第23話

 茜ちゃんが、家に来てから今日で二週間目。

 幸い、服は五日目に持ってきたくらいで足りているみたいで、少し下着類を買い増やした程度。その他にも、女の子だから色々と揃えないといけないかと、思っていたのだが、それこそ化粧品や、美容品の類は、リュックサックの中にまとめられていた。なるほど、だから着替えが2、3日分しかなかったのか、と納得してしまうほど。

 そうして、思ったよりも浮いた予算。それは、またぞろ外食でも出来るほど、それこそ今度はもう少し高級なフレンチレストランだったり、あるいは旅行だったりに行けるほどだった。だから、折角二週間目、折り返しといえば折り返しということもあり、わたしは茜ちゃんを誘って、どこかご飯でもまた誘おうか、なんて考えていたのだが。

 正直、昨日、一昨日辺りから異変は感じていた。だから、それこそどこか出かけたいね、なんて茜ちゃんに、面と向かっては言っていなかったのだが、どうやら今朝、本格的にわたしは風邪を拗らせてしまったらしい。

 いわゆる、夏風邪である。

 まあ確かに、思い当たる節がない訳でもない。寝る時も、暑がりなわたしはクーラーを25度で回しているし、茜ちゃんがしっかり、足の先までタオルにすっぽり隠れている隣で、わたしは特に暑くなってきた最近は、お腹にこそタオルケットはかけているものの、下着姿で寝ることも多かった。というか、なんなら何もつけたくない。まあそれは茜ちゃんが家に帰ってから、二週間後に試してみるとして。

 とにかく、わたしは今朝、とんでもない鼻づまりで目が覚めた。それから喉に感じていた違和感が、明確に炎症へと変わっていることにも気付き、頭も熱でふらふらとする。

 幸い、わたしは風邪を引いても、昔から頭痛などに苛まれることはないので、まあ意識の朦朧としていることと、全身の倦怠感、それからくしゃみと咳に目を瞑れば、仕事に行けないでもない。だが、それはわたし一人なら、の話。

 いくら仕事があるとはいえ、これで無理を押して仕事に行って、ミスをしてしまったり、それこそ周りの人たちに伝染してしまっては元も子もない。

 結局、大事を取って、休むことにした。

 わたしはスマホで、会社に電話をする。出てくれたのは、南乃くんだった。

「……あ、もしもし、赤城です」

 事情を説明した茜ちゃんが、洗い物をしながら心配そうにこちらを見つめてくる、その視線を感じながら、わたしは部屋着のまま、ソファに背を預け、頑張って声を張る。

『ああ、姫子ちゃん。南乃です。……どうかした?」

 すぐにその声が、緊張を帯びる。まあ確かに、わたしも電話だから平静を装った声を出そうとして、実際に出た自分の声に、少し驚いているくらいだ。なんというか、覇気がない。明らかに、普段とは違うように思う。我ながら、こんな状態で、職場に行こうとしていたのかと思うと、おかしくなる。

「ごめんね、南乃くん。今、大丈夫?」

『ああ、うん、大丈夫だよ。丁度、仕事行く用意が終わって、家でくつろいでいた所だし』

「そっか、ならよかった。……ごめん、要件ってのは、申し訳ないんだけど、今日、会社休ませてもらってもいいかなあ……」

 丁度電話の向こうで、コーヒーでも啜っていたのだろう。南乃くんはわたしのそんな頼みを訊いた瞬間、思わずむせた様な声を上げる。

 それから少しの間、電話の向こうでげほげほと咳き込む声。それが落ち着いてから、南乃くんは慌てたように声を上げた。

『え、なに、姫子ちゃんが?! なに、なんかあったの?!』

「いやそんな驚くようなことじゃないんだけど」

『いやいやいや、驚くでしょ! だって、姫子ちゃんだよ?! え、なに、ほんとにどうしたの?! 怪我でもした?!』

 だって姫子ちゃんだよ、というのは良く分からないが、ともかく、わたしは彼に、早く事情を説明した方がいいらしい。さっきから電話越しに、どたばたと激しい物音が聞こえてくる。

「いや怪我はしてないし、落ち着いて」

 身体のしんどいのを我慢しながらも振り絞っていた声で、わたしは思わず笑ってしまう。なんというか、相変わらず、心配性なんだな。なんて、そんなことを思う。きっと今も、独り言のつもりなのだろうが、やれネクタイはどこだ、タイピンはどこだ、なんてぶつぶつと言いながら、急いで身支度をしているところを思うと、どうやら駆けつけようとしてくれているらしい。そんなこと、しなくてもいいのに。

 それからわたしは、南乃くんに身体の具合と、取り敢えず今日、それから明日は休ませてもらう旨を伝えた。それから、休むのはあくまで、他の人たちへ感染するリスクを考慮してのことだと、こちらは念入りに伝えておいた。

『まあ、それならいいんだけど……でも、ほんとゆっくり休みなね? 仕事のことは、大丈夫だから、今はゆっくり休んで、早く元気になってくれたらいいからさ』

「うん、ありがとう。……ごめんね」

『ふふっ、別にそんな、謝ることじゃないって。困った時は、お互い様でしょ』

 じゃあ、まあ、安静に。そういって、南乃くんは最後に軽く笑ってから、電話を切った。

 わたしは、途中からスマホを手に持っているのもどうにも辛くて、スピーカーにして机に置いていた。そのスマホに手を伸ばすと、こちらも通話終了ボタンを押す。それから、ソファに再び身体を預けた。こうして少し話しているだけでも、先ほどからどうにも眩暈というか、熱によって、視界がふらふらとする。きっと、身体の熱が上がり始めているのだろう。

