第28話・許嫁、付ける

「ねぇ氷浦、今週の日曜日、空いてる?」

 デザートも食べ終え、お手洗いに行くふりをして顔を洗いシャキっとさせてからソファで隣り合い本題に入る。

「もちろんですっ!」

「そ。そう。良かった」

 この問いに『もちろんです』って返しは変な気がするけど……。あと氷浦さん、どうしておうちの中で手を繋いでいるのかな? 指を交差させて……いわゆる、恋人繋ぎで。

「なら遊びに行こうよ」

「ぜひぜひっ!」

「みんなで」

「…………みん、な……?」

 いや表情の落差! 一瞬で百歳くらい老けてない??

「二人っきりじゃ……ないんですか?」

 気のせいか。髪の毛とか全部真っ白になったかと思うくらい迫真の落胆ぶりだったな……。

「うん。テステートさんの歓迎会をやろうって、甘楽が提案してくれて」

 本当は氷浦を元気付ける会なんだけど、それを言うのは恩着せがましいしちょっと遠回りして伝える。

「……シアの歓迎会、ですか……」

 繋がれている手に力を入れたり指先を遊ばせたりして忙しない氷浦。何の意思表示……?

「せっかくだから『私も行く』って返事しちゃってさ。……でも、大人数苦手だから……氷浦がいてくれると……嬉しいんだけど……」

「……そんな風に言われたら行かないわけにはいかないじゃないですか! 凛菜さんの策士!」

「あはは、ありがとう」

 こういう芝居じみた言い回し慣れてないから怪しまれたらどうしようと思ったけど、氷浦はノリよく応えてくれた。

 なんて安心したのもつかの間――

「……その代わり、私にもご褒美をください」

 ――ちょこんと袖をつままれ、瞳を潤ませながら上目遣いでそんな風に言われたら……思考する前に、高鳴る鼓動が勝手に言葉を紡いでしまう。

「いいけど……寝不足にならない範疇でね」

「……凛菜さん、それイエローカードなので次から気をつけてください」

「どういう意味!?」

「次えっちなこと言ったらレッドカードでペナルティがありますので」

「審判の基準がおかしすぎない!?」

 どうして急にそんなシステムが生まれたの!? まだまだわからないことばかりだ……氷浦学は奥が深い……。

「……それで、何がいいの、ご褒美」

「…………では」

 言いながら、ソファに座る私と向かい合うように――太ももの上に乗るようにして――膝を立てて座った氷浦。目の前に胸部が、少し視線を上げれば紅潮したお顔が。……近い。というか……ほぼ、ゼロ距離。

「ここを、十分じゅっぷん間……好きにさせてください」

 彼女の小さく震える人差し指は、私の頬から首へ、そして更に下って停止した。さし示しているのは……鎖骨。

 そういえば昨日、鎖骨がどうとか肩甲骨がどうとか言ってたっけ……。

「別に……いいけど」

「えっ!? 本当に!?」

「……まぁ……」

 好きにするもなにもこんな部分、できることなんて限られているだろう。たぶん、大丈夫。

「それではさっそく……失礼して……」

 氷浦は律儀にスマホでタイマーを設定してから、まず、伸ばしていた人差し指をそのまま近づけ……触れるか触れないかくらいの力で微かに撫でる。

「……」

 私は無心になるためにも目を閉じた。

「……いいんですか? そんな無防備になってしまって」

 微笑んでいるんだろうか。声音に悪戯な色が付いている。それに何の意味が込められているかはわからないけれど、なにか含みがあるのは間違いないだろう。

「これはもう……レッドカードかもしれませんねぇ」

 淡い緊張で研ぎ澄まされる聴覚が、辺りで蠢く氷浦の声を必死に感じ取る。

 やがて彼女の顔が私の首元に近づくと、もはや荒さを隠そうともしない吐息が滾々こんこんと染み込んだ。

「…………良い香り……それに火照っていて……柔らかくて……お風呂上がりの凛菜さんも最高です……」

 ……ん、まさかこの状況になるのを見越して……氷浦好みのバスソルト入れたりした……?

