第10話・許嫁、寝惚る

 泣き喚く幼い私を俯瞰で眺めながら、自分は何故こんな悲しい夢を見ているのだろうと思った。 

「待ってお母さん」「行かないで」「戻ってきて」

 遠ざかっていく愛しい人の背中へ必死に拙い言葉で懇願するも、それらは水中でくぐもるように響かず、届かない。

 あるいは届いていたとしても、彼女は振り返らない。決して振り返らず、意思の強さを感じさせる歩速で私を突き離していく。

 いよいよ力尽きへたり込んだ私の前に突如として現れ、そっと手を差し出してくれたその人は、見慣れた笑顔を浮かべていた。

「……お姉ちゃん誰?」

「…………」

 幼い私の問いに、氷浦は何も答えない。

 現状を何一つ理解できていない私の手を握ると隣に腰掛け、甘ったるい鼻歌を奏でるだけだった。

 たったそれだけ。たったそれだけで生まれた安心感に夢の中の私の微睡みはみるみる強まっていき――

「っ…………」

 ――現実の私が目を覚ます。

「……」

 公共機関を使って江ノ島に向かうなら江ノ電に乗らない手はないと、以前江ノ島水族館えのすいへ訪れたときに確信した。これは単なる電車ではなくて、立派な観光名所の一つだからだ。利便性は不問とする。

 座る席を間違えなければ緩慢に移ろう古びた車窓から大海原が広がり、それに反射された綺羅びやかな太陽光は容易く瞼を貫通し、なんとも言えない夢を終わらせてくれるほど鮮烈だった。

「……」

 両耳に付けたワイヤレスイヤホンからは、先程まで氷浦が夢の中でハミングしていた曲が流れていたけど、その曲が終わると共に丁度プレイリストを一周したらしく音が止む。

「……」

 つまり、去年のクリスマスに氷浦とお揃いで買った色違いのワイヤレスイヤホンは今、周囲の雑音を若干軽減する高価な耳栓と化していた。

 ぼんやりする音、ぼんやりする視界、ぼんやりする意識の中で、『電車に乗っていると眠くなるのはカタンコトンと揺れるリズムが胎動に似ていてリラックスできるからなんだっけなぁ』なんて、どうでもいい雑学に思いを馳せていると――気付く。

 隣に座っている氷浦が、私を見つめていることに。

 ただそれだけならよくあることだけれど、驚いたような、嬉しそうな、けれどどこか不安に怯えるような、そんな表情でこちらを見つめている氷浦に私も疑問を抱かざるを得なかった。

「……っ!」

 そして答えはすぐに分かる。氷浦の表情を捉えている視界の下の下、端の端で、私は彼女と手を繋いでいた。

 いや、夢のときは氷浦から握ってくれたけれど、今は私が彼女の左手の上に自分の右手を重ねて握りしめている状態だった。

 慌てて離そうとしても、私以上に慌てて氷浦は手のひらを反転させて指を絡ませ、決して離すまいとする。

 説き伏せようと思ってもお互いにイヤホンを付けていてそれは叶わない。

 そもそも電車やバスで移動する際、『静かな雰囲気で話すのが苦手』+『でも沈黙は居心地が悪い』という理由で、出掛けるときは互いにイヤホンを付けて好きな音楽を聴こう、と提案したのは私の方だった。それを自ら破るのはいただけない。

「……」

「……」

 諦めて手を繋いだまま海を眺めていると(氷浦はずっとこっちを見ていたけど)、あっという間に江ノ島駅に辿り着く。あまり風景を記憶することはできなかった。

 氷浦は電車から降りてもなお絡めた指の力を緩めようとしてくれないため、私はスマホを左手に持ったまま、変な体勢で改札を通る羽目になった。

「氷浦、イヤホンしまうから」

 駅から出ればお喋りを自重する必要もない。片耳のイヤホンを左手で外して要件を伝えると、彼女も片耳のイヤホンを右手で外して言う。

「……一瞬ですよ」

 宣言通り氷浦は、手を離してからほとんど一瞬の内に鞄からワイヤレスイヤホンのケースを取り出し、イヤホンを定位置に戻し、ケースを鞄にしまった。

 十秒ほど遅れて私も同じ動作を完了させると、焦っているような様相で見守っていた彼女は左手を私に突き出す。

「凛菜さん、早く、手」

「…………」

 これからそれなりに人通りのある道を歩いていくのは間違いない。普通に恥ずかしいけど、学校の友だちは手ぐらい普通に繋いで、腕くらい普通に組んで歩いていたりする。

 ……結局どう断ろうか脳が逡巡を始めると、氷浦は急にしおらしい声を出してみせた。

「なんだか今の凛菜さん、離してたらすぐどこかに行ってしまいそうで怖いです。繋いでください」

「………………ん」

 断れば今日の散歩が重い空気を纏ってしまうだろうという予感に負けおずおずと右手を差し出せば、餌を与えられた空腹の雛鳥を思わせる勢いで握りしめた氷浦。

 そんなに不安そうな顔をしなくたっていいじゃん、私が何をしたっていうんだ、なんて思ったけど、らしくない行動をしてしまったのは紛れもなく自分だった。

「…………それじゃあ、行きましょうか」

「…………ん」

 昨晩、楽しみでなかなか寝付けなかった幼い自分を責めつつ、なんだか今日は妙なことになりそうだぞと訝しがる自分を宥める。

 氷浦の手は冬の湖より冷たい。それでもさっき、手を離している十数秒の間私の右手を包み込んだ悪寒よりはずっと暖かかった。

「……」

「……」

 少し先を歩く氷浦に手を引かれ、その姿を斜め後ろからなんとなく眺めながら、私達は江ノ島へと向かう人の流れに溶け込んだ。

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