第45話・許嫁、乱れる
『凛菜さん、すみません』
恐ろしく混む日曜日のアルバイト、なんとか午前を終えてお昼休憩中、そのメッセージは訪れた。
『どうしたの?』
『本日なのですが……お迎えにいけなさそうで……』
ありゃ。期待していただけにちょぴっとガッカリ、だけど、それ以上に。
『りょ。なんかトラブルとか? 大丈夫?』
こんなこと滅多にないから心配が
『大丈夫です!』
……もっと踏み込んだ方がいいのかな……いやでも氷浦が明言しないってことはそういうことなんだろうし……。
『あれだったら早退するよ。なんか買って帰ろうか?』
『いえ! ご心配をお掛けして申し訳ございません。本日は……凛菜さんのお帰りを大人しくお待ちしております』
『はーい。何かあったらすぐ連絡してね』
……なんだろう。やばい、普通に心配だ。
午前中は、バイト終わりに待っている氷浦との買い物を楽しみに頑張れたけど……午後は何を糧にすればいいんだろう……。
×
全くもって身が入らなかった。接客の反応は遅れ、品出しの棚を間違え、レジ打ちでミスり、ラッピングも二枚破っちゃったし……。根幹が、完全に揺さぶられている。
彼女の存在が与えてくれるプラスの力は日々実感していたけれど、まさかこうもマイナスに働く日がくるなんて。いや、今はそんなことどうでもいい。とにかく今は家にダッシュ。ランニングの成果を見せる時!
「ただいま!」
駅から自宅までノンストップで走り抜け自宅のドアを開けて飛び込むと――
「おかえりなさ~い」
――私の許嫁ではない女性が、リビングから顔を覗かせた。
「っ、ど、どちら様……ですか?」
ひと目見ただけで概ねは理解できた。けれど、確信はないので一応聞いてみる。
「あはは、わかってる癖に。私が帳ちゃんのお姉ちゃんじゃなかったら不審者もいいところじゃん」
やっぱり! 少し前だけど、お姉さんいるって聞いてて良かった。でも確か二人いるって言ってたような……この方は長女さんかな、次女さんかな。
「はじめまして凛菜ちゃん。
「匝さん。はじめまして、
血筋ってすごいな……すぐわかったもん。氷浦や
「えと、氷浦は……?」
「ふぅん。許嫁同士で同棲してるのに名字で呼んでるんだ」
少し、匝さんの瞳が意地悪に吊り上がった瞬間を、見逃さなかった。
「……あの……それは」
「私ね、凛菜ちゃん。
「は、はい」
柔和な雰囲気はどこへやら。なんていう威圧感。いくつ年上なんだろう、普通に大人の人に怒られてる感じがして怖い……。
「でもね、大学と仕事の関係でこれからはあんまり日本にいられなくなっちゃったから……心残りをなるべく無くしておきたいの。つまりね、凛菜ちゃんが帳ちゃんの許嫁に相応しいか知りたいなぁって、思ってね」
あれ、なんかこの流れ少し前にあったような……。
×
「帳ちゃんには出てってもらってるよ。二人きりでお話したいからね」
何故か氷浦の部屋に連れ込まれ、二人してベッドに腰掛けて始まった会話――というよりは、尋問?
「それで……凛菜ちゃんは帳ちゃんがどれだけ頑張って今の環境を用意したか、知ってるのかにゃ?」
……にゃ?
にへら、と笑いながら問う匝さん。流石に空気が重すぎることに配慮してくれたんだろうか……?
