第34話・許嫁、見送る

 目が覚めると部屋は夕焼けのせいで橙色に染まっていて、目の前の氷浦も静かに寝息を立てていた。

「…………きぬ、ちゃん……?」

 意識がハッキリしてくるにつれ、覚える違和感。

 すぐにそれは背中の肌寒さだと気づき、名残惜しくも氷浦の腕をどかしてリビングへ向かう。

「あら起きたの。コップ、借りてるわよ」

 そこには慌てふためく私とは対象的に、水を飲んで一息ついている帛ちゃんの姿があった。

「さて……じゃあ帰るわね」

「えっもう? あれだったらご飯とか一緒に」

「誘いは嬉しいけどお断りするわ。もともと長居する気はなかったの。まさか寝ることになるなんて思いもしなかった」

「そ……っか」

 既に着替えも終えている帛ちゃんはコップの水を飲み干すと、律儀に洗って拭いて食器棚へ戻す。

「ねぇ帛ちゃん……氷浦、起こさなくていいの?」

 葛藤や未練もなさそうに玄関へとスタスタ歩いていく帛ちゃんに、私は自然に湧き出た質問をぶつけた。

 すると彼女はピタリと止まって振り返り、控えめな笑みを浮かべながら答える。

「私ね、お姉様の寝顔、初めて見たの」

「へっ?」

 寝顔を……初めて? 家族、なのに? そりゃあ大人になればそんなに見せ合うものではないだろうけど、まだ小学生だし……姉妹だし……。

 氷浦家って……私が思っている以上に殺伐としてる感じ、なのかな。

「たぶん、私には弱みを見せないっていう意思の一環だったと思うのだけど……まさかこうもあっさり拝見できるなんてね」

 なんとなく、想像した。

 お昼寝から目覚めた帛ちゃんが、初めて見せる氷浦の寝顔を眺めながら穏やかに微笑む姿を。

「あんなに幸せそうな顔されたら起こせないわよ。だから、いいの」

「ん、わかった」

 帛ちゃんが決めたことに口を挟むつもりはない。だから私は――

「いつでも」

 ――姉の許嫁として、妹の幸そうな笑顔につながる提案をするだけ。

「いつでも見に来てね、帛ちゃん。私達、家族なんだから」

「っ」

 驚いたように少しだけ目を見開いた帛ちゃんは、すぐに表情を緩めて、まるで私と年齢が逆転したかのように優しい声音で紡ぐ。

「ちょっと耳を貸して。お姉様の秘密を教えてあげる」

「氷浦の……秘密? なに?」

 突然の提案だけど教えてもらえるというのなら是非もない。氷浦のことならなんでも知りたい。などと――

「嘘よ」

 ――何の逡巡もなく厚かましい行動をとった私の――低血圧のせいできっと冷たい頬に、帛ちゃんの柔らかくて熱い唇が、くすぐるように、かするように触れた。

「ちょ……えっ、なんで!?」

 急にデレられると困るんだけど!? ヒートショック現象起きちゃうよ!? 

「別に。なんてことないお礼よ。ありがたく受け取っておきなさい」

「あ、ありがとうございます……!」

 なんのお礼……? 怖いよぉタダより高いものはないよぉ。

「……今度は、あなたに会いに来るわね、凛菜」

「うんっ! いつでもウェルカムだよ」

「…………意味、わかってるの?」

「えっ? 意味?」

 そっくりそのまま私に会いに来てくれるということなんじゃないんだろうか?

「はぁ……これはお姉様も大変ね」

 なんで私来年中学生の女の子に辟易されてるの!?

「帛」

 帛ちゃんが呆れ顔で呟きながらドアノブに手をかけるのと同時に、背後からまだ完全には覚醒していないであろう、氷浦の声がした。

「またいつでも来なさい。妙な名目は必要ないから。いつでも」

「……はいっお姉様」

 交わされた会話はそれだけ。

 それだけなのに――ドアを開けて出ていく帛ちゃんは、きっと本当の笑顔を浮かべていた。

 私なんかが気を使う余地なんてないくらい――二人の間にはチープな言葉で表せない絆が存在するんだと証明するような――眩しい笑顔を。


×


「妹が、すみませんでした」

 いつもどおりになった景色のリビングで、私と氷浦は紅茶を飲みながらぼぅっとしていた。

「謝られるようなことは全くないよ。少ししか一緒にいられなかったのに大好きになっちゃった。……というか、姉の方がたち悪かったし」

「うっ……申し訳……ありません……」

 ベッドの上で私をいじめ抜いていた氷浦と、こうやって穏やかにティーカップへ口を付けている氷浦。……本当にたちが悪い。今までの人生で縁遠かったギャップ萌えなんて言葉がしっくりくる日が来るなんて。なるべくスイッチを入れさせないような立ち回りが大事なんだと身を持って知った。

「まぁいいよ。私も悪かったし。結局一番大人だったのは帛ちゃんだったね、って話」

 そう、もちろん私も悪かった。自分の活躍できる分野だからといって調子に乗りすぎた。

「こんなんで明日大丈夫かな……」

 ため息と共に零した私のワードにピクリと反応して、氷浦は眉をひそめた。

「明日……?」

「いやいや不思議そうな顔でこっち見ないでよ。明日! テステートさんの歓迎会しようって伝えてあるよね?」

「ああ、それですか」

 良かった、覚えてはいたんだ。至極興味なさそうだけど……。

 本当は甘楽プレゼンツ『氷浦を元気づけようの会』なんだけど……。

「…………凛菜さん」

「なに?」

 しばしの沈黙を経て、どこか意を決したようにこちらを見やり声を出した氷浦。

「明日のことについて、ご相談なのですが」

「うん」

 まさか行きたくないなんて言い出さないよね……?

「私、凛菜さんと許嫁であることを、お話したいです」

「……………………えぇ!?」

 あまりにも急すぎて喋っている言葉の意味を理解するのにだいぶ時間がかかってしまった。

「ダメ、でしょうか」

 揺れる紅茶と交互に私を見てはうつむいたり、強い意思を込めたり。

 そもそも、私が許可を出したり却下したりする問題じゃない。氷浦は氷浦のやりたいようにすればいい。

 私が許嫁ということで氷浦の評判が悪しきものにならないか、なんていうのは私の勝手で臆病な懸念でしかないのだから。

「皆さんにとは言いません。ですが……甘楽さんには、一分いちぶの隙も見せてはいけないような気がするのです」

「…………」

 氷浦の声音は前向きなソレじゃない。どこか怯えているような、戦っているような凄みがある。

 甘楽、か。

 彼女にとって私は、数多く存在する友達の内の一人……だと思うんだけどな。そんなに……そんなに意識しないといけない?

「凛菜さん」

「……氷浦がしたいなら、好きに」

「良ければ教えていただけませんか?」

「へっ?」

「甘楽さんとの馴れ初めを」

 声音も口角も笑っている。だけど、瞳は揺るぎなく私を見据えていて、いつもの氷浦の笑顔とは程遠い。

「馴れ初めって……いいけど、別に普通だよ?」

「……すぐにお話できるほど鮮明に覚えてらっしゃるんですね」

「いやだって去年の話だし」

 そんなジトーっとした目で見ないでください氷浦さん。

 まぁ、出会いの経緯を話せば納得してくれるだろう。色気も感動もない話に、ねたそねみが生まれるはずもないし。

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