第19話

 姉さんがシャワーを浴びているその間に、わたしは茜ちゃんの部屋へとお邪魔した。

 あの子の部屋は、やはり流石というべきか、とても綺麗に整頓されている。いや、それを言い出したら、そもそもこの家自体、物は綺麗に整理整頓が為されており、それはわたしの家でも、気を付けていることだ。そして元を辿れば、わたし、そして姉さんの母親の教育方針へと行きつくわけで。

 わたしと姉さん。その姉妹の母親は、とてもそういうことに煩い性格だったのを憶えている。使ったものは元の場所に戻しなさいとか、普段から部屋も綺麗に片づけておきなさいとか。そういう教育故に、わたしも姉さんも、こうして部屋が綺麗なのだろう。

 そしてそれは、姉さんを経て、茜ちゃんにも引き継がれているわけで。

 そんなことを思いながら、部屋の中を見渡す。

 茜ちゃんの部屋は六畳一間の、まあ部屋としてはよくある広さだった。その中に、自分用のシングルベッド、それから勉強机に、茜ちゃんの趣味だろうか。かわいいぬいぐるみが、タンスの上へ置かれていた。それに埃が積もっていたりしていないところも、普段から掃除をするよう、言われているのだろう。

 まあ、これくらいは、片腕が不自由だとしても、それなりにこなせることである。そもそも、わたしだって、なにも彼女を甘やかせて甘やかせて、蝶よ花よと育てた方がいいと、そう思っているわけではない。むしろ、人並みの生活を。という姉さんの意見に、全くの反対を唱えるわけでもない。言いたいことは、理解できる。ただ、必要性が感じられないだけだ。

 だからわたしもあの後、姉さんに暴力を振るったこと、それからコーヒーを顔にかけたことを謝罪した。勿論姉さんも、それに対して、少なくとも頬を張るという行為に関してはやり返してきたので、きちんと謝罪で返してきた。しかしまあ、思い返してみると、こうして姉さんと本気の喧嘩をしたのは、いつぶりだろう。それこそ、姉さんはわたしとかなり年の離れた姉妹だ。それこそ子供もいて、それが茜ちゃん。そして彼女の年齢も高校生と、かなり育っている。

 ざっと頭の中で計算するとなるほど、姉さんは今年で三十五歳か。するとわたしとは、十余年もの、歳の差が開いていることになる。そして姉さんが家を出て、結婚したのが確か二十歳のころだから、そう考えると、わたしがあの頃、姉さんと喧嘩していた時、わたしは十歳で、姉さんは二十五歳。うん、そう考えると、もう少し加減をしてくれてもよかったような気がするが。

 しかしまあ、姉妹というのは、いつまで経っても、そういう喧嘩をするときは、お互いの年齢をとやかく考える暇もないのかもしれない。わたしもその頃の姉さんと同じ、二十五歳を今年で迎えているが、それこそわたしも、あの頃の姉さんのように、ついつい感情的になって、怒鳴ってしまったし、頬を張ってしまった。

 しかし、それをするだけの価値はあったと、わたしは今回の言い合いに関しては思っている。事実、姉さんも自分の口から、茜ちゃんに会わせて欲しい、謝りたいと言っているくらいだ。ここへ来て、ようやく事の重大さに、姉さんも気付いてくれたのか、あるいは。

 単に気付かない振りをしていられなくなったのか。

 姉さんのことだ。どうせ、茜ちゃんとの間に、少しずつ、少しずつ、けれど確実に開いていく亀裂に目を瞑っていたのだろう。そして、それは茜ちゃんが家出してからも、気付かない振りを続けていて。そこへようやく目を向けるときが来たのだ。