 だが、あまりしんどそうにもしていられない。茜ちゃんの手前、わたしは可能な限り、気丈に笑った。

「お休み、頂いちゃった」

「ほ、ほんとに……大丈夫、なんですか?」

 眉を下げ、茜ちゃんはわたしの元へ近づくと、隣に腰を下ろす。それから手渡してきたのは、マグカップに入った、生姜湯だった。

「これ、さっき近くのコンビニまで行って、買ってきたんです。後、お薬も……飲みますか?」

 わたしは手渡されたそれを、両手で受け取る。丁度、飲み頃に冷まされたマグカップに唇をつけ、ゆっくりと含んでみた。正直、生姜湯なんて子供の頃、おばあちゃんが入れてくれた手作りの、本当に生姜の風味がかなり強い、というかキツいものしか飲んだことはなかったのだが、最近の市販されているものは、それに比べてかなり飲みやすいのだと、知った。

 優しい甘さで、とろりとした生姜のお湯が、喉を流れていく。ほっと息を吐くと、生姜の抗炎症作用だろうか。少し、喉が楽になったような気持ちすら覚える。いや、まあそんなすぐに効いたりはしないのだが、病は気から、という言葉もあるくらいだし。

「……おいしい」

 ふとそう呟くと、茜ちゃんは少し安心したように、表情を緩めた。

「良かった……姫子さん、生姜とか苦手だったら、どうしようかな、とか色々考えたんですけど」

 なるほど、わたしの好き嫌いまで考えてくれていたのか。

 そう思い、感動するわたしは、次の言葉に耳を疑った。

「嫌いなんだったら、無理矢理飲ませようかと思ってたので……」

 よかったです。そういって笑う茜ちゃん。

 え、こわ。

 結構この子も、なんというか、アレだな。言ったら怒るから言わないけど。

 その人の為になることだったら、無理やりにでもするタイプだな。

 姉さんみたい。

「お薬も……どうします? 飲めますか?」

「え、ああ、ごめんごめん。そうね、お薬ね」

 丁度食後だし、生姜湯もそのまま、2、3口で飲み切ってしまったところだ。丁度良い頃合いか。

 それからソファを立ち、コンビニの袋から薬の箱を取り出した茜ちゃんに、それを手渡される。どこでも売っているような、市販の風邪薬である。それを開けて、わたしはなかから錠剤の包装シートを取り出した。それから箱の裏に書いてある、適正服薬数を確認しようとした。が、これもまた、熱の影響だろうか。目がどうにも潤んでいるせいで、文字がぼやけて良く見えない。しばらくそのまま、おばあちゃんのように目を凝らしたり、少し離したりして、見ようとしてみたのだが、結局視認できず、茜ちゃんに手渡した。

「……ごめん、なんて書いてる?」

「え、あ、ごめんなさいっ」

 謝ることじゃないよ。なんて普段ならここで、わたしも南乃くんよろしく言うのだろうが、しかし今はそんな余力もない。それこそ、箱を持ち上げて手渡すので精いっぱいだった。正直、すぐにでもベッドへ横になりたい。身体がどんどん重くなっていくような感覚がする。おまけに視界はさっきから余計にふらふらと、ぐわんぐわんと揺れているような感覚だし、全身がどうにも熱い。クーラーは、いつも通り、日中は26度で回っているはずなのだが、それでも身体に熱がこもっているような感覚になる。汗が背中にじんわりと滲み、服が張り付く感覚が不快だ。

「えっと、成人は、3錠ですね――って、姫子さん?!」

 箱から視線を戻した茜ちゃんは、わたしを見てそんな声を上げた。

 わたしもそんな声に驚いて、思わず手を止める。

「何してるんですか、え、だ、大丈夫ですか!?」

「へ……? なにが?」

「何がって、いや、なんでお洋服脱いでるんですか!」

 そんな言葉でハッとして、自分の手元を見る。どうやら、わたしは無意識のうちに、上の服に手をかけて、そのまま脱いでしまっていたらしい。しかし、脱いでみると実際に涼しいし、なんだか少し籠っていた熱も、逃げていくような感じがする。

 わたしはとりあえず、その脱いだ服をソファの裏に投げた。

「ぽいっ」

「いやぽいっ、じゃなくて!」

 慌てた様子で薬を机に投げ置き、すぐにそれを取りに後ろへ回る茜ちゃん。その間にわたしは、ソファの上で腰を浮かすと、今度はズボンに手をかけた。どうにもさっきから身体が蒸し暑い。まあ熱が出ているのだから当然か。恒温動物の人間にとって、外気温よりも、自分自身の体温の方が敏感に、暑さ寒さを感じるのは、当たり前と言えば当たり前だ。

 しかし今度こそ、膝のあたりまでズボンを下ろした所で、茜ちゃんに阻まれる。

「待って待って、姫子さん! どうしたんですか、え、なんで急に脱ぐんですか?!」

「…………暑いから?」

「いや、だとしてもお風邪を引いてるときに、そんな姿はまずいですって! というか、着替えるならせめて、カーテン位閉めないと!」

 ズボンに手をかけていたわたしに、脱ぎ捨てたシャツを手渡し、茜ちゃんはそれから焦った様子で立ち上がると、すぐに部屋中のカーテンを閉め切った。

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