第26話・許嫁、迎える
去年は違うクラスで、教室に氷浦がいないのは当たり前で。
会うと言っても廊下ですれ違ったり体育の合同授業で互いに様子を伺うだけで。
だから、一日くらい彼女が休んだところで、何も感じないと思っていた。
「えー氷浦は体調不良で休みだそうだ。みんなも気をつけるように」
だけど、本来氷浦が座っているべき席がぽっかりと抜け落ちている光景は、私の胸にえも言えぬ物寂しさをもたらして。
(……早く帰りたいなぁ)
勉強や学校が嫌いというわけじゃない。今まで眠たいと思うことはあれどつまらないと思うことはそうなかった。
今だってそうだけど……早く帰りたい。早く会いたい。早く、氷浦の声が聞きたい。
×
放課後。ようやく放課後。早く帰りたいと願えば願うほど秒針の進みが遅くなるように感じた。
それにしても昼休みの甘楽は見てられなかったな。氷浦が休んだのは素っ気ない態度をとった自分のせいだって見るからに落ち込んじゃって。テステートさんは別のグループに混ざってたから、コミュ障な私一人でフォローするのは大変だった。
次の日曜日に『氷浦ちゃんを元気づける会』を
もし来てくれたら、そのときにこそきちんと証明しよう。甘楽は本当に良い子で、純粋で、私に恋愛感情なんて持っていないということを。そもそも初めて出会ったときから甘楽と私の距離は一定で、友達以上でも以下でもない。あ~んにだって特別な意味はない。わかってくれるといいなぁ。
「さて」
自宅に着いて鍵を開けてドアノブに手をかけて、少し悩む。
基本的に私が家にいて氷浦を迎えることが多かったから、というか……氷浦の待つ家に帰るのって……もしかして初めて?
……どんなテンションでただいまって言えばいいんだろ……まあ……なんとかなるか。
「ただい……」
考えるのも面倒になってその場の勢いに全て任せることを決定。そして扉を開いたその先には――
「おかえりなさいませ、凛菜様」
三つ指ついて頭を垂れて出迎えてくれた――許嫁の姿。なに……してるのこの人……。ただいま言うタイミング完全に失ったんだけど。
「ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも、」
思わず言葉を失った私へ、彼女はゆっくりと顔を上げながら続けた。
「ト・バ・リ?」
「…………」
どんな表情をしていればそんな言葉が出るのか疑問だったけれど、耳まで真っ赤に染まっていて相当の覚悟を決め恥を忍んだ様子が伺える。
「え、へへ。なーんちゃって……。おかえりなさい凛菜さん。おつかれ様でした。学校はいかがでしたか? シアや甘楽さんには「じゃあ……氷浦」
「……は、い?」
照れ隠しなのか私のカバンとブレザーを(強引に奪うように)預かりながら捲し立てる氷浦へ、ちょっとした意地悪。
「氷浦って言ったら、どうなるの?」
「……えっと……それは……その……」
興味本位。なんとなくどんなことを意味するのか流石の私だってわかるし、氷浦にとってもお茶目なジョークだってこともわかる。だからこそ、ここで乗ってあげないのはあまりに不憫だろう。
「…………」
「…………」
チラチラと、私の顔を見たり伏せたりを繰り返した氷浦は、瞳を閉じて深呼吸をして――
「……とりあえず二人でお風呂に「待って待ってなんとなくわかったから大丈夫。ご飯、ご飯食べる」
靴を脱いだ私の手を取って脱衣所へ向かい始めたのでジョーク終わり。これ以上はね、なんか冗談じゃ済まなそうだし。
「……かしこまりました。すぐに準備しますのでお着替えしてきてくださいっ」
一瞬不服そうなお返事が聞こえた気がするけど、続く明るい声に安心して自室へ向かった。
×
「……………………ちょっと……もう……」
氷浦に促されて着替えるために自室へ向かうと、ソレはすぐ目に入った。
「……本当に…………やめてほしい…………」
二輪の、桃色のバラ。包装は花が際立つように質素なものになっているけれど決して貧相ではなくて品がある。
更に私は勉強は出来ないくせに変な知識は持っているから、それらの意味もわかってしまって……心臓の奥から全身に向かって幸せな温度が広がっていく。
そして添えられたメッセージカードには五七五の短いメッセージが綴られていた。
『底冷に 熱源二つ 縋り合う』
どこか仄暗く、それでも幸せな景色を夢見ているような、慎ましい希望が織り交ざっている――不思議な響き。
もしかして有名な句かと思ったけれど検索するのはやめた。誰かの言葉ではなくて、氷浦の世界だって信じたかったから。
「……」
メッセージカードを机に戻すや否や、結局私は着替えもせずに部屋を飛び出して、
「わっ凛菜さんっ? どうしました?」
夕餉の配膳をしてくれている氷浦を、背中から抱きしめていた。
「ああいうの……えっと……ダメ、でしたか?」
「氷浦がいい」
「えっ?」
「やっぱりご飯じゃなくて……氷浦がいい」
なんでもない日にもらう花がこんなに嬉しいだなんて思わなかった。学のない私が句を美しいと感じるなんて思いもしなかった。
この人は、私の許嫁は、もうとっくに、私以上に私のことを知ってるいるんだと思ったら……もう、たまらなく愛おしくて。
「……氷浦……ありがとう」
背中から抱きしめると、彼女の体の細さがよくわかった。目が合うこともないから恥ずかしくならなくていい。つまりどういうことかと言えば、とてもいい感じな、好きな感じな体勢を見つけてしまったということだ。
「……良かった」
「っごめんね、ご飯冷めちゃうね。さっさと着替えてくる!」
氷浦の冷たい手が私の手に重ねられて、ようやく我に帰ることができた。テーブルの上に所狭しと並ぶ絢爛豪華なメニューが視界に入り、それらの食欲を誘う香りに鼻腔を突かれ、自分が如何に勝手な行動と発言をしたのかと諌められる。
「凛菜さんっ」
再度自室へ向かおうとした私を呼び止めた氷浦は、緊張とは少し違う、紅潮した表情で言った。
「私は、いつでも大丈夫ですから」
「え、えと……うん」
「で、ですので! まずは是非ご飯から召し上がってくださいっ!」
ご飯……から?
まるでその後に召し上がるものがあるかのような良い振りに妙な予感がして、ドギマギしてぎこちない手指をなんとか動かし部屋着になって、ようやく食卓に着いた。
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