白ノ探索、紅ノ会敵 壱

 十五分ほど待ってから工場を出た。東側の道路を渡って正面、廃屋の裏庭へ回る。


 白骨化した犬の死体を見て、夏蓮がキルシェの背嚢を掴んだ。


 犬は、鎖で繋がれたままだった。恐慌現象時、死屍累々の校舎を歩いた経験が有ろうと、このくらいの少女にとっては毒なのだろう。


 塀を乗り越える。夏蓮を抱え上げて先に上らせ、更に下から補助する。こうして三軒ほど渡り、幅一メートルの路地裏へ出る。子供の遊び場だったのか、三輪車や水鉄砲、色の付いたボールが転がっていた。薄暗く、じめじめとしており、側溝の蓋に苔が生えている。


 百メートルは歩いたように思う。


 個人商店の駄菓子屋へ、裏口から侵入する。通電していない冷蔵庫の中には、瓶やペットボトルの炭酸飲料が当時のまま残されていた。台に陳列された菓子類は埃が積もり、鼠に食われている物もあった。


 キルシェは、閉ざされた表口のカーテンから外を覗く。


 道幅が広く、二十メートル先の交差点に一台の乗用車が見える。中には老人が腰掛け、しきりに眼球のみを転がして北側を眺めている。監視員や兵士を見た感じ、洗脳とか命令というよりは操縦される機械人形だ。

 劣化した衣服から、元は街の住人だったと思われるが、何らかの方法で肉体のみが維持され、脱水症状や感染症からも守られているらしい。


 定期的に検査や修理でも施されているのだろうか。


 我々は血液を塗布することで着用している衣服の損傷を修復できる。人体も同じように扱えるとすれば、あのような出来損ないの死体を作れるのかもしれない。我々には不可能で、やろうとも思わぬが。いずれにせよ、この表口からは出られそうにない。


 キルシェと夏蓮はチョコを幾つか取って、食べながら再び裏口へ。


 路地を出て車道を横断し、また別の路地に入る。その際に目印の交番を確認できたので、地図通りに進めている。途中左折し、七十メートルくらい行けばサナトリウムだ。


 「キルシェでも、チョコとか食べるんですね」


 「ローゼの影響だ。あれは甘い物が好きでな。この体質になる前は、体に悪いと極端に制限していた」


 「虫歯になるからですか?」


 いかにも子供らしい質問だ。


 「理由は色々だが、不要な間食を格好悪いと思うからだ」


 「ふーん。そういえばキルシェも、ローゼの話をすると笑うんですね」


 子供らしからぬ洞察だ。笑んだつもりはないのだが。


 「私も、とは?」


 「ローゼも、キルシェの話をすると楽しそうな、そんな感じがしたんです」


 「ローゼは、私よりもよく笑うからな」


 「そういうことじゃないと思います」


 「そうだな」


 静かに肯定する。この時に笑んだから、先刻も同じ顔をしていたのだと気が付いた。


 ローゼ。せめて無線が回復すれば、そうすれば彼女の現状を把握できるのだが。


 敵が兵を用いるのは有用だからであり、つまりは何者からも絶対不可侵となるような能力は有していない。適切に判断すれば、ローゼであっても勝機はあると踏んでおり、退避に関してはほぼ確実に可能であると考えているから送り出せた。


 そう、直ちに命の危険はない。

 けれども、楽観視ばかりしてもいられない。


 どこかのタイミングで第二、第三の敵が現れるかもしれない。というのも、広範囲を数年に渡って侵略するという目立つ行為は、後ろ盾や仲間の存在を示唆している。であるが故、自分もしばらくは存在を欺瞞ぎまんしておく必要がある。


 問題は、いつ、自分が戦線に立つか。早ければ敵に手の内を晒し、遅ければローゼを第二の敵と衝突させかねない。




 ――サナトリウムの側面に差し当たる。


 北は正門、南は裏門。赤レンガの塀伝いに窮屈な路地を進み、裏門側の車道へ出る。南に建つ保育所は二階建てで、サナトリウムは三階まである。サナトリウムによって北から隔てられた保育所に監視員は無く、そもそも拠点であるここの近隣は手薄だった。


 『アミティエ療養所』。裏門の柱にも名称が刻まれていた。


 三つの建物がコの字となって、中庭を囲う。管理の手を離れた花壇の外へ、様々な花が無造作に咲く。ストック、ポピー、チューリップ、マリーゴールド等。


 他人との過干渉に配慮したのか、天使の石像や庭樹ていじゅ、蔦の絡むアーチが、ベンチの視界を遮る形で配置されている。暖かい日差しと、植物の香り。少しだけ冷たい春の風。晴天に千切れる薄い雲。療養するには打って付けの環境であろう。


 塀に寄れば雑草が生い茂っているが、他はさしたる劣化や植物の浸食が見られない。本館と東館を繋ぐ渡り廊下を横断し、左折。正面玄関へ。


 正門は工場で見た時、半分しか解放されていなかった。無論今もそのままである。加えて塀と庭樹ていじゅが死角を作り、我々を包み隠してくれている。


 「さて、調査に入る。夏蓮、怖くは無いか」


 「犬の死体を見たときに言って欲しかったです」


 「正しい。ぐうの音も出ないな」


 キルシェは苦笑を零した。


 玄関扉は重厚な木製の両開きである。右隣に、表札の外されたらしい染みが残されていた。

 元々は富豪の所有する古い洋館であったが、取り壊しを惜しまれて別の役目を与えられたといったところか。


 本館へ足を踏み入れる。後ろに続く夏蓮は息を殺し、静かに扉を閉めた。


 「上階は見晴らしが良い。発見されては困るから、一階を探索する」


 「わかりました」


 小声で問答する。


 広い玄関へ入ってまず目にしたのは、木製の丸台と消毒液の空容器だった。


 左手には受付窓口。正面突き当りには階段があり、上階へかけて吹き抜け構造がとられている。上階の窓は、ステンドグラス製となっていた。


 「夏蓮、行くよ」


 「あっ、待ってください」


 ステンドグラスの七色の輝きに見惚れていた夏蓮が、少しだけ遅れて追随した。


 木の色に満たされた館内へ、窓を通して光芒こうぼうが差し込んでいる。正面が北なので直接太陽は見えないが、それでも歪んだ窓枠の形が床をくっきりと照らしている。


 古い建物だが床は軋まない。


 それでもキルシェの、百五十キロ余りの体には心許なく、足元に血液の粒子を踏み、体重が床に掛からぬよう細工した。


 歩く度、白い粒子が残っては消える。


 機械であれ監視員であれ、映像より音声の方が少ない情報で済むし、遮蔽物が在っても察知できる。盗聴器のようなものはこの静謐せいひつに於いて特に厄介となる。音に、注意する。


 「転ばぬよう、足元に気をつけて」


 夏蓮にそう耳打ちすると、コクコクと数回首肯しゅこうしてくれた。脇を締め、二つの小さな拳を胸の位置で握り、どこか誇らしげな顔をしている。何か嬉しいことでも有ったのか。


 突き当たりから左の廊下へ。壁伝いに南側を歩く。


 塀に閉ざされた中庭とて、ずっと無人である保障はない。そっと爪先をついて、窓が有れば下へ屈みながら。肩に下げた小銃は構えて取り回す。軽装の夏蓮は体も小さく、楽々と追随してみせた。

 ただ、血液の粒子で自身の体に斥力せきりょくを与え、宙に浮いているに等しいキルシェと違って、一切無音とはいかない。

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