 どこまでが計算でどこからがアドリブなんだろう。氷浦学の奥深さに再び慄かざるを得ない。

「どこも触れても柔らかい凛菜さんの体にも、確固たるものがあることを証明する凹凸。陶器のように滑らかな白い肌が作り出す陰影。これを芸術と、肉体美と呼ばずしてなんと呼ぶでしょう」

 ……いや……熱が入り過ぎてて怖いよ氷浦さん……。いちいち言わなくていいから……。

 けれどそれはどこか、なんていうかいつも通りの氷浦で、だから私は少し油断してしまっていた。

「んっ」

 鎖骨ばかりに意識が向いていた最中、突然唇に押し付けられる熱く柔らかい感触。

 それは一度で止まることなく繰り返し繰り返し、緊張の鎧を砕くように降り注ぐ。

「……ぁ…………」

 熱を帯びた互いの吐息が混ざり合う頃ようやく連撃が終わり安堵したのも束の間、今度は同じ感触が首元に舞い降りた。

 そして、それからが長かった。氷浦は私の鎖骨をその周辺を、偏執的にで続けた。


×


「……ひ、うら……鳴ってる……もう、終わりだからぁ」

 申し訳なさげに優しい音色を響かせるスマートフォン。しかし彼女は、まるでそんなものは聞こえていないかのように唇を、舌を、熱を、欲を、惜しみなく私に押し付けていた。

「…………っ……」

 くすぐったさはとっくに超えていて、心臓がじゅくじゅくと卑猥に濡れる気配に怯んだ私の声を受け、氷浦はようやく止まってくれるも完全に目は座っていて……不満足を表明している。膝の上からも退いてくれる様子はない。

「あっ…………す、すみません凛菜さん、あの、えっと……」」

 しかしトロンと朧げだった彼女の視線が、とある箇所に焦点が合うと同時に、普段の、真面目で温かく柔らかい表情を取り戻してくれた。

「なに?」

「…………ここに、その………………」

「?」

 自身の首をおずおずと指差しながら氷浦は言うけれどいまいち要領を得ない。やがて私から切り出す前に彼女の方から立ち上がってくれた。よほど罪悪感が募ることをしたらしい。

 とりあえずと思い洗面台に移動して鏡を見てみると、鎖骨の少し下あたりに、それはくっきりと残っていた。

 淡い赤紫が滲む、口付けの確かな痕。

「…………これ……」

 人に見られたらどうしようとか、だからちょっと痛かったのかとか、そういう常識的な思考が浮かぶ前に。

 まるで、自分の体は氷浦のものだっていう事実が可視化されたみたいで嬉しくなってる自分が、心底――

「ほんと……ばか……」

 ――心底、ばからしい。

 指先でその痕を撫でると、その一点から全身に向けて熱い痺れが迸り視界が眩む。この青白い幸福感を明確に言葉で表すならば、きっと興奮と呼ぶのだろう。

「……………………」

 鏡に映る――印を付けられてどこか恍惚としている――他人みたいな自分を茫漠と見つめた後、足は自然とリビングへ向かった。

 戻ってきた私を見ゆる氷浦の不安げな表情には、一滴の期待が隠せないまま混ざり込んでいる。

「……」

「…………」

 どこまでが彼女の思い通りなのかなんて知らない。わからない。

 たとえ私の行動が全て、氷浦の手のひらの上で無様に踊っているだけだとしても――

「……座って」

「……はい」

 ――やられっぱなしは性に合わないから、お望み通りに踊ってあげる。

 座らせた氷浦の、お気に入りの部屋着であるパーカーの前を開け、首元を露わにする。

 そして私は諦めと共に確信した。どうやら明日も、寝不足のまま授業を受けることになりそうだ。

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