第24話

 そうか、そういえば部屋のカーテン、日中ってのもあって、閉めてなかったっけ。

 わたしはぼうっとする頭で、そんなことを思っていた。だが、今はあまり気にならないというか、どうでもいい。

 茜ちゃんがカーテンを勢いよく閉めて回っている間に、再びズボンを脱ぐと、それも手にする。そして、少し悩んでから、やはり上の服同様、ソファの裏に投擲した。

「……おりゃっ」

「あっ……っ、こ、こらっ!」

 両手を上げ、とうとう怒った様子の茜ちゃん。もう、しっかりしてください! なんてわたしに言いながら、近くに投げ捨てたズボンを手に取り、それを畳んでくれる。

「んもうっ、駄目ですって、姫子さん! 何してるんですか、しっかりしてください! ……いや、風邪引いてしんどいのは、わかりますけど……でも駄目です!」

 片手で器用にそれを畳みながら、こちらに近寄ってくる茜ちゃん。わたしはその様子を、力の入らない首をソファに預けながら、横目で見つめる。だがその目も、開けているだけで精いっぱいだ。さっきから熱によって、目から水分が飛んでいるのか、どうにも乾燥する。出来ることなら、そのまま目を瞑ってしまいたい。ここへ来て、とうとう平静を装ってもいられないほど、身体を倦怠感に侵されているようだった。

 息もし辛く、鼻で息をすると、自分の呼気が熱い。たかだか一度や二度、体温が上がったくらいで、人間はこうも身体が言うことを聞かなくなるのかと、変なことに感心している始末。

 だらしなく口で浅く息をしながら、わたしは半目で茜ちゃんを見つめる。すると目が合った茜ちゃんは、怒ったような表情から、少しあって心配そうに肩を落とす。そうして、わたしの元へ近づくと、再び横へ座ってくれた。

「……姫子さん、ほ、本当に、大丈夫ですか? なんだか、かなりしんどそうに見えますけど……」

 部屋中のカーテンを閉め切ってくれたお陰で、少し薄暗くなった部屋の中、茜ちゃんはそういってわたしの顔を覗き込む。わたしは、さっきから息の上がったままではあったが、それでもいざこうして聞かれると、とてもじゃないが、しんどいなんて言えなくなる。

 年上だから、茜ちゃんの保護者は今わたしだから、そんな責任感が、そうさせる。

「うん、大丈夫、だよ。心配かけて、ごめんね」

 喋るだけで息を切らしてしまいながら、わたしは必死に、口元に笑みを湛えた。しかし茜ちゃんは、やはりそんなわたしを、とても大丈夫そうには思っていないらしい。より一層、眉に顰めた皺を深くした。そして、唇を噛む。

「大丈夫そうには、見えないんですけどね」

 それから、茜ちゃんは強がるわたしの腕を強引に自分の肩へ回させると、覚束ない足取りを支えるように、ベッドまで運んでくれた。そして、いくら強がろうと頭の中では思っていたとしても、わたしの身体はそれについて行けるほど、最早余力も残っていなかったらしい。そのまま座らせてくれたベッドへ腰を下ろすと、次の瞬間には枕へ頭が沈んでいた。

 心地よい感覚が、頭部を包む。だが、三半規管が発熱によって、少しおかしくなっているのだろうか。元より平衡感覚を失っていた身体だ。すぐに今度は、寝転んでいるはずなのに、全身をぐわんぐわんと揺すられているような感覚が、身体を襲う。まるでベッド自体が動いているような、そんな変な感覚。

 それに耐えかねて目を開けると、わたしを座らせるために一緒にベッドへ腰を下ろしてくれた茜ちゃんは、そのまま腰を上げ、キッチンの方へ向かっていた。

 その様子に、わたしは耐えかねて思わず声を上げる。

「ねえ……いっちゃやだぁ……」

 普段なら絶対に、それこそ口が裂けても言わないような言葉。ましてや、茜ちゃんに対して、これまで極力弱みを見せないように、プライドをかけてそうしてきたつもりだ。だから、こんなことを言うつもりはなかった。いくら、熱が出て、身体がしんどくて、人肌が恋しいとはいえど、それでもこういうことは言わないように気を付けようと、少なくとも今朝辺りから心がけてはいたのだが。

 言ってしまった。

 それくらい、わたしは自分から歩いて去っていく茜ちゃんに、とてつもない寂しさを憶えてしまったのだ。どこにも行かないで欲しい、一人にしないで欲しい。そんなことを、柄にもなく思ってしまった。

 仕事場でも、プライベートでも、わたしはいつからだろうか、それこそ、役職を拝するようになった辺りからだろうか。人に、例えば仕事が終わらないかもしれないから手伝ってほしいとか、これはどうすればいいのか、教えて欲しいとか、そういうことを聞いたり、助けて貰ったりすることが出来なくなっていた。何でも一人で、完結させられるように、ついつい頑張ってしまって。

 それで一度や二度、大きな失敗でも経験していれば、わたしは今みたいに、常に孤軍奮闘してしまうような、面倒くさい性格にはならないで済んだのだろうと思う。だが、幸か不幸か、わたしはどうやら一人でやろうと思えば、それなりに一人で出来てしまうらしい。だからどんどん周囲と孤立していくような感覚は、ずっと感じていた。

