第18話

 初め、わたしが家から追加で服を持ってくるよ。そういった時、茜ちゃんは勿論というべきか、とにかく反対した。

 いやいや、姫子さんにそんな、持ってきてもらうなんて、いくら何でも申し訳ないです。

 とか。

 だったらせめて、わたしも同行します。大丈夫です、お母さんとは喧嘩とかしませんから。

 とか。

 そんなことを言ってくれていた気がする。しかし、わたしはわたしで、それだけはいくら何でも譲れない理由があった。

 姉さんと茜ちゃんを、会わせられない理由が。

 何せ、一ヶ月は合わせられない。そう言いだしたのは、他ならぬわたしなのだ。そしてそれを、渋々、というより、嫌々とはいえ、茜ちゃんも、そして姉さんも、その条件を呑んだ。それなのに、ここでわたしが茜ちゃんと姉さんを、会わせるわけにはいかない。

 それこそ、姉さんと茜ちゃんが、一ヶ月以内に邂逅すれば、わたしの宣言は、全くの無意味になってしまう。それでは何も意味を為さない。

 繰り返しになるけれど。

 八月の二日までは会わせられないよ。

 わたしは茜ちゃんの目を見て、そう強く断言して。そうして今、姉さんの家にいる。

 その姉さんの口から出た言葉。

 別人みたい。

 その一言は、わたしにとって決定的な一言だった。

 勿論、誰だって家での自分と、外での自分が乖離しているなんて、珍しい話ではない。

 が、それとこれとは、話が別だ。

 机に頬杖をついて、どこか心ここにあらずというか、物憂げな表情を浮かべて、テレビを見つめる姉さん。わたしは机に手を付いて身を乗り出し、その横顔を、叩いていた。

 乾いた音が、テレビの音と、窓越しに聞こえるセミの鳴き声ばかりが聞こえる部屋の中に、一瞬で響き渡る。そして唖然とする姉さん。わたしはそのまま、我が身も顧みず、机を回り込まずにそのまま、手足をついて乗り越えると、そのまま胸倉に手をかけた。

「……痛いよ」

 驚きに目を見開いたまま、姉さんはゆっくりと首をこちらに向ける。そして、そう呟いた。まるで、我ながら今にも殴り掛からんとして、息も荒くなっているわたしとは、あまりにも対照的だ。あまつさえ、そんな姉さんの目は、胸倉をつかまれた状態のまま、ただ静かにわたしを、見下すように見ていた。

 勿論、わたしも痛がった程度で、手を離すわけがない。むしろ、より一層両手に力を籠める。食いしばった歯の間から、鉄の味が滲む。だがそれも気にならない。今何より、わたしの頭の中にあるのは、先ほどの姉さんのあの言葉だ。

「……別人、みたい……?」

 わたしはその言葉を反芻して、それから感情のまま、怒鳴りつけた。

「ふざけないで!! 一体……誰のせいで!!」

「な、何を」

 戸惑う様子の姉さんに、わたしは更に掴んだ胸倉を引き寄せる。顔と顔が、お互いの視界いっぱいに広がる距離まで、わたしは顔を近づけた。そして、未だ表情にそれほどの変化を来していない姉さんに対して、余計に腹立たしい気持ちが沸き上がる。

「教育方針だか、なんだか知らないけど! あそこまでする必要、あったの?! あそこまで、出来る様にさせる必要が、どこにあったの!! 料理も、洗濯も、きっとそれ以外も! なんでも一人で出来るってことは!!」

 何でも一人でさせられていた。ということだ。

 それこそ、入浴すら言うに及ばず。

「だ、だって」

 そこで、流石に黙っていられなくなったのだろうか、姉さんも返すようにわたしの手を上から握り込むと、口を開く。

「だってそうしないと、あの子、将来どうやって暮らすのよ。もう高校生なのよ? これから、一人暮らしだってしないといけないし、それこそ、普通の生活を送れるようにしないと」

