第44話・許嫁、駆ける

 まさか自分の意志で『走る』ことになるなんて思いもしなかった。

 今までの私にとって『走る』とは、例えば遅刻しそうな時とか体育の授業とか、そういう必要性に駆られて泣く泣く挑む事柄だったから。

「はっ……はっ……」

 日曜日の早朝は、まるでもやの中に住人が全員溶け込んでしまったかのように静かで、自然と思考が回る。

 昨日は氷浦と買い物に行ったり家で映画を観たりと比較的まったり過ごしたけれど、今日は9時から17時までバイト。走り終えてシャワーを浴びたらすぐに支度をしなければならない。

「…………はぁ……」

 6月に入ったというのに、この時間の気候は穏やかな冷風が街を包んでいるような心地良さがある。これからどんどん蒸し暑くなることを考えると、今のうちから体をだんだん慣らそうと考えた自分の判断は正しく思えた。

「……もう、少し……」

 ここ三ヶ月で、本当にいろいろなことがあった。

 春休みが終わる直前には氷浦の打ち明けがあって、帛ちゃんと遊んでもらって、シアさんが転校してきて、バイトを始めて……。

 氷浦のおかげでメンタル的な問題はないにしろ、ハイスピードで移り変わる現状に飲み込まれないためにはそれなりのフィジカルが要求されると気づいた。さらに一月ひとつき後に控えた体育祭もあり、まずは、体を鍛えることを決めた。スポーツ選手みたいにはなれなくとも、とりあえず動くことに慣れた体にしておきたい。

 正直、体育祭自体がすごく楽しみかって言われると『そこまで……』って感じなんだけど、氷浦と二人三脚に出られることになったから文字通り足を引っ張るわけにはいかないし……なにより! 体育祭が終わったあとに待ち受けている後夜祭は……私にとって、ううん、私達にとって重要なイベントになる気がする。いや……そうしなくちゃいけない。

 ベタなシチュエーションだっていうのは自分でもわかってるけど、氷浦……ベタなの好きそうだし。

「ふぅ……。よし、もう一周いこう」

 今までの人生で避けてきた運動だけど、大丈夫、頑張れる。よくわかんないけど、疲れるしつらいし苦しいのに、全然、嫌じゃない。だってこうして走り続けた先に、きっと氷浦の笑顔があるから。


×


「凛菜さん……ランニングをするの……やめていただけませんか……?」

「……はぃ?」

 7時半。家に着いて扉を開けると、部屋着姿の氷浦が玄関に立っていた。「いつからいたの?」と私が問う前に、氷浦は――私が望んでいる笑顔とは真逆の苦々しそうな、何かを目一杯こらえるような表情で――まさかのランニング中止を提案した。

「どうして……そんなこと言うの?」

 悲しみ混じりの衝撃よりも困惑がまさって、それ以外になにも言えない。

「それは……」

 待って。これで万が一『凛菜さんの運動神経で努力したって無駄じゃないですか!』的なことを言われたらどうしよう。いや氷浦がそんなこと言うわけ絶対にないんだけど、絶対に絶対がないとは絶対言い切れないわけで……。

「……だって……凛菜さんの……」

 私の……私のなに? やっぱり私の運動神経が……!?

「……凛菜さんのランニングウェアが! あまりにも!! セクシー過ぎるからです!!!」

「………………なんて?」

 朝から玄関でこの子は何を大声で張り叫んだの……?

「このままでは町内の秩序が乱れてしまいます!!」

 悩みの規模が大きすぎる。

「……はぁ、真面目に聞いて損した」

「ちょ、ちょっと凛菜さん、まだ話は終わっていませんよ!」

 脱衣所へ向かう私の後ろにピタッとくっついて追いかけてくる氷浦。

「終わるもなにも……」

 そもそも始まってない。なぜなら私の格好は普通以外のなにものでもないから。

 上はランニング用のタンクトップで下はランニングタイツと短パン。まさに走ることを目的としたなんの変哲もない、なんの非難も受けるべきではない格好。

 運動が苦手な私にとって、走ることへの抵抗を無くすことは最重要で、つまり、走りやすさはもちろん、着たくなる(走りたくなる)ような可愛いデザインかを重視して選んだのがこれだ。

