第0.5話・許嫁、絡める

「よ、よろしくお願いいたします! 私は氷浦です! 氷浦帷と申します!」

 硬直してしまった私をきょとんと眺める凛菜さんの瞳に気づき、慌ててご挨拶を返すも、

「うん、知ってる。それじゃあ私、勉強の続きしないといけないから。氷浦さんの忘れ物、すぐ見つかるといいね」

 先のやり取りで要件は終わり。そんなあっさり具合で再び席に着いてしまった凛菜さん。それでも私は、芽生えた胸の高鳴りが、このまま終わることを許しません。

「あ、あの!」

「んー?」

 既にペンを片手に教科書へと視線を落としている凛菜さんから味気ない返事を頂きましたが……私は滅気めげません。偉い!

「私も……ご一緒に、お勉強をしてもよろしいでしょうか!?」

「ん~~~……ダメ」

「……です、よね。お邪魔、ですよね」

 幾許いくばくかの悩み時間があっただけに期待値も上がってしまっていた分、崩れそうになるほど落胆しました。そんな一喜一憂の激しい私へ、凛菜さんはどこか、さみしげな声音で続けます。

「……誰かと一緒にいると、楽しいから」

「楽しい、から、ですか?」

「うん。今ね、お父さん、すごく大変そうなんだ。……私だけ楽しくなんてできない。私も頑張らなきゃ」

 表情は、笑顔です。だけどそれは、何かから自分を守るような、鎧のような硬さを感じさせました。

伊沼いぬまさんもね、最初は氷浦さんみたいに声掛けてくれたんだけど……結局怒らせちゃった。氷浦さんも嫌な気持ちにさせちゃってたらごめんね?」

「い、いえ! 私は全然、そんなことありません!」

 ピリ、と。生まれて初めて感じる心臓の痛みに、戸惑いを覚えます。今ならその正体が少しわかる気がしますが、この頃の私がわかるはずもありません。

「そっか、良かった。……ねぇ、お父さんが楽できるようになったら……私も楽しんでいいようになったら、すごく時間がかかっちゃうかもだけど……その時はまた、声をかけてくれる? 氷浦さん」

 きっと、そんな未来は凛菜さんにとって夢物語だったのでしょう。あまりにも儚い笑みと声音がそれを物語っていました。それでも私にとっては、その問いかけに応えることこそが、天命のように感じられたのです。

「はいっ! 私も……私も頑張ります! 宵倉さんに負けないくらい、いっぱいいっぱい頑張ります!」

「ありがと。……えっとね、凛菜でいいよ、名字も好きだけど、名前はもっと好きだから」

「あっはい! えと、り……凛菜さんっ!」

「ん。嬉しい。名前で呼ばれたの初めてかも」

 自分で呼んでって言っておいて! ちょっと照れてるんですからこの人は! まったくもう! どうしてどの時代を切り取ってもこんなにも愛らしいのでしょうか! 愛おしいのでしょうか!!

「は、初めてですか……!?」

 そして幼い私! 初めてというワードになぁんでときめいているのですか! 本能なのですか!? 三つ子の魂百までということなのですか!?

「またいつか、氷浦さんがそう呼んでくれる日が来るの……楽しみにしてるね」

 言って凛菜さんは、右手の小指を立てて私に差し出してくださいました。

「はい」

 呼応するようにすぐさま自身の小指を絡めて、静かに指切りげんまんを契り合った私達。

「その日は必ず来ると、約束します。凛菜さん」

 自分の環境や将来について悩みに悩んでいた私はこの約束を境に、脳内に立ち込めていたもやが晴れ、湧き出る前向きな力に背を押されて様々な事にチャレンジしていきました。

 そうして……紆余曲折を経て約束は果たされたのです。………………七年後にですけどね!!


 ×


「凛菜さん、私達が初めて会った日のこと、覚えていますか?」

 目が覚めて――昨晩は二人で撮影会をして盛り上がったあと――そのまま幸せの中で眠りに就いたことを思い出しました。

 今日は土曜日。学校はお休み。先に起きていた凛菜さんは朝食を用意してくれていて……地続きのような幸福に、とにかく感謝の気持ちが溢れ出て小さく拝んでしまいます。

「お見合いの日のこと? 忘れるわけないでしょ」

 夢の内容をあまりにもしっかりと覚えていたこと、そしてその余韻が抜けてくれないことから、私はそれを自然と話題にしてしまいました。

「そちらではなくて」

「あーはいはい。転校してきた日のことだよね、覚えてるよ。拍手喝采だったし」

「その日も大切な思い出ではありますが……その……私と凛菜さんが……初めてちゃんとお話した時の……」

 えっ、えっ、なんで私緊張してるんですか。普通にフランクな話題じゃないですか、どんなお返事が来たって別にいいじゃないですか!

「ん~……あんま覚えてないんだよねぇ。結構前だし、あん時いろいろわちゃわちゃしてたから……」

「そう、ですよね……」

 あっ……あぁ……予想以上のダメージ……そうですか、私はこれを危惧していたのですね……私だけが……あの頃の記憶を愛おしんでいることに……。

「でもたぶん、一番の原因は……私がボロクラって揶揄からかわれてるときさ、氷浦、クラスのボスみたいな子に『私は加担しません』的なこと言ってくれたでしょ? それがさ、すごくその……嬉しくって。印象的だったから……それ以外、あんま覚えてない、の、かも」

「っ!!!」

 私が意識してなかったことを……覚えててくださってたのですね……!! これはこれで嬉しいものですね……かなり……!!

「はい、もういいでしょこの話題。今がこんなに幸せなんだから。さっさとご飯食べよ。今日買い物行くんだよね?」

 今さらっと『今がこんなに幸せなんだから』って言いました! 凛菜さんが照れもせずに自然に、たぶん無意識に嬉しいこと言ってくれました!!

「行きます! いただきます!!」

 凛菜さんお手性の食パンと、魔法でもかかったかのようにふわふわで絶妙な塩加減のスクランブルエッグを頬張っていると――

「ふふっ」

「んっ……」

「美味しい?」

 ――気づかないうちにケチャップが口元に付いてしまったらしく、凛菜さんはそれを人差し指ですくって……慈愛に満ちた微笑みを浮かべてくださいました。

「~~~~~!!! はいっ!!!」

 過去の日の私、いいですか、よく聞いてくださいね、あの時、天命と確信した衝動は、誤りでありません。凛菜さんと再び相見あいまみえるまでの七年間、つらいことも大変なこともたくさんありましたよ、それでも見てください、今の私を。この史上最高に幸福な私の姿を!!

 あっ今凛菜さん私からすくったケチャップ……ご自身のお口元に運びました?? しかも全然照れてませんしまたしても無意識ですか??

 あぁ……贅沢は……贅沢は言いません……どうか……この幸せが一生続いてくれますように……!!!

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