第0話・許嫁、名乗る

氷浦ひうら とばりと申します。これからよろしくお願いいたします」

 ただ、名乗っただけ。それだけのことで、教室は突如として降り出した大雨のような轟音の拍手喝采に包まれました。

 教壇上の私は慣れたことなので、緊張はするものの驚きはしません。

 そんな私の表情を呆然と眺めていて理解しました、私今、夢を見ています。私の視線の先には幼い私。そしてその幼い私が見渡すクラスメイトの中に――興味なさげに拍手をしている――凛菜さんの姿。つまりこれは、小学二年生の秋を再現しているに違いありません。過去の記憶を夢に見るとき、人はどんな心理状態なのでしょうか、勉強不足でわかりませんが……せっかくです、堪能させていただくとしましょう。

 私と凛菜さんが出会い、初めて言葉を交わした瞬間を。

 そして――再びお話できるまでまさか七年もの歳月が必要になるとは思いもしなかった――決別の瞬間を。


 ×


「氷浦さん、あれはボロクラって呼んでいいからね。親がオンボロ工場の経営者なの。このクラスで一番貧乏なんだよ」

 私に校内の紹介を(取り巻きの方々と共に)済ませると、教室に戻ってきて開口一番、伊沼いぬまさんはそう言いました――休み時間中にも関わらず、懸命に勉学へ励む凛菜さんを指さして。

「……誰をどう呼ぶかは、私が決めます」

 この時、私はクラスに漂う不穏な空気を肌で感じ取っていたはずです。つまりこの伊沼さんを頂点とした悪辣なカーストができていることを、理解していたのに、私はそれを壊そうとはしませんでした。怖かったのです。弱かったのです。氷浦家という名前だけで敬遠されがちな私は、物怖じせずに接してくれた伊沼さんを敵にしたくなかったのです。

「ふぅん……。氷浦さんも私の言う事、聞けないんだ」

 整った顔立ちの中でそこだけがぽっかりと沈むように、濃いクマのできた伊沼さんの目尻が細く尖って、口角が微かに上がったのを捉え、私は、今回の転校先でも理想の学校生活は送れないんだなと、諦観を覚えました。


×


 そんな暗い予感は的中し、次の日から私に声を掛けてくる人はいませんでした。これまでにも皆さんどこかよそよそしかったり、他人行儀だったりすることはありましたが、明確な敵意の籠もった距離感は私の心を日に日に暗く、重くさせていきます。

 そんな日々を一月ひとつきほど過ごした、とある日の放課後、私は忘れ物をしてしまって、早足で教室に向かっていました。入ろうとドアに手を掛けた瞬間、中から複数人の声音が聞こえてきて思わず体が固まりました。

「家に帰って勉強しなよボロクラ。もう放課後だよ、意味わかる?」

 もっとも、発言らしい発言をしているのは伊沼さんだけで、あとは取り巻きさん達の同意が続くばかりでしたが――

「工場の音、嫌いじゃないけど勉強するときは気になっちゃうの」

 ――そんな圧に負けることない、凛菜さんの声が軽やかに相対します。

「だから一時間だけ、残って勉強するようにしてるんだ。先生にもお父さんにも良いよって言われてるし」

「貧乏人は何をやっても貧乏人なんだよ。ボロクラは何をやってもボロクラなの。私達の全部は親で決まるんだよ」

「へぇ〜。伊沼さんはいろいろ知ってて頭いいねぇ〜」

「……ボロクラ、キミ今バカにされてるんだよ、わかんないの? キミだけだよ、ずっとずぅ~っと、くだらない意地張ってさぁ、さっさと私の言う事聞けばいいのに。そしたら普通に呼んであげる」

「別に好きに呼べばいいんじゃない? ウチの工場が今大変なのは本当だし」

 鉛筆が机に置かれる音が聞こえました。きっと凛菜さんはここで手を止めて、伊沼さんの瞳をしかと見据えて言ったのでしょう。

「でもね、お父さんは絶対立て直してくれる。今はお母さんが遠くに行っちゃって元気ないけど……絶対。私も支えるし。学校では勉強頑張って、家ではできること頑張って……また……前みたいに……」

「…………ふん。本当にキミは変な子だよ。……もういいや、みんな、行こう」

 嘲笑うような、それよりもずっと困惑するような伊沼さんの様子で一連のやり取りは終わりかと思いきや、

「あっ、ねぇ待って伊沼さん」

 そうはいかないのが凛菜さん。この頃から現在のステキなお心意気は着々と育まれていたのです。

「……はぁ。この状況でコッチ側を引き止めるって……キミはやっぱり変」

「私のことは事実だから別にいいけど、氷浦さんのこと、あれこれかげで言ったり仲間はずれにするのやめたら? ダサいよ?」

「っ……うるさいな。郷に入っては郷に従うのが日本人だ。……氷浦家がなんだ、私のお父さんはすぐに追いつく。偉そうにしていられるのも今の内だ」

「ふーん」

「なんだ」

「別に。難しい言葉知ってるなぁって。それと……」

「なんだよ」

「お父さん好きなの、私とおんなじだね。思ってたより友達になれそう」

「はぁ!?」

 それは今まで聞いたことのない、伊沼さんの焦りや照れが混ざった声。

「ボロクラと一緒にするな!」

 取り巻きさんたちを引き連れ慌てて教室から飛び出してきた伊沼さんは、幸いなことに私が手をかけていたドアとは反対側のドアから、そして私がいる場所とは反対側の方向へと邁進していきました。

「……はぁ。友達作るの……むず」

 凛菜さんがそう、ポツリと呟いたのとほぼ同時に、私は教室に足を踏み入れます。

「あの……」

「びっくりした、氷浦さんか。……忘れ物?」

「あっ、はい。……あの! 先程は! ありがとうございました!」

「……なにが?」

 不思議そうな表情を浮かべる凛菜さん。心当たりなど一切ないと、本気でそう思っていたのでしょう。

「えと、注意を……してくださって。伊沼さん達に……その……あなたが……」

 ここで私は、私を庇ってくれた人のお名前を、蔑称でしか知らないことに気づき途端に恥ずかしくなりました。私が言葉に詰まったせいで訪れる静寂。教室には運動部の掛け声や、鳥の鳴き声、車が走る音、飛行機が遠ざかる音等が次々と飛び込んできて沈黙を浮き彫りにし、私は何か言わなくてはと焦りが強まるばかりで――。

「宵倉」

 ふいに。立ち上がった彼女が発した声は、澱みきった空気を払拭して。

 踊るように揺らめく黒い髪が、夕焼けの橙を纏ってあまりにも眩しく、輝いて。

宵倉よいくら 凛菜りんな。よろしくね」

 世界は彼女だけを残して光となり、あれだけうるさかった周囲の音が消え、脳内に渦巻いていた思考は静まり、心地よい鼓動が緩やかに強く、強く増して——全身を、感じたことのない熱が包み込んでいきました。

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