「そんな露出の多い……そ、それにカラダのラインが浮き上がり過ぎではないでしょうか!!」

「短パン履いてるからいいでしょ」

「その短パンがあることで……もうまた一層……」

「じゃあ次から履かない」

「そんなことしたら街中が鼻血の海ですよ!!」

 ついには私の正面に回り込んで説得を試みる氷浦。なんか……必死過ぎて可愛さまで覚えるけど……あんまり長々とやり合っている時間はない。

「……シャワー浴びたいからそこどいて」

「どきません」

「じゃあ私が汗だくのままバイト行ってもいいんだ」

「それはそれで秩序が危険です! すれ違った人全員凛菜さんのフェロモンで……!!」

「危ないのは氷浦の思考でしょ」

 無理やり脱衣所へと押し通り、ウェアの裾に手をかけると氷浦はパッと私から目を逸らした。変な主張をしているくせに変なところが律儀で少し感心する。

「と、とにかくですね、その、もうちょっとあの……普通の格好というか、あの、ほら、学校で使ってるジャージとかどうです!? 体操着だけじゃあれですけど上にジャージを着てくだされば……!」

 なんらかのきっかけがないとこの問答は終わらないらしい。本当はもっと時間がある時に、ちゃんとサプライズしたかったんだけど……。

「もういい、わかった」

「……そ、そうですか。わかってくださいましたか! 私としても「氷浦と一緒にランニングしたくておんなじデザインの色違い、昨日買ってたの。でもそんなに言うならいらないってことで良いのね、わかった。捨てとくから」

「いらないわけが! ないじゃないですか!!」

 んばっと、私の両手をとって今までより更に威勢よく氷浦は食いついた。喉が心配になってくる。

「そしてこれから凛菜さんがランニングされる際はかなっっっっらずこの氷浦帳がご一緒します、よろしいですね!!!」

「ん、じゃあシャワー浴びるから出てって」

 一件落着、っぽい。まぁ結果オーライ、かな。買ったはいいけどんなタイミングで渡そうか悩んでたし丁度良かった。

「……お、怒って……いますか……?」

 私に促され、そして背中を押されながらおずおずと問う氷浦。別に怒ってなんかないけれど、少し考えてみたら似たような感情があるのに気づく。

「…………ちょっと。」

「!!!!! 申し訳ありません! でも、私……だって……」

「氷浦が悪いわけじゃないよ。私が勝手に期待してただけだから」

「期待……?」

 そう、期待。このウェアはもちろん自分が気に入ったから買ったんだけど――

「氷浦も気に入ってくれるかなって……勝手に思ってた私が悪い」

 ――買う前に想像していたのは、これを纏った私を大仰に褒めてくれる彼女の姿だった。

「可愛いんですよ! 異次元的に可愛くて美しくて! パリコレのランウェイを駆け抜けてもなんの問題もないですよ!!」

「ふふっ大問題でしょ」

 こんな姿で颯爽とランウェイをジョギングする自分を思い浮かべて、堪えきれない笑いが零れ出た。

「と、とにかくすみませんでした、凛菜さん。私……自分で言うのも恥ずかしいのですが……やきもきして……モヤモヤして……しまって……。今日は! 凛菜さんが帰られるまでここで正座して待っていますのでどうかお許しを……!」

「しなくていいから。……あっじゃあ氷浦、そこまで反省してるなら、今日迎えに来てよ」

「よろしいのですか!?」

「うん。二日連続になっちゃうけど、買い物して一緒に帰ろう?」

「……凛菜さん…………りんなしゃぁあああん!!」

「はい、ストップ。げっとアウト、なう」

「うぅ……りんなしゃ~~~ん……」

 ドサクサにまぎれて抱きつこうとしてきた氷浦を両手で制止し、そのまま脱衣所の外へ追いやる。なにやらドアの向こう側からうめき声が聞こえるけど、これ以上こんなやり取りしてたら本当に遅刻しちゃう。

 シャワーを浴びながら、ふと。ドサクサにまぎれたのは私も一緒だと気づいた。バイト中、どれだけヘトヘトになったとしても……お店を出たら氷浦が待っててくれるって思ったら、きっと折れないで頑張れる。

「……」

 私の中に確かな原動力が根付いていることを実感して、とくんと、心臓から全身へ、甘い痺れが駆け巡った。

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