第5話・許嫁、悶える(後)
「氷浦、起きて。朝だよ」
「っ!」
先に……寝ちゃった………………。
そして……先に……起きられちゃった…………。
「あ……うぅ…………」
全然…………触れなかった…………。千載一遇のチャンスを……無駄にしてしまいましたぁ!
蜘蛛の糸が途中で切れたカンダタの気持ちまで知りたくなかったです……!!
「おはよう……ございます…………」
「おはよう。ねぇ氷浦……」
「なんでしょう?」
「昨日……どれくらい触ったの?」
凛菜さんは頬を少し、紅く染めてそう問いました。そりゃあ気になるでしょう。
自分のことを好きと宣言した人間と同衾して、自分の体がどんな風に
だけど……だけど……。
「触って……ないんですよ……凛菜さんが起きていたときの一回しか……!」
「……本当?」
「本当です……!」
こんなに悲しい真実があっていいんでしょうか? 泣きそうです。
更に涙腺を刺激するは不信感たっぷりなその瞳……!
うぅ……悔しい……何もしてないのにそんな目で見られて……ちょっと嬉しくなっちゃってる自分が悔しいです……!
なんで……悪いことしてないのに……私の調教ばっかり進んでずるいじゃないですか……!
「そか、じゃあ……ほら」
「…………?」
凛菜さん、なんですかその体勢は。
照れながらもしゃんと両手を広げるその姿はまるで迷える仔羊を導き受け止める聖母のようですよ?
「昨日も言った通りキスはまだ、その、あれだけど……」
「だ、だけど……?」
「昨日触ってないなら、一緒に寝てくれたお礼がまだってことでしょ? だから……お礼の、ハグ」
「!!!!!」
聖母でした! あれ? 私の許嫁聖母様でした!
「あっでも会社遅刻したらダメだし時間決めようか。十秒でいい?」
あれ? 私の許嫁悪魔でした? 小悪魔!?
「せめて一分は!」
「……二十秒」
「…………五十秒」
「三十秒! もうこれ以上譲らない!」
「……わかりました」
ふふふ……これで最初の三倍にすることができました……。
「…………ん」
もう一度、私を受け入れる体勢を作ってくださった凛菜さんに、私は躊躇うことなく体を寄せました。
愛しい体温がじんわりと流れ込んで、体を、心を、優しく溶かしていく感覚が、これ以上ないほど心地良いです。
……本当、ここで息を引き取ることができたらどんなに幸せでしょう……。
いえ、縁起でもないことを言ってはいけませんね、ここで生きていきたい。ここで勉強をして……ここで働いて……。
「……ねぇ氷浦」
私はですね、そりゃあお胸様に触れたかったですよ。もうこれでもかってくらいにめったんめったんのもっちゃもっちゃにしてやりたかったですよ。
でもですね、やっぱりこうやって向き合って、互いに包み込み合う。こんなに素敵なことはありませんね。
こんな一日の始まりがあっていいのでしょうか?
「氷浦ってば」
どんなことでも頑張れてしまいますよこんなの。
今働かせていただいてる場所ではほとんどが優しい人ですが、学生風情と見下す人やコネ採用を露骨に毛嫌いしている人もいます。
もちろん嫌なことがあって当然、そういった一切合切を学ぶための場だとは割り切っていますが……やはりつらくなってしまう瞬間があって……けれど! こんな幸せ時間があるならいくらでも頑張れます。
私やっぱり、凛菜さんが好きです。大好きです。
「氷浦! もうとっくに一分過ぎてるから!」
「ハッ!」
昨晩同様、結局は無理やり引っ剥がされるようなカタチで幸せ時間は終わってしまいました。
「もー……遅刻しちゃったらどうすんの?」
「……すみません……」
私から離れ、リビングへ向かいながら凛菜さんは相変わらず火照った頬を手のひらで仰ぎながら言います。
「私の知らなかった氷浦が……ものすごい甘えん坊っていうことはわかった」
「……はい」
そうなんです。私は無口でもクールでもありません。
凛菜さんの理想と相違があったのでしょうか……?
なら今からでも私はそのように――
「でも、えっと……一分超えていいのは……夜だけだよ」
「はいッ!?」
えっ、な、それは一体どういうことですか!?
まだこんなチャンスがあるということですか!?
「ほら、早く準備して! 本当に遅刻しちゃうよ!」
なんで逃げるように去ってしまうのですか!?
私の見えない表情はどんな風になっているのですか!?
凛菜さん!?
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