哀切ノ死別 壱
金城市北、住宅街の傍には森林を利用して拓かれた公園がある。
この自然公園は危険区域に食い込んだ土地だが、今のところ行方不明者などの悪い噂は聞かない。建物や高台が少なく、傀儡が常駐するには適していないからであろう。
自然公園を通過して突き当たる高架自動車道は、東西を繋いでいる。その足場に通された一車線の小さなトンネルを抜けるのが、近衛の旧家へ辿り着く最短ルートである。
トンネルから危険区域入りしたキルシェらは、途中のサナトリウムを通過し、三・五キロ地点まで歩を進め、目的地まであと二百メートルに迫った。
――だが。ここで今しがた、休憩という名目で足を止めている。
敵に支配されたこの地で、夏蓮の母親がどのような状態にあるのかを、伝えておかなければならないのだ。
場所は、小山の頂上に築かれた神社だった。
鳥居を潜り、クスノキ林の参道を行った先。境内の小さな社の前で夏蓮に問うた。
「夏蓮、私は君の気が済むまで付き合うつもりでいる。しかし君が目にするものは母親の遺体か、若しくは活動する屍だ。もし気が変わったというのなら、ここで引き返しても構わない。夏蓮は、どうしたい?」
夏蓮を引き留める気などないが、道中で目にした傀儡共と同じ状態の母親を見せる意味とは何だ。知らぬまま切り捨てたとしても、事の多くは時間が解決してくれる。生きてさえいければ、それは決着の一つなのではないか。
一陣の風がクスノキ林を凪ぐ。社の柱に背を預ける夏蓮の髪は踊り、キルシェの帽子は飛ばされた。
「物心つく前に生き別れになったから、母の記憶はあまりありません。でも、夜に私を抱きかかえて、民謡を口ずさみながらあやしてくれた事は覚えています。外を、歩いていました」
星空に民謡、か。幼い頃に与えられた安らかな思い出は、消えなかったのだろう。
自分にこのような経験はなかったが、ローゼに対しては似た安寧を与えようとしていたと思う。意識こそしないものの、自分は何かに飢えていた。
「母の死を形として眼前に据えるのが、怖いか」
「よく、分かりません」
「実感を伴わぬまま放棄して未来を生きるのも、一つの決着ではないか。全ての物事に、必ずしも終止符を打つ必要はない」
ここまで来てこれを言うのは適切であろうか。だが言わなければ夏蓮は引き返せない。
無機質だ。機械のような、人間らしからぬ価値観に自分を染め上げて生きてきたからか、堅苦しい口しか利けぬときがある。夏蓮は気にしないでいてくれるようだが、こういう時に言葉を選ぶのは得意ではない。
夏蓮は飛ばされた帽子を拾い上げる。背伸びして、小さな両手でキルシェの頭に被せ直しながら応えた。
「私は行きます。母がもし誰かに操られていたら、間違いを続けていたら、止めてあげたいので。だから、付き合ってください」
鳶色の瞳には迷いが仄見える。哀切、恐れ、憤怒、いずれにも属さぬ揺らぎだ。
将来、いくらでも辛いことは控えているものだ。ならばせめて、この機会が未来と向き合う糧とならんことを祈ろう。
「夏蓮が望むのなら、従うよ」
夏蓮はこくりと頷いて、地上へ続く石の階段に立った。風に揺らぐ木々の隙間から、幼き日に両親と暮らした家の青い屋根を見つける。北の窓は白いカーテンによって閉ざされていたが、その隙間には片目が覗いていた。
「見えるか」との問いかけに、小さな背中は「はい」と答える。
石段を下りる夏蓮に追随し、地上へ。鳥居の前で、預かっていた小銃を手渡す。
「これは返す。だが、止めを刺すのは私でも構わない」
「いいえ、撃ちます。きちんと、終わらせます」
「…そうか。解った。家の中に居るのなら単なる監視役だ。一般人の女性が兵士として扱われるとは考え難い。殺しの道具にされる前に、眠らせてやるといい」
❀
神社からの眺望で、傀儡の監視地点は凡そ把握していた。さしたる障害にも遭わず、殺風景な住宅街を抜けるのに時間はかからなかった。
夏蓮は近衛から受け取った合鍵を手に、ドアの前で立ち止まっていた。
軒先の植木鉢は乾燥し、植えられていた植物は枯れ果ててその品種すら判別がつかない。周辺の雑草は、太陽を求めて背を伸ばしているというのに。
覚悟を決めたのか、夏蓮は開錠する。
物音を立てぬよう、慎重に足を踏み入れた玄関。その目下には、女性の靴と小さな子供靴が揃えられていた。夏蓮はこれを手に取って、膝を突いた。
「…見覚えがあります」
花飾りの付いた桃色の靴は、隣の靴よりもずっと色褪せていた。傘も、靴ベラも、酷く劣化している物とそうでない物の二つがあった。夏蓮の母親は当時を忘れぬよう、少しでもその景色を残そうとしたのである。
自分も姿勢を落として、夏蓮の手にした靴を見る。後ろのタグに母親が記したであろう彼女の名前が書きこまれていた。
「夏蓮…」
小さな手が、肩が、小刻みに震えている。視界が滲むくらい下睫毛を濡らしているのに、ぎりぎりで
「夏蓮、今は、泣いても構わないんだ。気が済むまで、ここに居ればいい」
背中に手を置くと、ついには顔を伏せて泣き崩れた。二階に待つ、嘗て母親であった傀儡に悟られぬよう、声を殺して。
自分は、恐慌現象で両親と死別してもこんな風に悲しめなかった。親しい人間に二度と会えなくなる寂しさは有ったが、そこまでの話だ。ではもし、ローゼを失ったら。
――この感情は、恐怖か。
誰が死のうとそれは仕方のないことであり、嫌ならなるべく死なせないようにするしかない。自分もできる限り生き永らえて、誰かを悲しめぬように。それこそ、全ての死を見届けられるくらい、強く。
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