
え? はい? えっ、え? なん……アレ? 何でもOKって……ええ、まぁ、思ってましたけど……え、ちょ……っと、それは……あの、えぇ……?
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