もしそれに手を伸ばしていたなら
『良かったら連絡をください』
右上がり気味の特徴的な字で綴られたメモの末尾にはその一言と連絡先。
書かれた名前はひと月前まで講師として所属していた社会人スクールの生徒のもの。
入会受付を担当した縁で、自分のクラスには入っていなかった彼女とは顔を合わせれば話をした。
初級クラスからのスタートながら内容を順調に身に付け、その成長ぶりは講師の間でも好評。
他の生徒さんからも密かに人気で、話題になってるのも知っていた。
彼女の入会から半年が経ったころ、県内の別の町への転勤が決まった。
県境に近い地方の小さな町で、まちづくりの一環として一般企業との連携で教育の充実を図るのだという。講師歴の長い自分が指名されるのは当たり前の流れ。
彼女にそれを伝えると、寂しそうに唇を嚙んでいた。
同県内なので顔は出すかもしれないし、所属はこちらに残しての出向なので数年すれば戻る可能性も高いと言うとようやく笑ってくれたっけ。
『実はそっちに友達がいるんです。近いうちに遊びに行くと思うので、その時に伺ってもいいですか?』
『是非。お待ちしてますね。』
その約束を果たしに来たのだろう。メモの前半には近くに来たので寄ったとも書いてある。
メモを預かったという女性職員が「すごい美人だったから驚いた」と笑うのにお礼を言って、メモに書かれた番号へ電話を掛ける。
彼女は電話に出なかったものの、留守電のメッセージを聞いたのか5分も経たずに折り返しがあった。
受話器越しに彼女の声を聞くのは初めてのことで、少し緊張したような声が可愛らしいと思う。
お元気ですか。そちらはどうですか。特に変わりはないですよ。
やり取りされるのは短い言葉。それでも心地よさがあるのは変わらない。
『では、また機会があったら伺いますね。』
「はい。平日は基本的に居るので…来られる前に電話をしてもらえれば。」
そうして別れの言葉を述べて電話を切った僕を、その場に居た職員2人がじっと見つめている。
「何ですか?」
「いや…別にここの電話を使うことがダメではないんですけど。」
「せっかくだから個人の電話を伝えた方が良かったんじゃないんですか?」
言わんとすることはよく分かる。連絡先には電話番号とメッセージ用のIDが書いてあったので、彼女としては個人でのやり取りをしたかったのかもしれない。
けれど。
「大丈夫です。生徒さんと個別で連絡を取るのはダメですし。」
「それくらい、いいと思いますけどね。」
苦笑いと共に返ってくる言葉には何も言わない。
実際に生徒と連絡を取り合う講師も少なくないし、形骸化している決まりだとも知っている。
それでも、個人で連絡を取ることは自分には出来なかった。
開け放った窓がカーテンを揺らす気配で目を覚ます。時計を見ると2時を過ぎたくらいだ。
彼女が来た頃は冷房を付けなくては暑くて仕方なかったのに、今は夜であれば窓からの風で充分なくらいには涼しくなった。
あれから1ヶ月。彼女からの音沙汰がないまま季節は変わろうとしている。
『だからってな…』
枕元の携帯を取って連絡先から彼女の番号を呼び出すが、それ以上は何もしない出来るわけもない。
いつからだったんだろう。彼女と話せる時間が楽しいと自覚したのは。
転勤の話を聞いたとき、真っ先に思ったのは彼女と会えなくなるのだということ。
最後の日になかなか話す時間が取れなくて、どうにか彼女を見つけ出した。
会いに来ると言われて嬉しかったし、会いに来てくれたのも夢じゃないかと思った。
この気持ちが何というかは知っている。
けれど認めたくない。
「先生、だもんな。」
あんなに綺麗で快活な彼女だ。
優しいだけで何の取り柄もない自分なんて見向きもされないだろう。
ただの先生以上を期待して傷つくのが怖かった。
ただ時々、思い出して会いに来てくれるのであればそれで良かったのだ。
でも、今はそれが叶うかすらも分からない。
あの時、自分の電話から掛けていたら?
思い切ってメッセージを送っていたら?
彼女の差し伸べてくれた繋がりを手に取っていたら?
「…今更、だろ。」
自らの問いに答えることはせず、連絡先を閉じると携帯を置いて目を閉じた。
――今度、行きますね。
その声がまた聞ければいいと静かに願って。
前置きのない恋のはなし もりすや蒼 @milos_ya
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