第8話・許嫁、甘える
(どうしてこうなった……?)
「……凛菜さん……もう……ダメじゃないですか……こんな無防備に……」
落ち着け。冷静になれ。
記憶を探ろう。なんで今こんな状況になってるんだっけ?
未だぼやける意識を無理やり覚醒させつつ薄く目を開けて周囲の状況を伺うと、私の体には氷浦が寝室から持ってきてくれたらしいブランケットが掛けてある。
そして腰のあたりに氷浦の腕が回ってガッチリとホールドされていた。つまり、私は今彼女にもたれかかるように脱力していて、そのまま後ろから抱きしめられている状態。
更に彼女は私の耳元でか細くて美しい、線香花火のような声で囁き続けているからこしょばゆくて困る。
「いいえ、違いますね、悪いのは凛菜さんを眠らせてしまった映画です。そうです、だから私も悪くありません」
……映画?
そうだ、私達はさっきまで映画を見ていた。寝不足のせいで日付を勘違いしてしまい土曜日なのに氷浦をいつも時間に起こしてしまって……彼女の希望で一緒に映画を観ていたんだ。
ああもう、なのに寝てしまうなんて何をやってるんだ私は。
そしてそれはそれとして何をやっているんだ氷浦は。
いや……責められる立場じゃないな。寝ちゃったの私だし。
けど……。
「あったかい……柔らかい……天国……」
こんな風にきつく、無抵抗で抱きしめられているとぬいぐるみにでもなったような気分だ。
「凛菜さん……えへへ……」
「…………」
時計を見ると間もなく十時になろうとしていた。彼女はどれくらいの間こうしていたのだろう。接している部分の熱さから考えれば、相当な時間密着しているのかもしれない。
「…………好き。大好きだよ………………凛菜」
「っ!」
「えっ?」
……まずい。
しばらく狸寝入りして氷浦の好きなようにしてあげようと思ってたのに……耳とほぼ零距離で……いきなり呼び捨てにするもんだから……体が小さくこわばってしまった。
「…………凛菜さん? 起きているんですか?」
どうしよう、なんて答えよう。どうしたら、なんて言ったら氷浦は喜ぶかな。
……いや、違うな。私はどうしたい?
「…………」
「……嫌だったら言ってください。じゃないと私……」
きゅっと、両腕に力が入って更にきつく抱きしめられる。
私は――自分の意思で、寝たふりを続けた。
「……」
「いいんですね? 離しませんよ?」
「………………うん」
「ふふっ」
なるべく吐息に混ぜて小さく微かに答えてみたものの、笑みで返されたあたりしっかり聞こえたみたいだ。
「…………」
瞳を閉じて、氷浦の香りと、呼吸音と、体温だけをただ享受しているだけなのに、どうしてこんなにも心地いいんだろう。
そう考えた瞬間、私にとって今現在の状況は――全ての力を抜いて誰かに体を預けてもたれかかるのは――初めてのことだと気付く。
物心ついたときにはお母さんはいなかったし、お父さんも忙しくて……こんな風に誰かと、互いの熱で魂の
「…………氷浦、ごめん」
しばらくそうしていると昨晩みたいに理由のわからない、どうしようもない涙が込み上がってきたせいで私は寝たフリを早々に諦めて言う。
「どうしました? もう……やめておきましょうか?」
喜色に満ちていた氷浦の声音が一転して寂しそうに
そんな質問をするのは怖いって私だってわかる。それでも彼女は私の意思を尊重して、私の都合を気にして、そうやって私を――
「違うの……」
――そっか……私今、氷浦に甘えてるんだ。
体だけじゃなくて、心をまるごと包み込んでもらっているんだ。
「もう少しだけ……こうしてていい?」
私はこんなにも……誰かに甘えたかったんだ。
「もちろんです。少しと言わずとも、ずっと、ずっと……」
「ダメ。少しでいいの」
というか、少しがいい。少しでなければならない。
じゃないと私の方がこの心地良さから、暖かさから抜け出せなくなってしまう。
これは毒だ。甘くて身を焦がす毒だ。
毒は用法に機転を利かせれば薬になることもある。現状に置き換えると、彼女に甘えている今、私は心からリラックスできている。
だけど毒は毒。
もっともっと、ずっとずっと、と欲しがれば社会性は失われるし、彼女を独占したいという願望が生まれて私達の間が
だから、最小限でいい。最低限がいい。
一気にたくさんの感情を――愛情を貰うのは、まだ怖い。
今でさえ私の知らない快感に戸惑っているのに、これ以上知らない感情とか、知らない私を見つけるのは怖い。
氷浦と一緒にいるだけなのに……どうして私はこんなにも、いつもの私でいられなくなってしまうんだろう。
「……もう大丈夫。ありがとう…………
……どうして今更になって、彼女を名前で呼びたくなったんだろう。
「っ……嬉しい……嬉しいよ、凛菜。大好きだよ。ずっとこうさせて。私だけに抱きしめさせて」
…………どうして彼女は喜びの言葉を零しながら、滔々と涙を流しているのだろう。
「うん。抱きしめたのも抱きしめられたのも帷が初めてだよ。だからきっと、この先も帷だけ」
わからないことばかりだ。それでも一つ、確信めいた危惧がある。
早く、今すぐにでも彼女の手を振りほどいて距離を置かなくては、涙に形を変えた毒が次々と皮膚から染み込んで――
――氷浦に求める愛情が、最低限では済まなくなってしまう。
「お願い、もう離して」
「……嫌です。もう、遅いです」
再度両腕に力を入れ直した彼女の言う通り、もう遅い。
染み込んだ毒は血管を通って心臓に至り、鼓動の度に全身へと甘く轟く痛みのせいで私は、氷浦に抗う力を完全に失っていた。
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