白ノ探索、紅ノ会敵 参

 十一年前の八月。真夏の白昼、土曜日である。


 八歳のローゼは両親に連れられて、学習塾の見学に出かけていた。


 車を下りた途端、焼けつく日差しと、過熱したアスファルトの洗礼を受ける。多くの子供であれば塾というだけで憂鬱な気持ちになろうが、保育所も学校も知らぬローゼにとってはまたとない機会だった。


 リミステネス家の正体は渡来した古代ギリシャ人の末裔であり、その血は薄まれども、国の庇護下で脈々と受け継がれてきた。


 医者、軍師、諜報員など、長い歴史の中で国家の危機を救う人材を幾度となく輩出した。やがては世間からの隔絶と優秀な人間の育成が義務付けられ、今日この時ですら国の許可を得ての外出となった。


 発端は、男性のような言葉遣いを強制されたローゼの涙だった。世間との接触が僅かであっても、八歳にもなればこれが普通ではないと理解できる。書籍に留まらず、教材の文章からでさえ口調の違いは読み取れる。


 キルシェはリミステネス家を継ぎ、全ての制限を受け入れると約束した。世間と交流できる人間も必要だから、ローゼにはそういった役割を担ってもらう運びとなった。


 結果、ローゼにはむしろ荷が重いとしてこの話は頓挫とんざする。

 男性口調は本人が望んですぐに矯正できるものではなく、また他の生徒と良好な関係を築けなかった。


 成人した人間と比較して、子供は良識に欠ける。心根に悪意や幼稚な好奇心を持つ親の影響を受け、そのまま他者にぶつけてしまうものである。心無い言葉と蔑視べっし嘲笑ちょうしょうを受けて酷く傷ついたローゼは、毎日憔悴しょうすいした臆病な目をするようになった。


 女の子として振舞いたいとキルシェに泣きついたあの日、彼女は両親に話を付けてくれた。さもなくば自害すると言って、傷は浅いが胸に彫刻刀を突き立ててまで抗議してくれたのだ。


 ある程度成長していれば、ローゼとて自分の選択に後悔しないくらいの心構えを持った筈だ。冒険して、友を作り、新しい景色を見ただろう。だが容易に一人で辿り着ける答えではない。これは誰かから教えてもらって、それもきちんと理解してこそ意欲へと繋げられるのだ。


 人間の子供は、しばしばこうして成功体験を得ぬまま時を過ごしてしまう。キルシェによるその後の教育が知識として定着し難かったのは、どこかで自分を嫌っており、主体性を確立し切れていなかったからだろう。


 ローゼは二ヵ月の間、キルシェとの会話を最低限に止めていた。そうしなければ涙腺が決壊し、きっとまた泣きついてしまうからだ。


 「いつでも遊びに来い」


 キルシェは、ローゼが落ち着いて、悲観していない時を見つけてはそう言った。口をつぐむ意思を尊重しながら、断腸だんちょうの思いで見送った。


 ある夜、ローゼは両親に内緒でキルシェの部屋を訪れた。


 キルシェは窓際の机に向かい、小説に目を落としている。橙色の照明が暖かい。半分だけ開かれた窓から風が吹き、花柄のカーテンが揺れた。


 「…キルシェ、あの、私」


 キルシェは本を閉じて、照明を落とした。椅子を立ち、ベッドに腰掛ける。隣をパタパタと叩きながら、ここに座れと促した。


 窓から差し込む星明りで部屋の様子は解るが、顔の輪郭までははっきりと見えない。隣で俯いていると、キルシェは沈黙を破った。


 「二か月間もよく頑張ったな。私は寂しかった。たまには話を聞かせてくれよ」


 泣き崩れてしまったローゼの頭を、今も彫刻刀の傷が残る胸に抱き寄せた。


 「キルシェ…ごめんなさい。私のせいで、私が我儘わがままを言わなければ――」


 涙が止まない。ローゼは自分の弱さを悔いて、何度も、何度もキルシェに謝った。


 暖かい。キルシェの髪が首元を撫でて、洗髪剤が香る。白い寝間着の感触と小さな鼓動が伝わる。嫌な汗と冷たい風に震えていた背中。ここに触れる久しき手は、悲しみも罪の意識も拭い去ってくれる。忘我ぼうがのままに、夏の残滓ざんしを感じた。


 泣き疲れて、ようやく落ち着きを取り戻したローゼはキルシェのベッドに眠る。お互いに背を預け、深海のような夜の静謐せいひつに満たされる。


 「…私の事を、嫌いにならないのか?怒って、いないのか?見捨ててくれて良いんだ。キルシェが楽になるのなら、キルシェが幸せなら。もう、それで構わない」


 キルシェなら否定してくれると頭の隅で考えている自分が、あまりにも憐れで情けなかった。


 脳裏に絡みつくローゼの不安を解くように、キルシェの落ち着いた声が応える。


 「ローゼ。私はな、他人に優しさや許しを望むのはやめにしたんだ」


 「どうして」


 「相手に差し出すものであって、望むべきではないからだ。どんな答えが返ってきたとしても、後悔しないように。故に、私の思いは安心して受け入れよ、ローゼ。腹を立てるくらいなら、優しさなど最初から持たぬ」


 キルシェは嘗て、誰かに優しさを望んだのだろう。叶わないが故に、身を割き死に逝くおもいを以て、我のみはと実現しようとしたのだ。人間の悪意と糾弾きゅうだんを、在って然るべき性質として理解しながら。





