第6話・許嫁、決める
「おやすみ」
「おやすみなさい」
……どうしよう。
まさかこんなことになるなんて。
正直、クモを視認してからあんまり記憶がなくて流れを覚えてないんだけど、えと……一緒に寝ることになったんだよね、氷浦と私。
それでえっと……勢いで……胸触っていいとか……言っちゃったんだよね……?
いやいやいやでも、本当には触ってこないよね?
真面目な氷浦がそんな、人の弱みにつけ込んで変なことしてくるわけが……。
「……んっ…………」
触ってきた! 本当に触ってきた!!
というか……何今の感覚……少し
「ねぇ……氷浦、私まだ起きてるから。寝るまで……もうちょっと待って」
「わ、わかりました。すみません。おやすみなさい」
「ううん、こっちこそベッド狭くしてごめんね。おやすみ」
どうしよう、緊張してきた……。というかそんな……ムードもへったくれもなしにいきなり触ってくるって……すごい本気を感じるんだけど……。
物理的なことを言えばさっきよりも熱い吐息がパジャマ越しに伝わってきてる。
つまりこれ……絶対先に寝ちゃダメなやつだ。
だってあんな感じで息巻いてる氷浦が胸だけで満足するなんて考えられないし、もし、もしもこのまま今日、そういうことになって、そういう関係に持ち込まれでもしたら……私自身の気持ちを整理する前にいろいろ進み過ぎちゃう。
それは嫌だ。有耶無耶にしたくない。
だから……怖い。けど、相手が氷浦だからっていうのは間違いんだけど、怖いのに……逃げ出したくなるほどじゃない。
この緊張は恐怖だけからくるものじゃなくて、六割くらいは好奇心で出来るているみたいだ。私という存在の何かが変わってしまう決定的な瞬間に立ち会いたいという危険な期待が……0.001%くらいある。
「凛菜さん、まだ起きてますか?」
「うん」
「……寝ま……したか?」
「まだ」
一度注意してからというもの、律儀に私の就寝を確認してくる氷浦。二回とも寝落ちする寸前だったけど、氷浦の声で意識を取り戻してなんとか返事ができた。
「…………氷浦?」
背中に当たる荒い鼻息が落ち着いたのを感じ、念の為に小さな声で確認してみるも返事はなかった。
「……………………良かった……」
穏やかな寝息を立てる許嫁に、ただただ安心を覚える。
というか考えてみれば、バイトとはいえ社会の荒波に揉まれて帰ってきた氷浦と、春休み中で簡単な家事だけしていればいい私では眠気の強さも質も違う。勝負になるはずもなかった。
「…………」
とか、考えれば考えるだけなんだか不憫に思えてきて……申し訳なくなってくる。
(あれだけ懇願されたんだ、せっかくの記念日だし好きに触らせてあげれば良かったのでは?)
危機から解放された途端、そんな慈善思考が過ぎるんだから人間は都合がいい。
(キスは無理って言ったときの氷浦の顔も……なんだか可哀想だったなぁ……)
氷浦の香りが充満する布団の中で目を瞑っていると、だんだん思考が渦を巻き意識が覚醒していく。
(……なんとなく無理って言っちゃったけど、具体的になにがダメなんだろう。ハグができたならキスだって……)
漠然とした疑問ほどきっちりした答えが知りたくなる性分らしく、私はなるべく物音を立てないように蠢いて体を反転させた。
(…………まつ毛長……)
視線のすぐ先には凛として慎ましく、穏やかに寝息を立てる氷浦。
月明かりは心もとないもののこんな風にまじまじと近距離(ほぼ零距離)で見つめたことはなかったのでいちいち、
顔のパーツひとつひとつに惹き付けられる美を有していることへ驚愕したり、
肌の透明感と潤いが共存していることに羨望したり、
CGをふんだんに使ったCMに出てくるソレより艶めかしい唇に戦慄したり、
ともかく、一年間一緒にいた人間が初めて見せる夜の顔に心臓が加速を続けていた。
(私、この人の奥さんになるんだよね。 結婚して、ずっと、死ぬまで一緒に。)
いいなぁと、思わざるを得なかった。今の延長線がとても幸せな未来であることは確信している。
今日までの一年間だって、同じものを食べて、同じテレビで笑って、同じ映画で泣いて、同じ時間に寝て……とにかく心地よかった。
だけど幸せな未来にたどり着くためには――氷浦の願望を叶えるためには――更に一歩踏み込まなければならないことを、今日知ったわけで。
……そう、忘れてはいけない。依然として決定権は彼女が持っているんだ。
私を許嫁に選んでくれたように、
いつだって私以外の誰かを選ぶことができるんだから。
(……試してみるか)
先程は氷浦が起きていてやけに気迫があったからだろうか、即座にキス=無理となってしまったけれど、ご覧の通り大人しい眠り姫ならばなにも恐れることはない。
ただ唇と唇を合わせるだけの、なんてことない行為。
そう、キスなんて大したことない。
女同士ならカウントされないって漫画で見たし。
こんなの全然……大したことないんだから。
「――――――っ」
……………………やっぱり。大したことなかった。
「~~~~!」
大したこと……ないはずなのに……どうしてこんなに胸が……痺れるようにじゅくじゅくするんだろう。
重なり合う瞬間は予想通り大したことはなかった。柔らかい感触と熱い体温が唇から私の体に流れ込み、心臓の高鳴りに拍車をかけた程度だ。
驚くべきは離れる瞬間。互いの唇が互いを離すまいとして確かな引力をもって繋がってしまったせいで、それらを分かつために長い時間をかけ、脳天からつま先まで甘い痛みで浸す必要があった。
ようやく私と氷浦の間に1センチの隙間が生まれたころ、私はなぜか右目だけから涙を流していた。
ぼやけない左目だけで許嫁を眺めながら、私は二つ、心に決める。
(簡単には、体を許さないにしよう)
彼女にとって私の価値がそれだけだった場合、早々に目的が果たされたら、飽きられたら、それでこの幸せな日々はおしまいだろうから。
(でも、抱き合うくらいなら……できる限りしてあげよう)
氷浦の理性が壊れないかつ、私にもできるペースで、なるべくゆっくり、心と体を慣らしていきたい。
そんなに焦らなくったっていいはずだ。
許嫁になって、同棲を始めてから一年が経ったけど、
私は今日、彼女の想いを知って、
私は今日、彼女への想いを探し始めたんだから。
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