第38話・許嫁、爆ぜる

「こんな所にいて良いの? 凛菜」

「……テステートさん」

 ただじっと、揺れない釣り糸の先を眺めながら過ごしていると、私の隣にテステートさんが腰掛けた。

 彼女の方こそ今日の主役がこんな所にいて良いんだろうか。

「私が行っても氷浦と勝負できることなんてないから」

「そういうことを言っているんじゃないって、わかっているはずだけど?」

「…………」

 わかってる。そんな棘のある声を出さなくても、わかってるよテステートさん。

 なんて、今それを口に出す気にはなれず、視線も姿勢もそのままに彼女が去るのを待った。

「……あなたが今日に至るまで、人を集める努力したことは認めるわ。だけどそれは誰の為?」

 呆れるでもなく、怒るわけでもなく、ただ、宥めるように彼女は続ける。

「凛菜、あなた何様のつもり?」

「っ」

 今まで見て見ないふりをしていた自分の、心の一番醜い部分を突然鷲掴みにされて――呼吸が苦しく、鼓動が早くなる。

「トバリは今日でいろんな人と距離を縮めて、たくさんの友達を作るでしょう。それでなに? どれだけ多くの人に囲まれようとも、自分を選んでくれるか試しているわけ?」

「……私は……」

 きっと、そのとおりなんだろう。

 氷浦と一緒に過ごしていく中で日に日に募る彼女への想いと、同時に――こんなに素敵な人を私だけが独占してもいいのかと――膨れ上がる罪悪感。私は遂に、持て余したそれらのやり場を求めてしまった。そして未だ消えずかすかに揺れる猜疑心が、私にらしくない行動力をもたらした。

 自覚していたわけじゃない。けれど今、テステートさんの言葉によって納得できてしまった。

「あなたの過去は知らない。どれほど不安なのかもわからない。それでも……これが将来を誓い合った許嫁にすること? ……トバリはさぞ喜んでいるんでしょうね」

 テステートさんは言いながら操作したスマホの画面を私に見せつける。映されているのは、一枚の写真。

 中心にいる氷浦は笑っている。けれど、それは私の大好きな朗らかで暖かい笑顔ではなくて、迷子が無理して作ったぎこちない――ともすれば泣き顔のような――表情だった。

「ね?」

「…………何が言いたいの?」

「あら、言わせてもらえるならそうするわね」

 早く楽になりたくて、彼女の詰問から逃れたくてそう返すと、テステートさんは声音から笑みを消した。

「いつまでも受け身になっていないで、伝えなくてはならないことを伝えなさい。試されているのはあなたよ、凛菜。トバリからではなく、この世界から」

「…………」

 世界から。テステートさんが言うと言葉の重みが随分と違った。彼女もわかっている。きっと――氷浦が世界中から求められる人間なのだと――確信している。

 だけどそれは……そんなことは、私だって。違う。ずっと一緒にいた、私だからこそ――。

「これから先、実に様々な人間が彼女にアプローチをするでしょうね。そんな世界で、誰よりも氷浦帷を幸せにできるのは……誰よりもしたいと思っているのは誰? 彼女が隣にいないことを、世界で一番後悔するのは誰?」

 そんなこと……考えなくたってわかる。言われなくたって、そんなこと……!

「…………私は……」

 ずっと。もどかしくくすぶっていた感情が――冬夜に煌めく星々が、爆ぜて花火となり暗闇を染め上げるように――灼熱となって体に満ちていく。

「あなたは、どうしたい?」

「私だって…………氷浦と、離れたくない。ずっと……一緒にいたいよ」

「なら、今するべきことは一つでしょう?」

 テステートさんは颯爽と私に近づき、釣り竿を取り上げた。

「行ってきなさい。凛菜の本心を、トバリの気持ちを、二度とないがしろにしないで」

「…………ありがとう」

 立ち上がった頃には頭の中が今までになくクリアになっていて、氷浦に会いたい以外の感情はほとんどない。心臓も早く走り出せとうるさいくらいに脈を打っている。けれど、どうしても聞きたいことが、聞かなくてはならないことが、脳裏を過ぎって足を止めた。

「……ねぇ、テステートさんは……氷浦のこと、まだ」

「私が出会った頃のトバリはいつもおどおどしていて、いかにも自信なさげな……か弱い印象だったわ」

 彼女は言葉に柔らかさを取り戻すと同時に、憧憬や慈愛も込めて紡ぐ。

「そんな彼女が、誰かさんに出会って変わろうと決心し、努力して結果を出した。なのに今度はその誰かさんがビクビクおどおど……発破はっぱを掛けるなと言う方が無理な相談よ」

