最高戦力・衝突前夜 壱

 半日余り経過し、激戦の金城市に夜が訪れた。

 主を失った無音の宮殿に瑠璃色の星明りが降りる。既にキルシェはここを去り、深い静寂のみが残されていた。


 金城に転がる死体からポーチを取り上げ、ローゼの椎骨を収める。眠っている間、その上下の骨は殆ど形成されなかった。恐らくは、血液に満たしておく必要があるのだろう。


 メアリから受けた我が身の傷だが。こちらは心臓の復元こそ不完全であるものの、筋細胞と骨組織の凡そが回復している。

 重たい疲労感を携えながら、無人となった街を歩く。エルネストが管理していたからか、野良猫すら生息していない。


 東方、工業地帯に差し当たり、地下駐車場や大工場跡地を物色する。

 乗り捨てられた乗用車は当てにしない。探しているのは傀儡が利用していた車両だ。

 南方の港には油槽所ゆそうじょがあるので、酸化防止剤を添加した燃料が給油されているかもしれない。


 「見つけた」


 製鉄所の工員用駐車場に一台。単なる乗用車だが、鍵を挿したまま放置されていた。

 タイヤの劣化状況を確認して乗り込み、鍵を回し通電する。エンジンスイッチを一度押しただけで始動した。


 帰ったら、幾つかやらねばならないことがある。一つはローゼの椎骨を浴槽へ。何日、いや、何ヵ月掛かるか解らないが、回復を待つ。

 それから中央政府への連絡だ。金城市を解放したと伝え、メアリ討伐も申し出る。代わりに、リミステネス家への援助再開を要求する。

 町役場の固定電話は申請後の利用となる。明日は日曜日だから、混雑しているかもしれない。そもそも、緊急連絡用の番号が生きているかどうか。




 ――金城市を出て、挙母ころもに入った。時刻は夜の十二時を回り、多くの人間は寝静まっている。それでも住人の居る家や街灯、管理された建物が、生活の気配を感じさせてくれる。無人の街とは随分と雰囲気が異なるものだ。


 図書館への林道は悪路なので、国道九号線の死角に車両を乗り捨てた。


 高々、残り二キロ弱の帰路。

 普段なら距離と呼ぶに値しないが、今は心臓の修復を優先している。血液は使用せず、諦めて歩いた。


 闇を見通す真眼を頼りに、枝を踏み折る。出くわした野生のシカが、光る双眸と音に立ち止まる。雨が降ったせいで地面はぬかるみ、肉体の疲弊は重く纏い付いた。


 土と草、水の香り。早々に湿気の森を抜け、洋館へ。


 北棟の図書館と南棟の洋館を中庭が隔てている。突き当りには二棟を結ぶ屋根付きの通路があり、そこへ設置された石製ベンチに少女が腰掛けていた。


 「夏蓮。なぜ、ここにいるのか」


 血だらけのポーチを背に隠す。


 「う、うーん。おはようございます」


 眠っていたらしい。寝ぼけ眼を擦っている。よもや銃は所持していないと見えて、代わりに傘が置かれていた。


 「夜だが。何か有ったか」


 「…そうでした。私、キルシェが心配で。おじいちゃんに連れてきてもらったんです。――その、ローゼは…?」


 「無事とは言えないが、死んでもいない」


 一拍の後、夏蓮が背中のポーチをいぶかしんだ。血が流れ落ちているのだ、気にならぬ方が変だ。


 「怪我、してるんですか?」


 見せられぬ。説明するかどうかさえ悩む案件である。


 「している。後で話すから、今は…」


 その先を言い淀む。どこまで話すべきなのか。


 「わかり、ました」


 ひとまず洋館へ案内し、広間のテーブルへ着かせる。隣の調理室から持ち出したペットボトルの茶を手渡した。


 「これを飲んで、少し待っていてくれ。すぐに戻る」


 言い残して、奥の浴室へ。


 木製のドアを開き、乱雑にカーテンを退ける。

 壁に取り付けられたアンティークシャワーは単なる金属の筒で、首を曲げたりできない種類のものだ。


 猫足の付いた置き型の浴槽へ、ローゼの椎骨を入れる。椎骨は、今も微々と血液を分泌している。ローゼが目を覚ますまでは、立ち入らずにそっとしておきたい。


 排水栓と漏水を確認し、念のため替えの衣服――いかにも女の子らしいフォーマルドレスだが、これを置いて夏蓮の待つ広間へ戻った。


 十畳ほどの古びた食卓室。壁の本棚に興味を示した夏蓮は、手に取りたい欲求を押さえながら背表紙を眺めていた。


 「あまり面白いものはないだろう。教材ばかりだからな」


 こちらの足音に気付かなかった夏蓮の肩が、驚いて跳ねる。


 「あ、ごめんなさい。気になって」


 「いや、こちらこそ驚かせてすまない」


 夏蓮の頭より少し高い段から、一冊取り出した。金城市調査へ出発する前、勉強を嫌がったローゼとの会話を回顧かいこする。


 ごく最近の出来事なのに、本人に会えない今となっては遠い過去のように思えてしまう。もし、ローゼが目を覚まさなかったら。或いは別人のようになってしまったら、どれほど遠くに感じることだろうか。


