運動する場所で出会った読書好き
元から運動音痴の運動嫌い。読書好きのインドア。
健康のために武道の習い事をしたことはあったけれど、仕事の忙しさに負けて辞めてしまった。
そんな私がスポーツジムに通いだしたのは、言うまでもなく体重がNGラインを超えたからだ。
『30歳を過ぎると、自分の努力が必要』
と諸先輩方が言っていたこともあり、私は近所のスポーツジムへ入会を申し込んだのだった。
家と職場の両方から近いこともあり、ジム通いは順調に進んだ。
フロアにはトレーナーが常駐していて、こまめに声掛けをしながらアドバイスをしてくれるのもありがたい
平日に2日と休日に1日。1ヶ月に1度は体重を含めた身体の数値の測定も出来る。
ペースもいいですし順調ですね、と測定結果を見たトレーナーは爽やかな笑顔で褒めてくれた。
そうして続けて通っていると、否が応でも覚えてくる顔ぶれも出てくる。
いつも雑談をしている女性グループ。
土曜日の朝からずっとスタジオレッスンに入っている老婦人。
すれ違うと手を振ってくれる気さくなおじさま。
その中でも私が気になったのは、ひとりの男性だった。
キリッとした眉に額を見せるように前髪を真ん中で分けて、とても真面目そうな印象。
ボディビルダーのような身体ではないけれど、やはり綺麗に筋肉はついている。
私が行くと曜日を問わず必ず見かけるので、もしかしたら毎日来ているのかもしれない。
いつもストレッチエリアで腕立てをするか、ダンベルエリアで黙々とトレーニングをするかのその人は、意外なことにダンスレッスンの時だけ真っ先にチケット配布の列へ並ぶ。
早い時は配布開始の30分前から。人気のクラスではあるけれど、そんなに早く並ぶ人はいない。
そして早く並んだ時間を持て余すように、文庫本を広げるのだ。
私も無類の読書好きを通り越して活字中毒気味ではあるけれど、さすがにジムへ本を持ち込むという考えはなかった。
片手で本を開き、少し俯き気味にページを繰る。
読書人間特有の、少しだけ伏せた目。
何を読んでいるのだろう、と本好きとしては気になる限り。
スーツ姿で来ているのを見たことがあるからビジネス書だろうか。でもそれなら新書版になるか。
最近の作者なのか、昔の作品なのか。
詩集なのか、エッセイなのか、純文学なのか。
ライトノベルだったら少しコメントに困るかもしれない。だからといって団鬼六あたりを読んでいても微妙な気持ちになる。
『何を読んでるんですか?』
そうやって声を掛けられるほどコミュニケーション能力に長けた人間ではない。
彼もまた同じなのだろう。挨拶程度の会話をしているのを見かけたことはあるが、基本的には誰とも目を合わさないようにひとりで過ごしている。
いつも私に見られているのにも気が付かないまま、時間が来ると本を閉じてチケットを取りトレーニングへと戻っていく。
そんな日々が続き、体重にもサイズにも自分が満足いくような結果が出始めた頃。
残業のおかげでいつもよりジムへ行く時間が遅くなった私は、珍しくチケットを取った直後の彼とすれ違った。
それだけであれば、当たり前のように何もなく済むはずだったのだが。
「あ、」
彼が本に挟んでいた栞をひらひらと落としたのだ。
たまたま足元へ落ちてきたそれを拾うなり、思わず私は声を発していた。
「初版特典…!」
そう、それはとある作家のデビュー何周年かの特典として本に付けられた栞だった。
ハードカバーの初版、その中の限定数にしかつかない特別なもの。
透かし彫りの施された薄い金属製で、作品にまつわるモチーフと作者のサインが見事なバランスで配置されている。
材質的に栞と言うよりはブックマーカーと言った方が正しいのかもしれない。
後に発売された文庫版でその作者を好きになった私はもちろん手に入れられておらず、インターネットオークションに出回るような品でもない。
まさかそれにこんなところでお目に書かれるとは…!
瞬時に感動で頭がいっぱいになった私は、彼のことなどさっぱり頭から抜け落ちていた。
「…お好きなんですか?」
物静かな声で問われ、ようやく我に返る。
目の前には少し驚いたような彼の顔。表情が変わったのを見るのは初めてだった。
自分のしでかしたことに、一気にカッと顔が熱くなる。
「すみません!失礼しました…。」
「いえ、この栞で喜ぶ人を初めて見たので…お好きなのかなと。」
彼の言葉に私は「はい」と返事をする。
作品を読むのが遅くなったので栞を持っていないことも、今はその作者の本を地道に集めていることも。
私が話すのを静かに聞いていた彼は、少し考える素振りを見せてから栞を差し出してきた。
「良かったら、差し上げます。」
「えっ?」
「特典が付くのが嬉しくて、当時2冊も買ってしまったんです。
本そのものは人に譲ったんですが、栞はもう1つ残っているので貰ってください。」
でも、と更に遠慮する私に彼は控えめな笑みを見せた。
「正直、この作家をここまで好きだと言った人は初めてで…自分も嬉しいんです。
こうやって話が出来たお礼に、ぜひ受け取ってください。」
「では…」
ありがとうございます、と言った私に微笑んでくれてもやっぱり少し伏し目がちのままで、まっすぐ見つめることはない。
けれど細くなった目元を見ると、心の底から喜んでくれているのがわかった。
―こんな風に笑うんだ。
いつも真面目で、ダンスのクラスの時でさえ表情が変わったのを見たことがなかった。
イメージのまま穏やかな声、あまり高くない身長、さらさらとした髪の毛。
目の前でその人が笑ってくれているのが、なぜか不思議で、でもとても嬉しくて。
「あの、」
気が付けば、自然と口を開いていた。
「いつも本を読まれてますよね。私も、実は本が好きなんです。」
我ながら下手な言葉選びだったと思う。
けれどその人は、ほんのちょっとだけ間を置いてすぐに答えてくれる。
「そうなんですか。」
―どんなものを読まれるか、聞いてみたいですね。
今度は私をまっすぐに見て微笑む。
いつも列に並んで、静かに本を読む男性。
そんな彼のことを知れるのだと思うと、これからが少し楽しみになるような気がした。
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