バーに居る彼女の話

駅から横断歩道を渡ってすぐの、大きめのビルの地下。

そこに最近お気に入りのバーがある。


ビルの通路から入り口が見えないように設けられた、落ち着いた色のフェイクグリーンと木製の仕切りの短いエントランス。

アンティークなデザインのランタンに照らされたそこを抜け、扉を開けば店内。

ローテーブルとローチェアのボックス席と、木目の綺麗なカウンター。そこにあるのも肘掛けのついた立派な椅子。

入り口と同じくアンティーク調でまとめられた、抑えられた照明とレコードから流れるピアノの音がよく合っている。


「いらっしゃいませ。」

既に顔を覚えてくれている初老のマスターが微笑と共に迎えてくれた。

その後ろでグラスを磨いていた見習いの彼女も、いつもの明るい笑顔で振り返る。

「こんばんは。いつもありがとうございます。」

最低でも週に1回。多ければ2回は通ってしまうこの場所。

決して安い店ではないし、職場からも家からも離れており、友達とよく行く繁華街からも離れているので飲み直しにも向かない。

それでも通ってしまうのはきっと居心地がいいから。


それと。


いつものを、という通ぶった注文をして先に出されたナッツとレーズンバターに手を伸ばす。

週末ではあるが、日付を跨いでだいぶ経つので店内には俺しかいない。


けれどひとりでそんなことを考えていたのも、ほんの少しの間のこと。

「いらっしゃいませ。」

俺が入って数分もせず静かに開いた入り口に、今度は見習いの子の方が先に声を掛ける。

やってきたのは背の高い女性。綺麗に手入れされた長い髪に、服装はブラウスとタイトスカート。

雰囲気が派手なわけではないけれど目を引く程度には整った容姿の彼女は、俺を見つけるなり柔らかい表情を見せた。

「今晩も会いましたね。お隣、いいですか?」

「もちろんです。」

椅子を引くと彼女はそこに腰掛け「ダイキリを」と短くマスターに告げる。


実は彼女の存在こそが、俺が頻繁にここへ足を運ぶ理由でもある。

2ヶ月ほど前にふらりと立ち寄ったこの店で顔を合わせたのが最初で、その日は店も混んでいたから詰めて隣に座った。

いつの間にかぽつりぽつりと言葉を交わしていたのが、杯を重ねるごとに盛り上がったのをよく覚えている。

落ち着いた話し方なのに話題は幅広く、ビジネスや経営のことから最近お気に入りの漫画やゲームまで。

自分がやりこんでいる男性向けゲームのタイトルが彼女の口から出るのは、意外でありながら嬉しさもあった。


それがきっかけで店で会えば何かと話すようになり、来る曜日が決まっていると分かってからはそれに合わせて店を訪れるようになった。

仕事は化粧品関連の会社で企画職。一人暮らしで料理が得意。ラムが好きで、ビールは苦手。恋愛はずいぶんとご無沙汰。

知っている情報はそれくらいで、タイミングを逃したこともあり名前すら聞けていないし、年齢も分からない。

それでも俺は彼女に会えるのを楽しみにしていた。


マスターが気を使ってくれ、同時に2人分のお酒を出してくれる。

軽くグラスを掲げ、視線だけで「乾杯」を交わした。

「今日もお仕事でした?」

「はい。でも、大きい企画が片付いたので早めに切り上げて部署で打ち上げだったんです。」

どおりで仄かに頬が赤いと思った。

けれど一仕事を終えたせいか、いつもより力の抜けているような印象もある。

素直に可愛らしいな、と思った。


それからはお互いの仕事を労ったり、最近のことを話したり、ちょっとした愚痴を言い合ったりといつものような会話が続く。

彼女との時間は心地いい。ずっと話していたいし、もっと色々なことを知ってみたい。


けれど、いつも「もう一軒どうですか」と言おうとして諦めてしまう。

時間的にもお店の雰囲気的にも「次」を提案できる状態に持っていくのが難しいし、何よりその勇気がない。


断られたら?

次のお店で盛り上がらなかったら?

誘ったせいで彼女がここに来なくなってしまったら?


そんなことが頭の中で渦巻いて、程よい時間を迎えては「それでは、また」と彼女を送り出すだけ。


けれど、今夜は意外なことが起きた。

「良かったら、なんですけど。」

新しく注文したモヒートを傾けながら、彼女がふわりと笑う。

「この後、一軒だけ付き合ってもらえませんか?友人がお店を開けたので挨拶に行きたいんです。」

「いいんですか?」

突然の提案に出てきたのはその一言だけだった。まさか、彼女から誘ってもらえる日が来るなんて。

「もちろんですよ。…ここだけじゃなくて、ゆっくりお話ししてみたかったですし。」

「それなら是非。」

ガッツポーズをしたい気持ちを抑えながらゆっくりと頷く。

それを見た彼女は、クロスした指をマスターに示し「チェックを」と言った。

慌てて俺もグラスを空け、同じ仕草をする。

「友人に連絡を入れますから、先に出ていますね。階段の上で待ってます。」

先に代金を払い終えた彼女はそう言ってドアをくぐった。


マスターが彼女の見送りに外に出たので、後に残された見習いの子が俺の会計を担当してくれた。

差し出したクレジットカードを機械に通し、胸元から取り出したボールペンでサインを求められる。

酔ったせいで覚束ない手つきのまま自分の名前を書いていると、彼女がぽつりと口を開いた。

「…行っちゃうんですか?」

「え?」

言葉の意図が読めずに顔を上げると、いつも笑顔の彼女の表情が心なしか曇っているように見える。

「お二人で、飲みに行っちゃうんですか?」

改めて言いながらこちらを見る瞳は、真剣でどこか寂しげ。

歳よりも幼げな顔立ちが、いっそう不安げな表情を際立たせていた。

小柄なこともあり彼女は自然と俺を見上げる形になっている彼女に、首を傾げながら答える。

「うん、そうだけど…」

「…何もないですよね?」

何もない、とはどういうことだろう。そして彼女はどうしてこんなことを聞くんだろう。

戸惑いながら、名前を書き終えたボールペンを返す。

するとボールペンを受け取る前に、彼女の細い指が俺を指先を軽く掴んだ。

「……私だって、ゆっくり話してみたいのに。」

俯いて、目線をカウンターに落として。

それでも彼女の耳が、真っ赤に染まっているのがわかった。


「すみません、お会計を失礼いたしました。上でお待ちですよ。」

俺が何か言うより先に、見送りを終えたマスターが戻ってきた。

ドアが開いたその瞬間には触れていた指は離れ、目の前の彼女もいつものような笑顔に戻っている。

「今夜もありがとうございました。また、お越しくださいね!」

「う、うん…」

一瞬での切り替わりに戸惑いながらも財布をしまい、ドアへ向かう。

マスターからの挨拶を受けながら外に出るその直前、彼女がこちらをまっすぐ見ているのに気付く。

店の明かりが暗くてその表情まではよく見えなかった。


「お待たせしました。」

「いいえ、こちらこそありがとうございます。」

階段の上で待っていた女性に声を掛け、並んで夜の道を歩き出す。

ずっと憧れていた光景。隣で話す、店の外で知る彼女。


でもどうしてだろう。

さっき微かに触れられた指先がいつまでも熱くて、俺はその表情をよく見ることが出来なかった。

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