「それが!! ……それがおかしいって言ってんだよ、姉さんの馬鹿!!」

 その言葉を皮切りに、姉さんも椅子からようやく立ち上がる。そして、わたしの手を握ったまま、机に両膝をついて立っているわたしごと、横に身体を振り向ける。すると当然、机の上なんて不安定で、高い場所に立っているわたしも、振り落とされそうになる。慌てて足を床に着き、いよいよ二人とも、相手の身体や服を握り合った状態で、相対した。

 お互いの視線が交錯する。姉さんも、言われっぱなしというわけではない。むしろ、苛立ちをその表情へ、露にしていた。

「おかしいことなんてないでしょ、姫子! だって考えてもみなさい! わたしだって、いつまでもあの子の面倒を見続けられるわけじゃない! いつかは、それでもあの子も自立して、一人で暮らしていかないといけないの! それなのに、いつまでも人に甘える癖があったら、困るのはあの子なのよ!!」

「甘えるのは駄目って、茜ちゃんに言うばっかりで、頼ることとの区別も教えてないで! 人に甘えるのと、人に頼るのと、その違いも分からないような育て方をして! それでも!! それでもアンタ親かよ!!」

 その言葉に、姉さんの表情がより一層険しくなる。元より、身長はわたしより少し高い。だから当然、その分だけ力でも勝っている。姉さんはその両手で握っていたわたしの手を離すと、左手で胸倉を掴まれ、そのまま気が付いた時には姉さんの平手を、今度はわたしが受ける番だった。

 その音をかき消すように、姉さんの怒号が今度は響き渡る。

「これでも親よ! 何、一週間足らず一緒にいただけで、あの子のこと、分かったつもり?!」

 ちゃんちゃらおかしいわね。そう吐き捨てる様に、わたしへ軽蔑の眼差しを向けてくる。だがわたしも、姉さんの目を、同じような目で見つめる。

「ああわかってるよ、少なくとも、アンタよりは! あの子が、どうして義手を家に置いてきたか、それの意味も解っているつもり!!」

「はあ? 何言ってんの、そんなのわたしだってわかるわよ!」

 何を今更。そう言いたそうな表情で、姉さんはわたしの胸倉を掴み返す。

「どうせあの子のことだから、あたしの上げた義手には頼らないとか、そういう当てつけか何かに決まってるじゃない!」

 そう怒鳴りつける姉さんに、わたしは今度こそ、力いっぱいの平手打ちを放つ。

 そうして、流石によろめいた姉さんに、手の届くところに置いてあったコーヒーのカップを手に取って、顔にその中身を思い切りかける。

「ちょ、姫子、いい加減にしなさいよ!! 何考えてんの!」

「何考えてんのはアンタだよ、このバカ! ……やっぱりわかってなかったんだな」

 わたしはコップを持った手を、だらりと下げる。

 わたしも、初めはそう思った。この子は、腕に頼りたくないんだ。理由としては、ただそれだけなんだ。と。

 しかし、こうして一緒に暮らし始めて、思うことがあった。茜ちゃんは、腕がなくとも、それなりに何でもできるし、そもそもほとんどの場面において、不便はしていないように感じる。だからわたしも、あまり手助けは出来ないなとすら思った。

 そして最近、その考えは更に変わった。

 あの子はきっと、腕を持って行きたいとは、家出の際に、そもそも思わなかったのだろう。むしろその逆。腕を家に、置いてきたかった。

 そこまでは、姉さんでも想像は出来ていたのだろうが、本当に気付いてあげないといけなかったのは、その後。

 置いてきたかった理由。あの子にとって、それは一つしかない。

 あの子は。

「アンタ……あの義手、防水だって、前に言ってたね」

「そ、そうよ」

「パッシブ義手だっけ? 高性能で」

「ええ、筋肉の電気信号をキャッチして動くし、取り外しも、簡単に行えるのよ」

「毎年毎年、新調してあげてるんだって?」

「だからそうだって言ってるでしょ。毎年、高いお金を払って、それでもあの子には不自由させたくないから――」

「いい加減気づけよ!」

 いつの間にか、そんなわたしの目からは、大粒の涙が零れていた。それが何故かは分からない。分からないが、とても胸が痛いのだけは、自覚していた。

「アンタがそうやって、毎年毎年、お金出して、なんでも一人で出来る義手をあの子に与えて! それがあの子自身のプレッシャーになってるって、なんで気付かないんだよ! ……障害者差別の誹りを受けようと、わたしは言うけどね、あの子は手が不自由なんだ。それなのに、あんなもの与えられて、そりゃあ便利かもしれないよ! でもね、それでもあの子の右腕程は良く動かない! 不便なんだよ! それで、何が不自由無くだ、何が普通の生活だ!! だから置いて行ったんだろ!!」

