第25話・許嫁、報いる
キスは、嫌いじゃない。
柔らかくて暖かくて……決して不快感なんてなくて、むしろなんというか……心地、良いから。
でも……あの感触は、そういう牧歌的な生易しいもんじゃない。
触れた接点はたった数ミリなのに……初めてキスをした時よりも強い――体の芯まで震えるような痺れが
「やめてって言ったのに……」
変な声たくさん出しちゃったし……バカみたいに体も跳ねて……氷浦にあんな姿絶対見せたくなかったのに……恥ずかしすぎるっ!!
「っ……」
こんな……なんでもないただの耳を……ちょっと弄られただけなのに……。
「……悔しい」
こっちだって心の準備が出来てれば……十時間くらい前もって言ってくれてたらどーんと構えて、何時間だって平気で耐えられたのに!
……不意打ちだったのが悪い。
「私だって……!」
私だけが変なところを見られて終わる?
そんなの……絶対違う。許されない。
許嫁として平等に、氷浦だって同じ辱めを受けるべきだ。
自分が軽率に行ったその行為に、ちゃんとした報いを受けるべきだ。
やられっぱなしで済ましてやるもんか。
×
朝六時、作戦の決行。
あんまり眠れなかったけれどその分、心の準備は万端。身だしなみも完璧。
「……」
音を立てないようにそっと、氷浦の部屋のドアノブを回して侵入し慎重に閉める。
今までの生活なら絶対にやらなかった行為だ。私がやられたら嫌だから。
それでも……。
「りん、な……さん?」
「えっ……氷浦、起きてたの?」
まさかのまさか。ぐっすり眠っている氷浦に不意打ちしようと思ってたのに、私が軽く布団を持ち上げると彼女は弱々しい目で私を見た。
「だってぇ……だってぇ……!」
というか……寝起きって感じでもないし……目元も赤くなってるし……もしかして怖い夢でも見てた?
……いや、今はそんなこと考えるべきじゃない。同情して手を緩めればまたすぐに氷浦のペースだ。
私の目的は、たった一つ。
「氷浦、あっち向いて」
「? は、はい」
ほんのりと疑問符を浮かべながらも、私の言うとおりに仰向けのまま顔を横にしてドアの方を見た氷浦。
はらりと艶やかな黒髪が流れ、その隙間から現実感がないほど白くて整った左耳が現れる。
「……」
昨日はよくも……散々私の醜態を楽しんでくれたわね。
私の気持ちを……思い知れ。
「へぇっ!? りん、なさん! な、なにを……」
「
よし。ノーダメージだったらどうしようかと思ったけどそんなことはないらしい。
「んっ…………あぁっ!」
そうでしょうそうでしょう、軽く甘噛みされるだけでもすごいでしょ?
そうだ、私が弱いわけじゃない。誰だってこんなことされたらこんな風になるんだから。
「…………凛菜さ……ん!」
所在なさげに開かれていた氷浦の手のひらに私の手のひらを絡めて拘束。
「……ダメ、私……このまま……じゃ……」
「……」
ダメって言ってもやめてくれなかったのはそっちだよ。
私と同じ気持ちになるまでやめてあげない。
なんて、いつの間にか意地になってしまった私は彼女の耳を執拗に唇で
いよいよ氷浦は『あぁ!』だの『うぅ……』だの『いッ』だのと母音しか発さなくなり――
「っ」
やがて大きく息を吸い込んだ氷浦が、昨日の私以上に体を痙攣させた。
「……はぁ……はぁ……」
荒い呼吸と脱力した全身、そしてじんわりと汗ばんだ真珠色の肌はきついマラソンの後を彷彿とさせて……流石に可哀想に思えてくる。
……今日はこの辺で許してあげようか。
なんて思って手を離し、ベッドから降りようとした時――
「なっなんでやめちゃうんですかぁ!」
「!?」
これまでの受け身が嘘のように私の腰へ抱きついてきた氷浦。こっちは突き飛ばされる覚悟持ってきたのに……なんで?
「……もっと……ねぇ、凛菜さん、やめないで」
さっきと真逆のこと言ってますけど!? ダメじゃなかったの!?
「も、もうおしまいっ! これに
「……どんな誘い文句ですか、それ」
……誘い? どういう意味?