 仕事で分からないところがあれば、それを分かるまで自分で可能な限り調べて、時間が足りないなら残業をして、必ず完璧な仕事だと胸を張って答えられるまで、自分でブラッシュアップして。そのためにプライベートの時間も犠牲にして。

 勿論、同僚や先輩後輩に誘われた食事の誘いや、遊びの誘いなんかも、仕事があるからと突っぱねることが多くなっていったし、その当時はそれでもいいと思っていた。わたしは責任者になったのだから、それに見合うだけの、仕事をこなさないといけないのだから、遊んだり、誰かと飲みに出かけたり、そんなことをしている時間はない。他愛もない会話をしている時間すら惜しい。恋愛だ色恋だなんて、それこそ二の次、三の次だ。そんな風に考えるようになっていた。

 だからお陰で仕事の腕はめきめき上がっていったし、人が遊んでいる頃に、働いたりしている分、認められることも多くなった。立場もどんどん上に上がっていったし、人に何かを聞くことなんて、ほとんど不要になるほど、仕事もできるようになった。そうして、周りの人らからはこう思われるようになったのだろう。

 姫子さんは、なんでも一人で出来る人だから。

「ごめんね……ごめんね……」

 譫言のように、わたしは口を開く。その乾いた目に、じわりと涙が潤ったかと思うと、それはとめどなく、熱く火照った目じりから、頬骨の上を伝って、こめかみへ流れていく。

 涙声で謝るわたしに、当然茜ちゃんも振り返る。そうして、泣き始めたわたしと目が合うと、一気に驚いたような様子で、こちらに踵を返し、ほとんど飛び込むようにしてわたしの元まで駆け寄る。

「ど、どうしたんですか!? なにか、え、と、どうかしました?!」

 動揺を露にして、こちらを心配そうに見つめる茜ちゃん。わたしは首を横に振る。

「……っ、ん、違う、何でもない、んだけど……ごっ、ごめんね」

「っも、もしかして、わたしが怒ったから、ですか? ごめんなさい、違うんです、別にそんな怒ってなんかないですから、えと、だから、泣かないでくださいっ」

 そうやって、申し訳なさそうな顔になる茜ちゃん。その表情を見ていると、わたしは更に鼻の奥が熱くなるのを感じた。申し訳ない。ごめんなさい。心配かけたくない。頼ってしまったら駄目。そんな気持ちたちが、まるで洪水のように涙をより流させる。

「……ぅっ、うぅっ、ごめんね、ごめんね……!」

 目を手で覆い、思わず顔を隠す。こんなところ、茜ちゃんに見せるべきではない。こんな、情けないところ。恰好が悪い、なんてものではない。いっそ無様だ。

 茜ちゃんはそんなわたしと目線を合わせるように、枕元へしゃがみ込んで顔を寄せると、手を伸ばしてきた。そして、わたしの額に当てる。

 ひんやりとした、茜ちゃんの手。小さくて、まだ子供の手だったが、わたしはまた、涙が溢れた。もうどうしてなのかも分からない。ただ、心は少しだけ、それで落ち着いたような気持ちになる。

 その手をゆっくりと、わたしの頭へ動かし、撫でるようにしながら、茜ちゃんは優しく微笑んだ。

「大丈夫。……大丈夫、です。わたしは、ここにいます」

 その手は、暫く頭を撫でてから、やがてわたしを宥めるように、肩を優しくぽんぽんと、叩き始める。その感覚がとても心地良く、わたしは震える息で、ゆっくりと深呼吸を繰り返していた。

「これだけ熱が出てたら、そりゃあしんどいですよね。……でも、わたしがいますから。姫子さんは、ゆっくりしてて、良いですから」

 だから、謝らないで下さい、ね。そういって、最後に肩を数度撫で、手が離れる。わたしは閉じていた目を開けると、優しく微笑んだ茜ちゃんが、そこにいた。

 手を伸ばし、茜ちゃんはわたしの肩まで、足元に寄せてあったタオルケットを被せてくれる。ひんやりとした布の感覚が、火照る全身に心地いい。

 思わずその心地よさに身を委ね、目を再び閉じかけたわたしは、そこでゆっくりと立ち上がる茜ちゃんを見る。

「じゃあわたし、ちょっと今のうちに、お洗濯だけ回してきますね」

 涙も止まり、落ち着いたわたしを見て、安心したのだろう。少し安どした様子の茜ちゃんは、それでも少し不安の色を浮かべながら、わたしに声をかけてくれる。

 本当はここで、茜ちゃんも家の仕事をしてくれようとしているのだし、引き留めることをしてはいけない。むしろ、わたしは何も出来ないどころか、ただでさえ茜ちゃんに看病という仕事を増やしているくらいなのだから、大人しく寝ていないといけない。それを頭ではわかっているつもりだった。

 だが、口から出た言葉は、また甘えた様な言葉で。

「……もう、行っちゃうの」

「へ? ……ふふっ、行っちゃうって、ん、ふっ」

 驚いたような顔を初め浮かべていた茜ちゃんは、それから少しして、今度は吹き出すように笑い出す。それから目を細めて、わたしの元に、改めてしゃがみ込んだ。

 

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