と、いうか……。
「……
質問に、答えられない。
氷浦がどれだけ頑張って今の環境を用意したのか――わからない。
今まで、この幸せな状態が存在することに疑問すら覚えなかった。
でも、そうだ、最初の頃は疑問符だらけだったはず。父の土下座から始まって、氷浦に出会って、同棲が始まって……。だけどその居心地の良さに不安は疑問は薄れ、今ある当たり前が、どうして当たり前であるかなんて、もう考えてもいなくなっていた。
「……」
「考えもしなかったって顔だねぇ」
「私、は……」
匝さんはこちらを見ていないのに、私の表情を言い当てた。そして部屋をゆっくりと見渡したあと、同じくらいゆっくり、言葉を続ける。
「……帳ちゃんらしいねぇ。流石は私の妹だよ。きっと凛菜ちゃんと一緒に生活することがゴールじゃなかったんだね」
「それは……どういう……?」
「ごめんね、どうしても私は帳ちゃんを贔屓目で見ちゃうけど、凛菜ちゃんにだっていろいろあったんでしょう? だから凛菜ちゃんにそれ以上煩わせないよう、帳ちゃんが努力し続けたってことが今、なんとなくわかった」
張り詰めていた空気がたるみ呼吸は楽になったけれど、なんの解決にも解答にもなっていない。
「氷浦家ってさぁ~完全に実力主義なんだ。年齢関係なく、実力があれば自由が得られる。ちょっと前に帛ちゃんがここに遊びに来たんでしょう? それだって帛ちゃんがまず学校とかの……社会的機関で一定の評価をされた上で、父に訪問の重要性をプレゼンして住所を教えてもらったんだと思うんだよね」
「……?」
「わからない? 帳ちゃんが今こういう生活してるのはそういうことだよ。小学生の時分から勉学やスポーツにおいてずば抜けた成績を収め父にプレゼンする機会を得て、凛菜ちゃんのお父さんが経営してた工場に出資するメリット――つまりは氷浦家の利潤が生まれる証拠を提示したってこと。……許嫁云々は帳ちゃんが提案しそうにもないし親同士で話し合いがあったっぽいけど」
――――は?
「……ちょっと、待ってください。それ、本当なんですか? 氷浦の働きかけで……父の工場が好転したんですか?」
「んにゃ~、本当かどうかは知らない。でも結果から見たらこれが一番現実的かな~って」
「…………」
整理が、つかない。待って。そもそも私今、何にショックを受けてるの? 今渦巻いてるこの感情はなに? 匝さんは私にこんなことを伝えてなにがしたいの?
「可哀想に。フリーズしちゃった? お姉ちゃんがよしよししてあげようねぇ」
立ち上がった匝さんが正面に来て、私の頭を優しく抱え込む。高級そうなジャケットに包まれた柔らかい胸部から、慣れ親しんだ、氷浦の香りがする。
「そこまでです匝姉さん!」
玄関から始まった慌ただしい音があっという間にこの部屋まで到達し、開かれたドアから氷浦が姿を見せた。
「っ! 離れてください!」
すぐさまこちらへ駆け寄った氷浦は私と匝さんを分断したあと、間に入って声を荒げる。
「また卑怯な手を使って!
「あはは、そんな
「今日の件は
「おーこわ。またしばらく日本には戻れないや~」
ひらひらと。氷浦の剣幕を受け流しながら答える匝さんは、ドアまで近づくと半身になって私達を見やり――
「バイバイ、凛菜ちゃん、帳ちゃん」
――微笑み混じりにそれだけ言うと、緩慢とした足取りで出ていった。
「凛菜さん、何か変なことをされていませんか? 言われていませんか!?」
「う、うん」
氷浦はベッドの上で呆然としていた私の両手を握り、至極心配そうな目で覗き込む。
「すみません、本当に。匝姉さんは本当に自由奔放というか……いつも私達を困らせて楽しんで「ねぇ氷浦」
たぶん、こんなことを聞かなくちゃいけないなんてことは、ない。
もしかしたら、匝さんの何かしらの思惑に乗ってしまっているのかもしれない。
だけど――
「なんでしょう?」
「わ、私、が、やってたことって……もしかして……全部、ムダ、だったのかな?」
嫌に、声が震える。
「……? 凛菜さん? どういうことですか?」
視界が、ぼやける。
「氷浦が、全部解決、してくれてたの? 氷浦が手を回してくれたから、お父さんの工場は持ち直したの? お父さんが寝ずに頑張ったのは無意味だったの? 私の支えなんて、努力なんて……必要なかったの?」
ああ、口に出してわかった。さっき芽生えた感情の正体は――虚無感と、それを認めたくない、対抗心だ。
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