 コップを机に、叩きつけるようにして置いて、わたしは更に声を荒げる。それはほとんど、泣き喚くような声だった。

 わたしですら、気付くまで、五日もかかってしまったことに対する、罪悪感。おそらく、胸の痛みの原因は、それだろう。

「義手を置いてきて、わたしの家の前で、ひたすら座り込んで待ってたあの子が、お風呂に入って、わたしを呼んだんだ。なんでだか分かるか……」

 その頃には、姉さんは目を伏せて、わたしの言葉をただ聞き続ける。わたしもまた、姉さんの言葉を待たず、話し続けた。

「右腕が、洗えないから、洗ってください、だってさ。でもよく考えたら、それこそ太ももの間で擦りでもしたり、左腕の、動く部分で洗おうとすれば、それも不可能じゃない。少なくとも、アンタはそんな風に、何でも一人でするように育て続けたんだからな。でも、あの子はそこでわたしを呼んでくれた。……ねえ、姉さん」

 わたしはとめどなく溢れる涙を、手で拭うことも忘れて、姉さんの両肩に手を置いた。

「何やってるの……なんで、母親の姉さんが、まず一番に頼られる存在になってないの……あの子を本当に思って、本当に大切にしてるなら、あの子が、一番頼りたい人間に、なるべきなんじゃないの……? わたしみたいな、四年前に会ったことがある程度の親戚なんかより、もっと近くに居るなら、どうして……それが出来ないの。今や姉さんは、あの子にとって、ただ一人の肉親なんだよ」

 姉さんが離婚した。それは確か、半年は前のことだっただろうか。それも、円満な離婚ではなかったらしく、それなりに揉めに揉めて、やっとのことでの離婚だったという、そんな話を聞いた。その話の流れで、もう茜ちゃんはお父さんに会うことは出来ないし、向こうから連絡を取ってくることもない。そんなことを、わたしは珍しく覚えていた。

 つまり、今茜ちゃんにとって、肉親たり得るのは、この世界で姉さん、ただ一人なのだ。その唯一の母親から、そんな風に、普通の人らしく、甘えたり頼ったりせず、何でも一人でやりなさい。なんて、残酷なことを言われ続けて。

 だから義手を置いてくるという、とてつもない一大決心をしたというのに、しかし家に住まわせてもらっているという罪悪感や、頼ることは悪だという姉さんの教育のせいで、あんな矛盾した行動を取ってしまっていたのだろうか。

 事実、あの子が自分からわたしに頼ってきたのも、あの一度っきりだ。後はむしろ、自分から率先して、何でもやろうとしている。だからわたしも、今ここで、それに気付くまでの間、すっかり茜ちゃんの厚意だと思って、委ねていた。本当はそれがほとんど、無理と無茶によってなされていることとも知らず。だから今もきっと、茜ちゃんは家で、わたしの部屋を掃除したり、洗濯物を回したり、色々としてくれているのだろう。

 ないよりはマシな、義手。それすらない、ただただ不便な状態で。

 なにが器用だ。

 わたしは姉さんに抱いているよりも大きい怒りを、自分自身に覚えていた。

 あの子は器用なんかじゃない。ただ、その必要があるから、必死で頑張っているだけだ。

 天才肌ではなく、努力の賜物なのだ。

 片腕だけで、頑張って、何でも一人でこなして。それにどうして、今の今までわたしは気付いてあげられなかったのだろう。

 そんなことを、同じように思っているらしい姉さんは、コーヒーの滴る顔を、頭を下げた。

「姫子、本当にごめんなさい。……今日、一目でもいいから、茜ちゃんに会わせて、謝らせて欲しいです」

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