 夏蓮が気遣わしげに見上げ、袖を引いた。


 「心配は無用だ」


 手にした本は数学の教材で、箱に収められている。あの時ローゼがやらずじまいとしたものだ。箱を本棚へ戻そうとしたとき、その表記とは無関係な本が三冊、床へ散らばってしまった。


 それは全て、ケーキのレシピ本だった。苺タルトを特集した一冊は買ったばかりで、ローゼに悟られぬよう枕の下に隠していたのだが…。


 「キルシェ、これ…」


 夏蓮が一枚のメッセージカードを拾い上げた。

 ローゼの筆跡で『今度は私が作る。キルシェの為にね』。


 『為…に』


 この文字を見て、再認識してしまった。ローゼが玉砕に及んだのは、この私を勝たせるためなのだと。二人を相手取らせまいとして、初手を晒させまいとして…。


 高が、そんなことの為に。


 堪えていた何かが限界を迎えたような気がした。

 後悔が、頭の中を搔き乱す。喉元が熱くなり、急に涙が抑えられなくなってしまった。


 自分は、愚か者だ。ローゼの闘争心を、ただの我儘や自己顕示としか捉えていなかった。

 ローゼの意志を尊重するだと?これでは真意を汲み取らぬままに冷たく突き放しただけではないか。どうせ間違えるのなら、いっそローゼを洋館に閉じ込めておけばよかった。せめて、せめて一緒に行動していれば、或いは。エルネストもメアリも、最初から独りで叩きのめせば良かったのだ。


 カードを涙に濡らしながら、膝から崩れ落ちた。とても立ってなどれなかった。


 「…ローゼ。こんな置き土産は、死ぬ時にするものだ。それとも、死ぬつもりだったのか?自分は平気じゃない癖に、私は平気だとでも思っているのか」


 夏蓮は自分より大きな肩を抱き、静かに寄り添った。ぎこちない手で、頭を撫でた。


 「わたしには、何が有ったのかは分かりません。でも、生きているのなら、希望を捨てないでください。思い込まないでください」


 夏蓮とて母を亡くしたばかりに等しい。夏蓮の母は永遠に戻らない。ローゼは生きている。元に戻る。それなのに自分は。


 「すまない。大丈夫だ。頭では、大丈夫だと解っているんだ。ローゼの馬鹿な悪戯のせいで、最後の別れみたいな気分になっただけだ」


 そうだ。まだ、やらねばならないことがある。決着を付けに行かねばならない。


 拾い集めたレシピ本を棚へ戻す。涙を拭い去ると、夏蓮の輪郭がはっきりと映った。


 ぼやけていたのは視界だけではない。ここへ帰ってから今に至るまで、彼女の顔を見ようとすらしていなかった。


 ――次は、私の報いる時だ。ローゼと夏蓮を、メアリに渡さないために。


 「キルシェ…?」


 「もうすぐ、首都の人間が皆殺しにされる。ここもいずれ、安全ではなくなる。行かねばならない。まだ、終わっていないんだ」


 夏蓮は恐慌現象時の景色を想起した。皆殺しと言われても今一つ想像できなかったが、死体だらけの校舎を歩いた記憶から、似たような状況になるのだろうと、そう解釈した。


 「…キルシェ、私にも何かさせてください。もし出来ることがあるのなら」


 「在る。ローゼが目を覚ましたら、支えてやってほしい。私が帰らなかったら、逃げよ」


 最後の一言に、夏蓮の顔が強張った。


 「…え、そんな。それに、ローゼは」


 血に骨が浸っているとは言えぬ。今は、居場所だけを伝えておく。


 「浴槽に、眠り続けている。だが、決して見ないと約束してくれ。傷つき悲惨な状態だから、そっとしておきたい」


 「わかりました。けど、けど、帰らなかったらって、そんなの!」


 「聞き分けよ。約束、できないだけだ」


 「するんです!。それでも、こういう時は約束するものなんです!」


 泣き出すのを我慢しながら振り絞る声は、それでも震えてなどおらず、その剣幕に少し気圧された。夏蓮は、この約束を果たせなくても許してくれる。そんな曖昧なものは約束とは呼べない。論理的ではない。しかし、最後の別れとなるかもしれない言葉を、否定などしたくはなかったから。だから、故に、応えた。


 「そう…だな。そういう、ものか」


 「そういうもの、なんですよ。ほら、……」


 ――右手と、左手。どちらの小指も、指切りした。

 ――一つは夏蓮で、もう一方は、ローゼの分だった。

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