意趣返ししてスッキリするはずだったのにハテナマークが増えるばかりだ。
「うぅ~……凛菜さん〜……」
私をがっしりとホールドしたまま氷浦はうめき続ける。
「ほら、離して」
「いやです! どこ行く気ですかっ?」
「リビング」
「どうして……?」
「どうしてって……もう学校行く準備するし」
「私……朝からこんなことされたらもう動けません。今日は学校お休みます!」
いや声音は物凄い元気なんだけど……。
でも……うん。
「……そうしな」
「えっ!? 甘ったれたこと言ったのでお仕置きしてください! さっきみたいな感じで!」
テステートさんと同じ波動を感じる……。細かいことはわからないけど、絶対しない方が良いってことはわかった。
「しないよ。どう見ても寝不足だし……私も休んだ方がいいと思う」
元気なのは声だけで、目元は赤いだけじゃなくてクマみたいな影も少しあるように見える。明らかに健康体な氷浦ではない。一睡もしていないと言われても信じられる。
「……凛菜さんが……そういうなら……。っ! やっぱりダメです! 凛菜さん一人で行かせたらシアと甘楽さんが「帷。」
「……はい」
その寝不足は、昨日のやりとりが原因なのは間違いなくて。
私も思うことがないわけじゃないけど、氷浦に迷惑をかけちゃってるのは、やっぱり私なわけで……。
「ちゃんとお留守番出来たら……ご褒美とか……ある、かもよ?」
だからこそ、そんな自分は棚上げしてでも……氷浦には休んでほしい。寝不足のせいでもしものこととかあったら悔やんでも悔やみきれないし。
「そ、それ……もしかしてさっきの続きとか……ですか!?」
「………………さぁ?」
はぐらかしておこう。逃げ道大事。
「氷浦帷は凛菜さんの言いつけを守ってしっかり睡眠をとることを誓います! おやすみなさい!」
これから寝る人間とは思えないほどパッションに満ちた宣誓をして瞳を閉じた氷浦。その口元は緩みに緩んでいて、深睡眠に落ちるまでは相当かかりそうだと伺える。
「いい子にしててね、帷ちゃん」
「はぁーいっ!」
なんとも幸せそうな寝顔に吸い寄せられて頭を撫でると、彼女の方からも私の手のひらへとグリグリ押しつけてきた。
その仕草に、らしくもなくニヤついてしまったのは、たぶん、ずっと内緒だ。
×
「それじゃ行ってくるね」
学校の支度を済まして、ちゃんと寝てるかの確認と挨拶を兼ねて部屋を覗いてみると、案の定まだ起きていた氷浦は駄々っ子みたいに私へ手を伸ばして言う。
「……やっぱりやだぁ。行っちゃイヤです……凛菜さん」
ダメなんだよ私、こういう……年下感醸し出されると……弱い。……ずっと妹ほしかったくらいだし。
「……まったく……」
甘ったれな氷浦に『まったく』。
そしてそんな氷浦に甘い私にも、『まったく』とため息が出る。
「ん」
「ん~~~~!」
伸ばされた腕の間に体を入れて私から軽いハグをすれば、容赦なく返ってきた暑苦しい抱擁。
さて、どんな文言で彼女を引っ剥がそうかなと逡巡すると同時に――
「…………行ってらっしゃい、ませ」
――氷浦は、私を解放した。
「もう、いいの?」
あんなに懇願してきたくせに、あまりにもあっけないので思わずそんなことを聞いてしまう。私のバカ。
「だって……制服……シワになってしまいます……」
「……はぁ」
変なところはちゃんと変なのに、変なところでちゃんと真面目なんだから……。
それで私は……こういう一面にも弱い。まったく、弱点だらけだ。
「ん」
「ん~~~~~~~!!!!」
ブレザーを脱いでもう一度手を広げると、氷浦は大型犬のように飛びついてきた。
やばいなぁもう。いろんなものの優先順位がおかしくなってきてる私も……周りから見れば変なんだろうなぁ。
「凛菜さん……大好き。今日の家事は任せてくださいね」
「ありがとう。楽しみにしてる」
とうとう私の脳裏にも遅刻だの欠席だの不良的思考が巡り始めたけれど、いい加減氷浦にはちゃんと寝てほしい、と正常な思考に帰着した。
ので、抱きしめたまま仰向けに押し倒し、更に十秒間抱きしめて――
「「……」」
――軽いキスを何度か重ねて、じっくり、唇が溶け合って一つになる錯覚を味わって、彼女の瞳がとろんと微睡んできたけれど――
「……」
――意趣返しは、まだ終わってない。
「っ!!!!!」
――できるだけゆっくり、されど微かに、氷浦の上唇に舌を這わせる。
すると彼女は声にならない声を上げ、大きく見開いた瞳に涙を浮かべて……カクンと、いきなり脱力してそのまま眠りに落ちた。
だい……じょうぶ、だよね? なんか……凄まじい速度で寝入った気がするけど……まるで……気絶したみたいに。
「よしよし」
すぅすぅと寝息を立てていることにとりあえず安堵し、布団を掛け直してもう一度頭を撫でる。
反応はないけれど、その分私のしたいように出来てしまうのでひたすら撫でる。両手を使って撫でてみる。わしゃわしゃとやや乱暴めに撫でてみる。ちょっと抱きしめながら撫でてみる。
いくら触れても飽きることのない不思議な肌触りで夢中になっていた私を、何気なく視界に入ってきた時計が現実に引き戻した。
……名残惜しいけれど行かなくちゃ。
氷浦帷の許嫁であるために、彼女と家族になるために、私にはまだまだ、頑張らないといけないことがたっくさんある。
「行ってきます」
家事も、勉強も、コミュニケーションも磨いていくよ。
氷浦がいろんな人に、私を自慢できるように。
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