梅雨、明ける
第39話・許嫁、労する
「氷浦、あのね――」
その日、その夜。凛菜さんと二人、晩御飯を食べ終えソファでまったりテレビを見ている至福の時間に……事件は起きました。
「――私、バイトをしようと思うの」
「ダメです。では凛菜さん、おやすみなさい」
「待って待って!」
颯爽と離脱の態勢を見せた私の手を取ると、力強く引いて再びソファに座らせる凛菜さん。
……こんな日が来るのではと……思わなかったわけではありません。でもまさかこんな早くに、こんないきなり……。
「家の事もちゃんとやるし、氷浦に迷惑かけないようにするから」
「そうじゃありません! バイト中や帰り道……凛菜さんに何かあったらどうするのですか……?」
「子供じゃないんだからそんな心配しないでよ」
「愛する人の心配をして何が悪いんですか!」
「大丈夫だよ、遅くなっても二十二時までしか働けないし、帰りはちゃんと明るい道選ぶし」
「二十二時……? 夜、十時……? そんな危ない時間にお外を
「氷浦だって春休みの間働いてたじゃん」
「あれは……親族の会社で信用できましたし……就業時間も早めてもらっていました。何より学校のない期間を仕事に充てていただけです!」
私の気迫を受けて、グッと言葉を詰まらせた凛菜さんでしたが、グッと手に更なる力を込めて……儚げに、諭すように、言葉を紡ぎました。
「……この家、氷浦のご家族が用意してくれたんだよね」
「そう、ですけれど……」
「私は今、お父さんからも仕送りを貰ってる。こういう……いろんなことは、大人になったらちゃんと返していくつもりだよ。でもね、今からできることは今したいの」
「そんな風に……言われたら……」
私だって同じ気持ちです、理解できないわけがありません。
「週三日、火曜日と木曜日と日曜日。平日は十七時から二十二時、日曜は八時から十七時。この条件で働かせてもらえる場所をみつけたの。それにこれからゴールデンウィークがあるでしょ? だから採用されやすいみたいなの。こういうチャンスを……逃したくない」
私の勢いが消沈したことを確認してか、矢継ぎ早に繰り出される説得と論拠。
「…………そこまで決まってるなら……私の許可なんて……」
「それじゃダメ。二人の生活に関わることは、ちゃんと話し合って決めたいから」
二人の生活。
凛菜さんはご自身のやりたいことと、私との生活をしっかり考えてくださっているのですね。ちゃんと……この先の、未来を。
「……つらいときはちゃんとおやすみすること。なにかあったらすぐ相談すること。……これは絶対条件です」
「っ! ありがとう! 氷浦!」
ずるいです。こうやって抱きしめたらなんでも許されると思って……。
……。
…………。
……………………。
…………………………いや何様ですか私!?
凛菜さんの就労機会を私が剥奪する権利なんてどこにもないのですが!?
……ここ最近、距離がググッと近づいたのはとっっっても嬉しいのですが、自分の欲深さがどんどん露呈していることにもっと気をつけなくてはなりませんね……。
「……氷浦、怒ってる?」
「怒ってません。でも今日は……一緒に寝てもらいますから」
「うんっ!」
むぎゅっと。快活なお返事とともに私の頭を体で包み込むように抱きしめる凛菜さん。
…………いや……やっぱり凛菜さんはずるい気がしますし、私が欲が深くなっていくのも全くをもって仕方ない気がします……!!
×
氷浦、ごめんね。
「いらっしゃいませ! ……画材、道具ですか? でしたらあちらにございますが……はいっ、ご案内いたしますね」
私、氷浦のこと全然わかってなかった。
特に春休み、もっと氷浦のことをわかってあげられたら……。
「いらっしゃいませ! こちらの商品の在庫数でございますね? ただいまお調べいたしますので少々お待ちください」
こんなに——
「いらっしゃいませ! えっ、ラッピングが注文と違う? 申し訳ございません。すぐに確認して参ります」
こんなに! 労働って大変なんだね!?!?!?
「………………はぁ……」
嵐のような勤務時間を終えて、一人着く帰り道。
人生で初めて始めた雑貨屋さんでのアルバイトは、想像を絶する忙しさだ。そりゃあ身近に知らない人は殆どいないくらい有名なチェーン店なんだけどさ……。
平日は割とまったりできるけれど、日曜日は体力ゲージが一撃でゼロになるくらい忙しい……。
「特に連休中……やばいなぁ……」
なんとか氷浦を説得してバイトを始めたはいいけど、大見栄切ったくせに全然ダメじゃん……。毎日ヘトヘトだ。
春休み、氷浦は毎日こんな感じだったのかなぁ。しかも私と違ってバイトというかインターンみたいなものだもんね。責任も緊張も遥かに上回っていたはず。
…………もっと頑張らなくちゃ。
氷浦との関係性がみんなに知れ渡った今、私に求められているのは成長だ。肩を並べても恥ずかしくないくらい、自分を高めないといけない。
だからといって氷浦が持っているものを、いきなり全て手に入れるなんてできるわけがない。それでも、経験は違う。
氷浦が社会と関わりをもって働いていたのを『すごいなぁ』と眺めているだけだったけど、これは私だって経験できるんだ! ……なんて……意気揚々と始めたバイト……めっちゃ大変……。
「ただいまぁ」
「おかえりなさいっ!」
ドアを開けると同時に、私の到着を見越していたかのようなタイミングですぐ目の前にある笑顔。
身体中に漲っていた緊張や疲労感がスッと抜け、足元がふわふわと回復して行くような感覚に陥る。
「?」
抱きしめたい。あまりにも。
そんな心の声が漏れてしまったのか、もしくは視線があまりにも露骨だったのか、氷浦は両手を広げて微笑み「どうぞ」と言って私を誘う。
「……ダメ、手洗ってないし」
部屋着の氷浦にハグするんだったら、じっとりと汗を含んだジャケットも脱がないと。私が彼女を汚すなんて許されな——
「ちょっ、氷浦!」
「凛菜さんからしてくれないのがいけないんですよ」
——風のように接近していた氷浦は私の胸元に頬を寄せ背に手を回し、優しく、徐々に、強く、深く、抱きしめる。
「お疲れ様でした、凛菜さん」
「…………」
「…………凛菜さん?」
「……離して」
「……嫌です「さっさと手洗って着替えてくるから離して!」
「は、はいっ!」
もう一滴も残っていないはずだった体力があっという間に補填され、私は全ての行動を俊敏に済ませて——ソファに座っている氷浦の腰へと腕を回して密着。思う存分に彼女の存在を味わう。
「大丈夫ですか? 毎日こんなになるくらい忙しいなんて……」
心配そうな声すら心地良い。頭を撫でられる度に優しさが脳漿を浸していくようだ。
はぁ……幸せだなぁ……。
私みたいな人間があの過酷な労働現場で頑張れるのは、間違いなく氷浦のおかげだ。彼女が待っていると思えば、崩れ落ちそうになる膝を叩いて踏ん張ることができる。泣き出しそうになる頬を叩いて笑顔(業務用)を浮かべることができる。
「ゴールデンウィークだからね……たぶん、仕方ない……」
「不謹慎ながら……私としては……凛菜さんがこうして甘えてくださるのは嬉しいのですが……えっ? 凛菜さん? 寝ちゃうんですか? ご飯、ご飯は食べた方がいいのではないでしょうか? 凛菜さん!?」
氷浦の声が遠くなっていく。ああ、温もりや安心が微睡みに変わっていくのがわかる。ここは天国だ。
いつかこの命が尽きる時も、こうやって彼女の膝の上で、包まれるように——。
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