 ローゼはこれ以上ないくらいにキルシェの情を受けて育った。


 簡単に自分を好きになるほど自信家ではないが、キルシェに何かを返すことが出来たのなら、生まれた意味は在ったのだと、思える気がした。


 敵首領の背後には、後ろ盾が存在する。キルシェの推察が正しければ、彼女を先に戦わせてはならない。だから自分が片を付ける。腹は、括れた。


 近衛班の装甲車両は全てのハッチを閉鎖している。ローゼは銃座の位置に膝を突いて、会敵に備える。


 見張りの鷹田たかだが第二班の黄色い発煙弾を空に確認し、これを機に再出発したので、大体の目的地は定まっている。もはや探索の必要はなく、廃墟の街を走り抜けるのみだ。


 時速四十五キロ。電柱や郵便ポストを紙一重でかわしながら、道幅の狭い住宅街を疾走する。大通りに合流し、百メートル余り先に橋が見えた。


 速やかに減速。左折して再び小道へ入るが、ローゼは銃座から飛び降りた。アスファルトに転がり、受け身を取って着地を完了する。


 停車した車両の上部ハッチを水地が開き、操縦席からは近衛が叫ぶ。


 「ローゼよ!先を急がねばならんぞ!」


 八百メートル南下すれば八階建ての廃ホテルがあり、発煙弾はこの屋上から発射されたと推測。実際は三軒隣の雑居ビルであるが、目的地としては正しい。ここから西へ幾許いくばくか走れば二班と合流できる。


 「すまない。ここから先は三人だけで行ってほしい。私は敵を、足止めする」


 水地校長が双眼鏡片手に身を乗り出して、ローゼの睨む先を覗く。


 四車線の道路と、北に線路が併走へいそうする橋梁きょうりょう。白く塗られた鋼鉄の上部構造がアーチを描く。全長は百四十メートル。その丁度中間地点に、甲冑を纏った四つの人影が立つ。


 頭部には兜を乗せ、鬼の面に顔を閉ざす。兜の象徴たる金の前立てが天をく。のど。胸板。肩と上腕を守る盾は大袖おおそでと呼ばれ、その下に金の小手が覗く。横腹と腰を保護するわいだて。脚部のすねあては漆塗りか、黒光りしている。


 槍の赤兜、斬馬刀の金兜、脇差二刀の黒兜、鎖鎌の青兜。厳密に言えば兜はどれも漆黒であるが、鎧や布の染色からこのように識別した。


 一人として銃火器などを持たず、この大将達は近接戦に於いて一騎当千の圧を帯びる。


 水地はそのまま銃座に着き、近衛に事情を伝えた。再発進し、予定通り発煙弾の発射地点を目指す。


 ローゼは、橋梁きょうりょうへ走り寄る。


 罠か、足を踏み入れても鎧武者は近づいてこない。彼らは上部構造の白い骨組み、アーチの柱に散らばって、得物を構え臨戦態勢を作った。


 「四匹…。まずは、赤いやつ」


 休息時に重機関銃の弾帯から完全に分離した十二・七ミリの弾丸。これを雑嚢から取り出し、十発束ねる。両手は既に血塗れである。薬室となる左手に束を握り締め、人差し指と親指で作った輪から、蜂の巣状の弾頭が顔を出す。撃鉄の右手を雷管へ添え、例の如く徒手式射撃の姿勢となる。宣言通り、目標は左の赤兜。


 ――着火。乾いた銃声を血液の爆発音が砲声に倍する。紅い眼球のもう様体筋ようたいきんが高速で水晶体の焦点を調整し、射出した弾を追う。赤兜に迫る瞬間、鎧武者全員からスパーク音が鳴り、紫色の雷が裂傷の如く空間を走った。


 この紫電は、細い糸を千々に伸ばしながら赤兜へ収束する。


 発射した弾丸の軌道が『右』へ、逸らされた。


 数発が橋の骨組みに着弾し、残りは車道を滑り抜けて明後日の方向へ消える。


 「電磁力か」


 ローゼは瞬時に理解した。無鉛弾は鋼鉄製であり、つまりは磁性体。恐慌現象時にタングステン製の徹甲弾などは使用されておらず、よって敵は銃弾を無力化できる。


 電力を操る能力となれば、無線の電波妨害も頷ける。


 一人の兵士が目視しただけで、連絡も取らずに全員が把握し、規則的に行動できたのは、視覚情報を共有しているからだ。


 兵士に自我は感じない。

 もし仮に、単体での行動と判断が可能としても、活動内容は単調になるはずだ。つまり、少なくとも戦闘時は敵首領が直接操っている。謂わば傀儡。


 市の象徴たる金城には鎧兜が展示されていると聞き及んでいる。特別製の傀儡にあれを着せて出陣させたというわけか。


 鉄が大部分を構成する橋梁きょうりょうは磁性体の塊。下は水辺。このまま手をこまねくのもいいが、主力たる彼らと交戦すれば足止めできるかもしれない。鎧武者ではなく、銃を持った兵士を、だ。


 最優先で同族を無力化したい敵は、異能を与えてしまうくらい鎧武者へリソースを割いている。ここに至るまでさしたる追撃にも遭っていないのは、彼らに力を集中したからではないか。無論絶対とは言えぬが、賭けてみる価値はある。

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