哀切ノ死別 弐
――ひとしきり泣いた夏蓮が、小銃を握り締めた。頼りのない足取りと額の汗から、熱に浮かされたような気怠さを抱えているのだと、キルシェはそう察した。
夏蓮に付き添い、土足のまま二階への階段を上る。靴を脱がずに歩く屋内の床は、妙な感触を返した。
子供部屋を横切り、ドアの開いた一室へ。
壁際にベッドがある。夏蓮の母は、この寝室の窓辺に立ち、カーテンの隙間から北を見つめていた。
「お母さん…」
小銃で胸部を照準しながらも、夏蓮の横顔には再び涙が伝った。だが、それでも表情を変えず、小銃から決して手を離さない。
日に焼けたシャツとタイトスカートを着た後ろ姿は薄汚れ、肩に埃が積もっている。夏蓮の声を認識して振り向く血走った目は、もはや人間のそれではなかった。
傀儡は乾いた唇を開き、言葉を発した。
「…どう、して、ここに…人間がいる、の。見つから、ず……――」
夏蓮の知る母の声だったが、老婆のように酷くしゃがれていた。
知性、否、これは恐らく敵首領の言葉だ。
『パン、パパン』と乾いた銃声が三発。夏蓮の放った弾丸が、傀儡の胸部を撃ち抜いていた。
白いシャツに鮮血が滲み、膝から崩れ落ちる。ベッドと壁に身を凭れ掛け、座り込む形で。無気力な両手がだらりと垂れ下がった。
心臓を破壊され、徐々に機能を停止してゆく傀儡は、血の泡を吹きながら壊れたラジオのように曖昧な口を利いた。
「人‥間、で…は、な…の…?」
やがて言葉を発さなくなる。キルシェは傍に寄り、冷たい体に手を触れて、脈と呼吸を確認する。完全に機能を停止したと見て、開いたままの瞼を下ろしてやった。
「夏蓮、もう、大丈夫。君の母親は、傀儡ではない」
傀儡から死体へと還った母を、ようやく夏蓮は抱きしめる。懐かしい香りの中で、最後の別れを儚んだ。今度は声を殺さずに、我慢などせずに、思いっきり泣いた。
キルシェは自身の胸に手を当てた。
痛い。自分や他人を俯瞰して見るよう努め、感情を殺し続けてきたのに解る。心の流血とも呼べる落涙の苦痛を、自分か、ローゼか、先立てばいずれかが受け止めねばならない日が訪れるのである。その時までに、私に何ができるのか。
暫く二人をそっとしておきたい。好きなだけ、別れを告げられるように。
寝室を後にしたキルシェは、一階へ下りた。
――人の泣く姿を見るのは苦手だ。余計なことまで考えてしまう。
台所にて瞳を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。いつもの、作り上げた自分を取り戻す。気を取り直して、無線機の電波状況でも確認してみることにした。
電源を入れ、周波数を合わせる。これが繋がれば、ローゼが敵に更なる損害を与えたと考えられるし、合流も容易となる。
しかし、反面。
傀儡自体が通信抑制装置としての役割も担っているとして、これらから手を引く行為はもはや領土の放棄。決戦に備えた戦力の集結か、或いは逃遁を意味する。
無線機は幾度となく雑音を拾い、やがて、声を届けた。近衛が、応える。
「……――むぅ、何じゃ。無線に雑音が…」
状況は変わりつつあるらしい。
「聞こえるか、近衛」
「キルシェか?ようやく電波妨害が収まったか」
「そのようだ。私とローゼを殺すために、戦力を集中したのかもしれない」
「それを聞くと、素直に喜べんな…。夏蓮に変わりは無いか」
いかに説明するべきか言葉に詰まった。体は無傷でも、精神的には辛いものがある。
「先ほど、操られた母親の死体を、撃った…」
しばらく、応答が止む。
このまま黙っていても話が進まない。付け加えた。
「つまり旧家に居る。今は夏蓮を、二階の母親と二人きりにしている。過剰に心配はするな。全ては、生きて帰ってからだ。そちらの方こそ、ローゼはどうした」
近衛はさらに間を置いた。何か、まだまずいことでもあるのか。
「…すまん、ローゼは敵を追って、離脱した」
しかし一概に最悪とも言い切れぬ。近衛らを守りながらでは逃げも隠れもできないから、この方が安全ではあるのだ。
「敵とは、首領か。特徴は」
「親玉とは思えんが、街中の雑兵でもない。鎧兜が、四体じゃった」
鎧兜。金城の展示物か。元々、調査の終着点は金城としていた。ローゼもここへ向かった可能性が高い。
「解った。ちなみに、現在地は」
「今は北区総合車庫に車両ごと身を隠しておる」
テーブルに地図を広げ、視線を落とした。車庫の位置は…。先刻立ち寄った神社から北へ六百メートル、東へ八百メートルほど。
「近いな。上代神社まで来れるか」
「問題ない。その、言い辛いんじゃが…」
「言わなくてよい。金城市を出るまでは、私が車両を保護する。夏蓮に死なれては、ローゼに合わせる顔がないからな」
言い終え、通信を切断する刹那。キルシェは血液の粒子を散らし、背後の気配に、束ねた指を突き刺していた。
ナイフを手にした傀儡が、正面の食器棚に映り込んでいたのだ。
近隣に残る適当な兵士を差し向けたのだろう。大柄だが、銃や手榴弾は所持していなかった。
尖らせた手に浸透した白光の粒子が、原子に
浸透した粒子は、自身の動きに連動して移動する。手刀に強靭な硬さを保ちながらも、手指の関節は自由に曲げられる。圧倒的な握力を伴って。
「不要だ」
体温が低い。冷たく、とても生物の感触とは思えない。碧眼で大男を睨みつけながら、その心臓に止めを刺す。
――握り、潰した。
「金城市の首領よ。つまらない傀儡など寄越さずとも、私は逃げたりしない。名前は、何というのか」
潰れた心臓が体内で血を吹き、大男の体が痙攣する。
「…エ‥ル…ネス‥ト。おぼ…え…てい…て…」
「会話ができるか。なら、まだローゼとは衝突していないな」
ローゼは身を隠せているのか。然らば、時間は残されている。
首領の撃破は『可能なら』の話であり、ローゼとてそれは承知の上。不利であれば適切に身を退くであろうし、傀儡に頼る程度の敵から逃げられないほど弱くはない。
一先ずはローゼを残し、夏蓮を金城市外へ送り届ける。この役目を終えてから、自分は乗り込むこととしよう。
「さよなら」
告げ、手を引き抜いた。
男は風穴からどす黒い血を撒き散らして、糸の切れた操り人形の如く倒れた。
――エルネストといったか。
人間を殺害して操る能力、恐らくは血液。恐慌現象発生から金城市の中心は死の街と囁かれていた。かの異能は、人間をやめて間もなく理解し使い
運が良ければ、事の顛末を知ることが出来るかもしれない。
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