第46話・許嫁、隠れる
「ありえません」
私の問いに、一拍も置かずにそう答えた氷浦の声は――
「凛菜さんの努力やお父様の頑張りが無意味だったなんて、そんなことは絶対にありえません」
――今まで聞いたことがない程の、怒りに満ちて重く響いた。
「だけど…………」
これまで無意識に蓋をしていた記憶が――自分のことでいっぱいいっぱいになり周囲と上手く馴染めなかった過去や、見てみないふりをした孤独――が、
「氷浦……教えて。私達の当たり前は、どうして当たり前になったの?」
惨めなくらい、涙が溢れて上手く喋れない。訥々と言葉を紡ぎながら
「お話します。ちゃんと。……でも……ちょっと、待ってくださいね」
一粒、氷浦の瞳から涙が零れ落ちて。
「ちょっとだけ待ってください。すぐに……お話しますから」
一粒、また一粒と、涙の雫が彼女の輪郭を伝って
それから私がもう一度瞬きをする頃には、氷浦は全身を揺らして泣き
「どうして、氷浦が泣くの?」
彼女の泣き顔なんて見たくない。心臓が裂けるように痛い。その痛みが、私の落涙に拍車をかけていく。
「だって……凛菜さんが……泣いてるから……」
「っ」
氷浦は……今の私を想って涙を流しているんだ。過去の自分に取り憑かれて取り乱している私とは違う。
「絶対……凛菜さんを泣かすようなことはしないって……誓ったのに……私……」
私はなんて……なんて自分勝手で、最低なんだろう。
「ごめん、ごめんね氷浦。私……バカだ。ちゃんと氷浦の話を聞く前に……勝手に不安になって、八つ当たりした」
「私だって凛菜さんを不安にさせてしまって……本当にごめんなさい。凛菜さん、お願い……泣かないで」
その声音が、表情が、私を不安にさせまいとして気丈に浮かべた笑顔が、あまりにも優しくて。抵抗虚しく涙腺の熱は増すばかり。いよいよ私の体からも力が抜け、どちらからともなくベッドに倒れる。
そっと伸ばされた両腕に気づき、頭を軽く起こすとすぐさま、氷浦は包み込むように、私を抱きしめた。
×
「……」
瞼が腫れぼったくて重い。いつぶりに味わう感覚だろう。窓の外は宵闇に覆われているけれど、私達の体勢は寝落ちる前と寸分違わず、縋り合うように寄り添ったまま。
彼女の存在を確かめるように、更に強く抱きしめ、更に深く体を沈ませた。
「おはようございます、凛菜さん」
「……起きてたの?」
「少し前に」
「……苦しい?」
「少し。でもこの苦しさは私の特権ですから」
「……そう。なら、もうちょっとこうさせて」
「はい。喜んで」
あれだけ慌てふためいた姿を見せてしまった手前、どんな顔をしてどんな風に喋ればいいのかわからない。
「凛菜さん、落ち着いたらで結構ですので……お散歩に行きませんか?」
私の背中をあやすようにさすりながら、氷浦はゆったりと、そう提案した。
「ここ最近、夜風が心地良くて。凛菜さんと二人で歩きたいと思っていたんです」
「いいよ。もうちょっとしたらね」
「はい。私としては今日でなくとも――「――よし、行こっか」
これでもかと力を込めて彼女を抱きしめた後、私を優しく見下ろしていた氷浦の唇を一瞬だけ奪う。
氷浦は
×
「なるほど」
大きな川沿いの道を、手を繋ぎながら歩く。氷浦の言っていた通り、夜風は火照った全身の熱を梳くように流れていく。
「匝姉さんの憶測です。しかも、とんだ見当違いの」
私が匝さんから言われたことについて聞かれたのでありのまま伝えると、氷浦は再び怒りを孕んだ声で言った。
「氷浦家の
突然足を止めて私の瞳をジッと見つめると、ふいに表情を柔らかくして――
「もちろん、凛菜さんのことですよ」
――そう言い切られ心臓が甘く高鳴った瞬間、氷浦の唇が掠るように私の唇と触れた。
見事な意趣返しに言葉を失った私を見やり「お返しです」と明るく言ったと思えば、すぐに真剣な声音に切り替えた氷浦。
「今現在でも……政略結婚と呼べる程露骨でなくとも、利潤を生み出すため、愛よりもお金に重きをおいた婚約というのは……実はまだまだ存在するんです。お父様は自由恋愛に理解がある人ですが、お祖父様やお祖母様は氷浦家の繁栄に固執していますから。お父様には、どうか味方になってくださいとお願いしたのです」
氷浦家の令嬢に相応しい話のスケールで怯みそうになった私を察してか、氷浦は握る手の力を強めた。
「匝姉さんの言う通り、凛菜さんのお父様が経営されている工場と氷浦家は繋がりがあります。しかしそれは、私がお父様と約束を交わす前からある由緒正しき間柄です。もっと言ってしまえば、私のお父様と凛菜さんのお父様は個人的にも仲が良いそうですよ、踏み込んでお話を伺ったことはありませんが。私は……凛菜さんのお傍にいられればそれで良かったので……」
……ん、それって……これまでの話を整理するとつまり……。
「……もしかして『許嫁』ってさ、氷浦が提案したことじゃなくて」
「……はい。凛菜さんと初めてお会いした日、私はお父様から『絶対嬉しいことがあるから行っておいで』とだけ言われていたんです。そうしたら……凛菜さんが来てくださって……そして……い、許嫁、と……」
これは……お父さんにも話を聞く必要がありそうだ。口下手な人っていうのは理解しているけど、まさか経緯が複雑過ぎて言語化を諦めて土下座したわけ……ない、よね。それかシンプル過ぎたか。いやいや憶測はやめよう、ロクなことにならない。ちゃんと話を聞かなくちゃ。
「……私がお話できることはこれくらいなのですが……なにか他に、聞きたいことはありますか?」
「ううん、もうない。ありがとう。……いろいろあって頭疲れちゃった」
「そ、そうですよね! 凛菜さん、朝からランニングして、アルバイトして……それで今ですものね」
「そう。朝は氷浦から服について指摘されたし」
まだわからないことはあるけれど、それでもどこか重荷を捨て去ったような爽快感で体が軽い。表情から察するに、きっと、氷浦も。
「んぐっ……それはその……本当に申し訳ないというか……」
「本当に申し訳ないと思ってる?」
何を考えるわけでもなく氷浦の手を引いて、舗装されていた歩道から坂を下って河川敷へ。そしてローカル線の走る高架下までやってきた。
「思っています! 私のせいで……「それなら」
電車が揺れる音。線路が擦れる音。川が流れる音。生き物たちの声。そして、月を覆う叢雲が生んだ宵闇は、甲斐甲斐しく私達を世界から隠す。
「っ」
「……あとは、わかるでしょ」
先程までの、お互いを挑発するような軽い口づけではなく、切実に、氷浦を求めて唇を押し付けると――
「やめてって言われても、止まりませんから」
――彼女の瞳から所在なさげな
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