第20話・許嫁、籠もる

 心臓の、少し下のあたり。身体の芯に近いところがただれたように痛んで、逃げるように教室を出た。

 転校生であるテステートさんとクラスの面々が軽く交流するための時間(授業が始まる前までの少しの間)を与えられ、浮足立ってわちゃわちゃした空間から私一人消えたところで何の問題もないはずだ。

 早足で廊下を歩き、目指す先は――トイレ。流石は私立わたくしりつということで清掃はどこも行き届いているけれど、二号館三階にある教職員用トイレは格別の清潔感を誇る。

 授業開始直前であることも相まって、案の定先客は一人も居ない。一番奥へ駆け込んで便座蓋の上に腰を落ち着けた。

(痛い……)

 あの発言や視線が、テステートさんの単なる挑発やパフォーマンスだとは思えない。だって氷浦も反応していたから。詳しいことは何もわからないけど、あの二人の間に何かがあるのは間違いないんだ。

(……痛いよ、氷浦……)

 知ってる。……これは、恐怖だ。

 大切な人がどこかへ行ってしまう寸前に滲み出る、静かで、冷たくて、刺々しい予感が、心の痛覚を執拗に弄る。

「……」

 ただ胸を抑えながらこの痛みをどうやり過ごすか考えていると、慌てる様な足音と吐息がトイレに響いた後、一直線に扉越しまでやってきてすぐにノックが続く。

(他にも空いてるのになんでわざわざ私がいる場所を……。 )

 そんな風に、心の中で可愛くない悪態をいたと同時に――

「凛菜さん、大丈夫ですか?」

 聞き慣れた優しい、いかにも不安げな声が響いた。

「……大丈夫じゃない」

 鍵を開けて声の主の手を掴んで中に引き入れ再びドアを閉め、二人で狭い個室に閉じ籠もる。

「でも……追いかけて来てくれたから……ちょっと、大丈夫」

「遅くなってすみません。私も少し混乱してしまって。……話を、聞いていただけますか?」

「うん」

 氷浦は荒い呼吸を整えながら、私の手を控えめに握って切り出した。

「彼女とは……シアとは確かに知り合いです。昔から親同士の付き合いがあって……その昔、大きくなったら結婚しようねと言われた日もありました。しかし私は、完膚無きまでにバッサリとお断りしましたし、もちろん両家の親も承認していない野良許嫁です。信じてください。私の許嫁は間違いなく、この世に凛菜さん、たった一人です」

「……うん」

「本当はあの場ですぐに否定したかったのですが……もしも凛菜さんのご迷惑になるようなことがあれば私は……」

「わかった。ありがとう」

 氷浦みたいなおおらかな人格者が……人って……? それに野良許嫁とか気になるワードもあったけど、とにかく今、こうして彼女が必至に弁解してくれている現状に安心を覚えている自分がいる。大丈夫。信じられるのも、信じたいのも一人だけだ。でも……。

「氷浦の口からちゃんと説明を聞けて安心した」

「……怒って、ませんか?」

「怒ってないよ。二人には二人の事情があるんだろうし……後から割って入ってきたのは私だし」

 やっぱり釈然とはしなくて、完全に納得できたわけではなくて。

「そんな、割って入ってなんて……違います!」

 ……今のは自分でも感じが悪いと反省する返しだった。

 氷浦は手を握る力を強くして、ツンと唇を尖らせて言う。

「凛菜さんがそんな風に……そんなことを言うなら、私にだって言わせていただきたいことがあります!」

「……なに?」

 今この状況で私に言いたいこと……? 料理がまずいとか? アイロン掛けが下手とか……? いよいよ喧嘩か……?

「あまり甘楽さんに隙を見せないでください! 叫び出しそうになります!」

「……え、甘楽が、なに?」

 いきなり飛び出してきた全く想定していなかったワードに、身構えていた戦意が剥がれ落ちる。

「あーんな楽しそうに手ぇ繋いじゃって……見せびらかしてきて……!!」

「甘楽は別に……単なる友達で……」

「そう思ってるのは凛菜さんだけなのでは! というか私が視線で釘刺してなかったら絶対手にキスされてましたから!!」

 上がり続けるボルテージに圧倒され絶句していた私に気づき、氷浦はしなしなと力を抜いて私にもたれかかった。

「私以外の誰にも……触れられたりしないでください」

 もたれかかったと思ったら、そのまま腕を背中に回してきてきつく締め、耳元で囁く。

「もう……凛菜さんの心も体も、全部私のものなんですから」

「…………うん」

 ずるい。そんなこと言われたら……何も返せない。

 そもそもこんなところで籠もってるのは、氷浦が原因じゃなかったっけ?

 これが惚れた弱みとか呼ばれる代物なら、なんて厄介なものなんだろう。

「不安にさせてしまってすみません。シアには私からちゃんと、撤回するように言っておきますね」

「うん」

 本当に、ずるい。先に謝って次にすることを宣言して、私から責められる要因をさっさと摘み取ってしまうなんて。

「……凛菜さん。もうこのままサボっちゃいましょうか」

 気づくと、彼女が私を抱きしめる力よりも、ずっと強い力で私が彼女を抱きしめていた。……悔しいなぁ。

「ダメ、戻ろう」

「……わかりました。…………余計なこと言っちゃいましたかねぇ」

「初日からサボりとかありえないでしょ。言ってくれなかったら怒ってた」

「うぅ……真面目な凛菜さんも好き……」

 腕の力を緩めて氷浦を開放し、名残惜しそうに私の制服を握る手を引っ剥がした。

「先に戻ってて。一緒だと変に勘ぐられちゃうかもしれないし。それに……」

「そう、ですね。そんな可愛い顔、私以外に見せちゃダメです」

 私が言い終える前に、紅く熱を帯びている頬を優しくつついた氷浦は鍵を開けて出口へと向かっていく。

「それじゃあ、またあとで」

「うん。あとで」

 私達をドアが隔てて、彼女の足音や気配が遠ざかるにつれ、心臓の動きが穏やかになってきた。

 朝から心拍数の乱高下続きでもう、疲れたな……。なんか……落ち着く空間と……安心と……静寂のせいで……眠気が……一分だけ、いや、三十秒だけ……寝ちゃお…………

「一つ、聞きたいんだけど」

「っ!!」

 間抜けにも便座蓋に座って微睡まどろんでいた私へ、冷水のように降ってきた声。

 せっかく落ち着いていた鼓動が再び加速したことで、既にイヤという程の苦手意識が刷り込まれていることを知る。

「ここ、職員用みたいだけど生徒も使っていいの? しかも仮眠室代わりに」

「……良くはないんじゃない? それじゃ」

「ちょっと。冷たいのね」

 立ち上がって個室から出ようとするも、彼女は体と両手を使ってとおせんぼのような姿勢になって遮り、それを許さない。

「……なにか用? シア・テステートさん」

「随分他人行儀じゃない。寂しいわ、凛菜」

「名前で呼ばないで。それに今日知り合ったクラスメイトって、十分他人だと思うけど」

「あら、氷浦帷という許嫁を持つ者同士じゃない。仲良くしましょうよ」

 クラスメイトに囲まれていたはずの彼女がどうしてこんなところにいるのか。

 私を追い詰めている理由はなんなのか。

 わからないけど、たぶん、考えたって仕方がない。

 どうせ宣戦布告かなにかだろう。……いいよ、受けて立ってあげる。

 こんな私を許嫁に選んでくれて、こんな私に恋を――甘えなのか、依存なのかもわからないけれど、それでも恋と呼びたいこの感情を――教えてくれた、氷浦帷という存在は――絶対に、誰にも譲らない。

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