「テステートさん……」

「私の話はまた今度。さっさと行きなさい。どんな思いであれトバリなら受け止めてくれるって、信じられないとは言わせないわ」


×


 屋上へ出てすぐ視界に入ったのは、氷浦を中心に和気藹々わきあいあいと盛り上がっている光景。

「っ……みんな!」

 頭の中で何かを考える前に、勝手に声が飛び出してしまって。

「どうしたの? 凛菜ちゃん」

「凛菜さん……?」

 途端に視線が集まってきて心拍数は更に跳ね上がる。私を見る氷浦の表情も戸惑いと嬉しさが綯い交ぜになっているようだ。

「あの……ね、」

 もういい。もう何も考えるな。今まで十分いろいろ考えてきた。だから今必要なのは思考じゃない。この感情に、思いに全てを任せてしまえ。

「氷浦は……私の許嫁だから」

「「「「……え?」」」」

「だから……氷浦帷は、私のお嫁さんだから! 仲良くなっても良いけど、好きになっちゃダメだから!」

 力の限り声を振り絞ると、一瞬の間が空いてから屋上いっぱいに驚愕が響き渡り、「どういうこと!?」と歴戦の記者のように瞳をギラつかせた一同が怒涛の勢いで迫ってくる。

「氷浦、来て!」

 いつか、みんなにも伝えられたらいいと思う。だけど今は――逃げる。まずはちゃんと、氷浦に、氷浦だけに伝えたい気持ちを、言葉にしたい。

「は、はいっ!」

 言われるがままに集団から飛び抜けた氷浦は私の手を掴み、それを引いて屋上の出口へと走り出す。

 そして階段を駆け下り逃げ込んだのは、迷路のように筐体が林立するゲームコーナー。

 どこか隠れられる場所がないか見渡して、まだ人生で一度も使ったことのないプリクラ機の中に飛び込みすぐさまカーテンを閉めた。

「…………ごめんね、急に」

 呼吸を整えてから、ひとまず謝る。

「プリクラ……撮りたくなってしまったんですか?」

 心も体も緊張しっぱなしの私を和ませるためか、氷浦は楚々そそと笑って冗談を言ってくれた。

「……あのね、氷浦」

 そのまま、暖かい空気に包まれて、熱い想いに任せて、瞳を見つめて、両手を取って。

「急になんだ、って思われるかもしれないんだけど」

「はい」

「私ね、誰かに誇れることなんてなかった。いつも流されてばっかりで、いろんなことをなんとなくでやり過ごしてきた。でも、」

 私の拙い言葉達を、氷浦は静かに聞き入ってくれている。

「氷浦のことが好き。この気持ちなら、誰にも負けない。絶対に」

「……凛菜さん」

 伝えるべき気持ちをありのまま、脚色なしに言い切ることができて……ようやく深呼吸ができた。すると氷浦は感激というよりは、感慨に耽るような声音を零す。

「ちゃんと……好きって、初めて言ってもらいました」

「……遅くなってごめんね」

「いいえ。伝わっていたんです、凛菜さんがいかに私を大事に想ってくれているのか。それでも私、わがままなんです。不安な時もあって、言葉で聞きたい、時もあって……」

 潤んだ瞳と揺れる声が、自分のふがいなさを加速させて、もう言葉は何も出なくなってしまって、うつむく氷浦を抱きしめた。

「嬉しくて……どうにかなってしまいそうです」

「私はとっくに……どうにかなっちゃった。氷浦に会う前の私が今の私を見たら、すごく驚くと思う」

 しばらく背中をさすっていると、やがて呼吸が落ち着いてきたらしい彼女は、じっと私を見つめる。

 もう躊躇ためらうことなんてない。唇を重ね――

「あっ」

 ――ようとした時、氷浦は頬を真っ赤に染めて視線を逸らした。

「私……さっきまで運動をしていまして……」

「うん」

「少し……汗をかいてまして……」

「気にしない」

 腕に力を込めて私と距離を空けようとする氷浦を、それ以上の力で抱き寄せる。

「あっ足元、丸見えですよ? 誰かが来たらすぐバレちゃいますよ?」

「構わない」

「でも凛菜さん「氷浦、好きだよ。氷浦の全部が……大好き」

 小さいことを気にして、くだらないことに構ってばかりだった自分はどこへやら。今はただ、何も考えず氷浦に触れていたい。

「……凛菜さんはやっぱりずるいです」

「氷浦だって、こんなに好きにさせるなんてずるい」

 この出会いは不可思議で、きっかけはあまりに突然だった。

 けれどそうやって訪れた驚きは日常になって、幸せになって。

「初めてのキスも、凛菜さんからしてくれましたね」

 しばらくのあいだ瞳を閉じて唇を重ねたあと、氷浦は吐息に混ざるような小声でそう言って微笑んだ。

「……あのね、氷浦。私、もう一つ言っておかなくちゃいけないことがあるの」

「なんでしょう?」

 本当に、わからないことばかりだ。

 これを聞いた後に彼女がどんな表情をするのか、何を言うのか、全く想像がつかない。

「私のファーストキスはね、」

 きっとこれから先も、数え切れないほどの不明瞭と対峙するんだ。

 それでも、あなたが隣にいてくれるのならば私は、どんな未来だって怖くない。

「氷浦と初めて一緒に寝た、あの夜に――」

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