 わたしは茜ちゃんの部屋を見つめながら、そんなことを考えていた。

 そしてそのタンスに近寄ると、取っ手に手をかけた。

 まずは一番上の棚から、中身を見ていく。そして、必要になりそうなものを、見繕って、出していった。

 一番上の、半分のサイズに入っていたのは、茜ちゃんの下着だ。それを適当に、上と下とのデザインを合わせながら、引き出していく。あの大きなリュックサック、とはいえ、中に入っているのは大体二日か三日分くらいだろうから、それを合わせず、一週間分の下着は必要になるだろう。少なくとも、下着の数から考えるに、茜ちゃんはかなりの衣装持ちらしい。それに、凝った意匠の下着が多い。それをわたしは、適当に、というわけにもいかないから、色々と悩みながら、取り出して、床に並べる。

 次に、服だ。幸い、冬場ではないので、無駄に嵩張るということはないけれど、しかし引き出しを開けてびっくりした。いや、麦くんが来ると伝えた日には、あの飲み会が行われた次の日にも、あの子は落ち着いた感じのワンピースを着ていたので、もしやとは思ったが、どうやらかなり、洋服には気を遣っているらしい。これではいよいよ、本当に適当な服の選び方は出来ないな。なんて思いながら、慎重に洋服を見繕う。しかし、あの子の持っている服はおおよそのジャンルとしては、似通ったものが多かったので、それは選びやすかった。具体的には、ワンピースやセットアップなどの服以外は、どれでも組み合わせで着れるような服ばかりで、わたし個人としては、非常に助かった。あまり、服のセンスには自信がないのだ。

 それこそ、姉さんの部屋着をとやかく言えないほど。

 そうして、わたしは彼女の服を全て選び終えた。正確には、後は靴下も選ばなければならなかったのだが、幸いにも彼女は、靴下に関しては、黒と灰色のくるぶしソックス、それから、同色のハイソックス、そして黒のストッキングを揃えている程度だったので、それが唯一の救いだっただろう。それこそ、靴下までやれレースだ、やれフリルだと取り揃えられていては、いよいよ困っていた。わたしはそこまで、服のセンスがあるわけでもないのだ。靴下なんて、わたしは安い服屋でしか買ったことがない。

 だが、それに安堵するあまり、わたしは大切なことを忘れていた。そして更に、それに気づいたのは、わたしがシャワーを浴びて戻ってきた姉さんに、気まずさを感じながら見送られ、玄関先に立った、まさにその時だった。

 余談だが、いや余談でもないのだが、わたしは当然、そんな姉さんの申し出を断った。

 茜ちゃんに会わせて欲しい、一言謝らせて欲しいという、その申し出を。

 当たり前だ。

「それに今まで、わたしに言われるまで気付けなかったのに、会わせるわけにはいかないよ。それは、一か月後、姉さんが戻ってきた茜ちゃんに、自分から言うべきじゃないかな」

 そういった時の姉さんの、あの表情は、しかし悲しみに染まっていると形容するには、あまりにも様々な感情を内包していた。

 悲しみ。しかしその中には、わたしがそう答えると頭では理解していたような諦めもあり、同時に安堵も、喜んでいるような色すら感じ取れた。きっと姉さんも、そう答えられることを内心では予感していたのだろう。

 自分で言うのもなんだが、わたしは一度これと自分で決めたことに関しては、とことん貫く性格だ。そこに一切の例外は存在しない。それこそ、悩むことこそ沢山あれど、一度決めてしまえば、それを曲げることは一切無い。だから今回も、勿論悩みに悩んだ。それこそ、茜ちゃんには、一度姉さんの思い、それから謝罪を聞いてもらって、思い直して貰うのが何よりの最善ではないのかと、悩みさえした。元々、わたしの独断で二人を引き剥がしたのだ。茜ちゃんの手荷物の量からして、何もわたしの家への、長期滞在を望んでいたわけではないだろう。それこそ、今日も執拗に、わたしも会いに行くと言っていたあの発言も、内心では自分の母親に会いたいという、娘としては至極真っ当な思いの表れでしかない。しかしそれでもわたしは、自らの発言を、一度自分の口から出た発言を曲げることを、何よりも良しとしない。

