第15話・許嫁、応える
熱い。
氷浦の冷たい手に触れられていた頬が、ひどく熱い。
「着きましたね、凛菜さん」
「うん。意外」
……本当に意外だった。
さっきの喫茶店から奥津宮まであっという間だったから、ではなくて、
氷浦にキスをされそうになったから、でもなくて、
結局は、されなかったから。
私がその気を見せたら、すぐにされるんだと思ってた。でも彼女は苦悩に表情を歪めて……結局はしなかった。
もしもあの時、他のお客さんが来なかったら私達はどうなっていたんだろう。
あのまま互いに固まったままだったのかな、それとも、次の瞬間には関係性が変わる程の何かが起こっていたのかな。
今となってはわからない。氷浦が今何を考えて、どんな気持ちなのかも、私にはわからない。
「……」
「……」
私達は話すべきことを見つけることができずに無言で、漠然と奥津宮を抜けようとしていた。
落ち着かない視線をあちらこちらに飛ばし合って、たまに重なると、少し気まずくて。
「…………」
「…………」
人集りに気をとられてそちらを見てみると、
早足にその場を離れて更に奥へ奥へと進んでいけば――
「あっ」
――心と体の火照りを冷ますように、優しい潮風が頬を撫ぜた。
「海だ」
私の、大好きな海。
大好きなお母さんが、大好きだった海。
崖になぞるように出来た急な階段を下れば下るほど海が視界を大きく占めていく。反射した太陽光は突き刺さるように白く、目を細めながら歩いた。
「凛菜さん、岸の方まで行ってみますか?」
階段を降りて岩屋までもう少しといったところで、氷浦が静かに問う。
潮が引いているからか、多くの人が海岸に出て景色を堪能したり、岩場に溜まった水で遊んだり、中には釣りをしている人もいる。
「……ううん、大丈夫」
「……そう、ですか」
本当は少し、少しだけおりてみたい気持ちはあったけど、もし濡れた岩場で氷浦が滑って転んだりでもしたら……。
そうじゃなくても今日氷浦が着ているアイボリーのワンピースはお気に入りと言っていたはず。跳ねた泥とかが付いても可哀想だ。 やめておこう。
「いよいよですね」
「だね」
海岸へおりられる場所をスルーして真っ赤な欄干の橋をまっすぐ歩き、いよいよ最後の目的地である岩屋に到着。
長い年月をかけながら波によってぽっかり削られて出来た海食洞窟は、燦々と輝く外から隔絶されたように薄暗く、ひっそりとしていて、静謐な緊張感に飲まれながら私達は足を踏み入れた。
×
「ねぇ、氷浦って怖いもの、ないの?」
冷感と圧迫感と閉塞感が増していく岩屋を慎重に歩いていると、やがて一列に並んだ観光客達に合流する。この先で参籠を終えれば、江ノ島散歩も一段落と言えるはず。
「ホラー映画も、虫も、暗いところも平気なんでしょう?」
足を止めている間の沈黙はどこか気持ち悪くて、私は少し前から気になっていたことを聞いてみた。
「そうですね……。私は……どうしても耐えられない、真に恐怖すべきコトが一つだけあります。それに比べれば……そのコトを考えれば、いろんなことがへっちゃらになっちゃうんです」
そう言って笑う氷浦の表情には、喫茶店で見せた小さな陰りが紛れているように見える。
「……そっか」
わかってる。
そのコトが何を指すのか。
私のせいで、彼女がどれだけ心を痛めているのか。
どうしてこんなにも、咎められているような気持ちになるのか。
「……凛菜さん?」
「あっ、ごめん」
洞窟の空気に当てられたからか薄暗い思考を逡巡していると、気づけば私達が列の最前にいた。
鎮座する龍は物々しい雰囲気を放っていて、なんというか、ちゃんと怖い。
軽い気持ちでお参りをしようものなら頭から食い千切られそうな恐怖が過ぎり、私は瞳を閉じて自分を見つめた。そして、自分の本当の思いを、願いを探した。
(…………勇気を……)
わかってる。
私は、臆病なんだ。
大好きな人と離れる痛みを味わいたくないから、大好きな人を作らないように努めてきた。
人との別れがあんなにつらくて苦しいなら、もう二度と、誰も好きにならなくていいと強がって生きてきた。
けれど、もうそんな孤独にも、耐えられそうにない。
――
彼女はいろんな危惧や不安に立ち向かって、それでも私に歩み寄ってくれた。その一つ一つにどれだけの勇気を振り絞ってきたのか私には計り知れない。
だから――。
(どうか、どうか私に勇気をください。 彼女に応えられるような、勇気を)
厳かな神でも穏やかな仏でもなく、恐怖に満ちた龍の前でようやく、自分の本心と出会えた。
長く祈りすぎたかなと思い慌てて顔を上げると、氷浦も同時に動いて、同時に顔を向き合わせる。
それがおかしくって、どこか嬉しくって、彼女が差し出してきた左手を、私は自然と右手で受け取ることができた。
×
暗くて狭い洞窟内で頭をぶつけないように気をつけながら、それでも繋いだ手は離さないまま岩屋を抜けると、神々しい太陽の光が視神経を伝って心までじんわりと温めていく。
「凛菜さん、」
艶やかな黒髪を潮風に靡かせながら、氷浦は強く朗らかに言った。
「やっぱり海岸に降りませんか? せっかくここまで来たんですから」
「でも……」
「大丈夫ですよ、さぁ」
断る理由を思いつく間もなく、手を引かれるままにゴツゴツと自然味溢れる地面に降り立つ。
よっ、とか、ほっ、とか言いながら、水たまりを避け岩から岩へ飛び移り、波が打ち寄せている海岸の
……本当に、綺麗だ。
「……」
海を見れば、いつだって幸せな記憶が――幸せな思い出が待っていてくれて、私を癒やしてくれる。
それは例えば、お母さんと二人で何も言わずに、夕日が水平線を橙に染めながら落ちていくのを見ている空間。
「……」
だけど、もういない。あの時間にはもう戻れない。お母さんには、もう会えない。
それでも……幸せな思い出を忘れることは決して出来ないけど、幸せな未来へ踏み出そうと思えた。
だって今、私の隣にいるのは――。
「氷浦、」
太陽の光を受けて宝石のように煌めく海よりも、ずっと、ずっと綺麗な私の許嫁に体を向けて、小さく呼びかける。
緊張に
「なんでしょう、凛菜さ――」
氷浦が柔らかい笑顔を浮かべながらこちらへ視線を移したタイミングで、彼女の頬に手を添え、唇を寄せた。
「――ん。……なっ? ほぇ……?」
混乱か、驚愕か。間近で見える氷浦の淀みない瞳がみるみる内に大きくなっていく。
「長い間、待たせてごめんね」
やがて氷浦は
「もう何も、我慢しないでいいよ。氷浦なら、怖くない。氷浦となら、大丈夫」
「…………いいん、ですか?」
ぎゅっと、私の服を掴みながら、波にかき消されてしまうそうな程か細い声を氷浦は零した。
「これから先も……一生、凛菜さんを愛していいんですか?」
「うん。一生愛してもらえるように、私も頑張る」
言い終えると同時に、周囲の目なんて一切気にせず私の胸に飛び込んできた彼女を強く抱きしめて、いつかと同じように頭を撫でながら、背中をさする。
あのときは押し切られて、流されて、戸惑いばかりが心と体を支配していたけれど――
「
――今はただ、彼女への感謝が、愛おしさが、心と体に満ち溢れていた。
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