 あの時の、茜ちゃんがわたしの家、その玄関先で、寒空の下、二時間も待ってた、あの時に思った想いに、間違いはないと思っている。

 一度、ここらで茜ちゃんと、それから姉さんとを引き剥がすことが必要だと判断した自分に、間違いはないと思っているからこそ、わたしはそんな姉さんの提案を蹴ったのだ。

 もしここで、二人が会って、お互いに謝ったとして。お互いの過ちを認めたとして。

 それでは足りない。二人とも、自分を、そして相手を見つめなおす時間が必要だと思った。そして定めた期間が一ヶ月だ。

 ならばそれまでは、一目どころか、すれ違うことすら、許してはいけない。

 ともかく。

 私が気付いたこと。

 それは、茜ちゃんだって靴を履くということだった。

 いや、これだけでは言葉足らずか。正確には、茜ちゃんがあれほど、衣装持ちならば、それこそ靴だって、色々と持っていても不思議ではない、ということだ。

「……靴か」

 玄関先に、揃えて並べられた靴を見て、わたしは思わず独り言を呟く。そして当然、姉さんはきょとんとした表情で、こちらを見つめた。

「靴? 靴がどうかしたの」

「いや、ごめん、すっかり忘れてたんだけど」

 わたしはそんな切り口で、姉さんに訊いてみる。

「もしかして、茜ちゃんって、靴も結構持ってたりする?」

 女の子だ。それこそ夏場だ。サンダルから、スニーカーから、色んな種類の靴を取り揃えていても不思議ではない。むしろ当たり前だ。なにせあの服の量である。一応、冬服が収納してある衣装ケースも確認したが、あの量なら。

 果たして姉さんも、思い出したようにハッとした顔で、口を開く。

「ああ、そういえばそうね。あの子、サンダルタイプの靴なんかも、色々持ってるわよ」

「……」

 それからわたしは、一度履いた靴を脱ぎ、靴箱を開けた。

 果たしてそこには、五、六足を超えるサンダルタイプの靴に、二、三足のスニーカーが陳列されていた。

 あの子、足は二つだよね。

 そう姉さんに確認したい気持ちを抑え、それらも見繕う。

 だが、ここへ来て、流石に限界が来ていたのだろう。そもそも、わたしはあまり洋服に気を遣うタイプではない。それこそ、シーズンが過ぎた服は、全て一括で捨ててしまうタイプだ。だから、家に衣装ケースなんてものも無ければ、衣替えした後の服を置いておくスペースなどもない。だが茜ちゃんは、そうではないらしい。

 結局、わたしは追加で出して貰ったレジ袋に、分からないながらも、この夏場に合いそうな靴を、今度こそ適当に見繕って、ひたすら詰めていった。そしてそれを、服などが入って、だいぶ重量を増した、大きいカバンの中に入れていく。そして気付いたことがもう一つ。

 靴とは案外嵩張るらしい。

 結局、わたしは外の駐車場に止めている車まで、姉さんにも手伝ってもらって、それらを運び込んだ。

 正直、わたしにもう少し、それこそ靴も見繕うセンスがあったのなら、これほどの量の服、それから靴を持って帰る必要はないのだが、しかし如何せん、わたしは服と靴の相性など、考えたことがない。精々、色を合わせる程度だ。ましてや、人の靴ともなれば。

 結局、全てを車の中へ積み終わるころには、昼過ぎをだいぶ過ぎた時刻になっていた。

 わたしは最後、自分一人でも運べる荷物を両手に抱え、玄関先に再び立った。そして姉さんと対面する。その顔は、しかし茜ちゃんと会わせるわけにはいかない。そう告げた頃より、かなりいつもの調子を取り戻しているらしい。

「じゃあ、また一か月後」

「うん、一か月後」

 そういって、扉を閉める。その時、最後に覗いた姉さんの顔。

 手を振りながら、こちらを最後まで見つめる姉さんの顔は、まるで憑き物が落ちた様な、そんな清々しい顔をしていた。

 茜ちゃんに対して、未だ未練がない訳でもなかろうに。

 わたしはそんな心苦しさを胸に、ゆっくりと扉を閉めた。

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