第17話

「へ、へえ、元気なんだ。いや、別に心配とかは、してないけど……」

 そういって俯き、姉さんはコップを両手で包み込むようにして握る。しかしその表情は、ひとまず安堵しているようだった。

 まあ、それも無理はない。なにせ、茜ちゃんにとっても初めての体験であるように、姉さんにとってもまた、茜ちゃんと一ヶ月もの間、離れるというのは、これまでの人生で初めてだろう。無論、わたしはそれこそ高校生にもなれば、今更何も心配することはない、それこそ自分で何でもできる年齢になっていると思ってしまう。だが、母親とは得てしてそういうものなのだろうか。

 いつまでも子供のことが心配で、気になってしまう。そんなものなのかも、知れない。

「でも、ご飯は? あの子、ちゃんと食べてる? 好き嫌いとかしてないか心配なの」

 そこで不意に顔を上げて、そんなことを言い出す姉さん。

「うん、特に好き嫌いとかはないみたいだけど……どうして?」

 わたしはそこで、ふと気になった。

「だって、わたしの家で、これまで茜ちゃんが料理を残したことなんか、一回もないよ。サラダもお魚も、お肉も、全部綺麗に食べてるし、栄養のことを考えて、料理まで作ってくれてるんだから」

 それこそ以前、茜ちゃんが言っていた。お母さんに、バランスを考えた食生活を送れるよう、献立を考えたり、お料理の特訓をしたりしてたんです。と。きっとその賜物だろう。事実、食卓にこの二日間、彩の豊かな食事が並んでいるし、おまけに美味しいものだから、きっとその内太ってしまうのだろう。しいて懸念点を上げるとするなら、それこそわたしの食べすぎくらいのものだ。

 だが、そこで姉さんは眉を顰める。

「まあ、確かにバランスは考える様に、言ってたけど……でも、おかしいな」

「なにが」

「いや、だってあの子、それなりに好き嫌いとか、昔からあったから。だから、わたしがやいやい言うこともなくなった状態で、一人でも頑張って栄養バランスを考えてるなんて、不思議で」

 そういって、悩むように口元へ手を当てる姉さん。しかしわたしは、それにそこまでの疑問を持つ姉さんにこそ、疑問符を抱いていた。

 そりゃあ、誰だってわがままは控えるだろう。いや、茜ちゃんがどういう考えで、その好き嫌いを抑え込んでいるのか、それはわたしにはわからない。もしかしたら、本当に克服できたのかもしれないし、あるいは、嫌いなものでも頑張って食べないと、住まわせて頂いている上に迷惑をかけてしまう。そう思っているのかもしれないし、はたまた、その嫌いなものが普段あまり食卓に並ぶこと自体少ないので、気付けていないとか。

 わたしは思わず気になってしまった。

「ねえ、姉さん」

「なによ」

「茜ちゃん、具体的には何が嫌いなの?」

「え、嫌いなもの?」

 そして姉さんは、指折り数え始める。

「まずお豆腐とかの大豆製品でしょ。それから、ピーマンとかゴーヤとかもあの子嫌いだし、それに……」

 揚げ物とか、豚の角煮とか、そういう脂っこいのも、本当に苦手らしいわよ。

 その言葉に、わたしは耳を疑った。

 揚げ物? 豚の角煮?

「え、待って姉さん、それ、いつの話? 子供の頃とかじゃ、なくて?」

「いや、あの子まだ子供だけど。……そうね、でも最近の話よ。私がこの間、晩御飯に角煮を作って出したんだけど、あの子ったら、胸やけがするからって言って、ほとんど手は付けなかったんじゃないかな。多分、一切れは食べてない」

 そこでわたしは、この間の麦くんと茜ちゃんと、それからわたしの三人で食卓を囲んだ時のことを思い出す。確かに、茜ちゃんは食が細い。わたしや麦くんに比べて、オードブル状に盛り合わせた大皿から、一人前も食べていないと思う。しかし、こと角煮に関しては、茜ちゃんは二切れくらいぺろりと食べて、美味しいと顔を綻ばせていた。

 もしかして、あれはわたしや麦くんに対して、気を遣っていたのだろうか。

 わたしはそれを言うまいか迷って、結局言わずに置いた。もしもこれで、茜ちゃんが本当にわたしや、麦くんに対して気を遣っていたのだったら、それを姉さんに聞かせて、下手に怒られたくない。という、妹としての考えが出てしまった。それに。

 わたしは冗談のような考えだが、思ってしまったことがあった。それを先に、確かめておきたかったのだ。

「ほ、他に何か、茜ちゃんが苦手なものとか、そういうのってある?」

「苦手なもの?」

「そう。例えば……」

 言いながら、わたしは茜ちゃんが苦手なものを探す。とはいえ、まだ出会って5日、正確には四年前をカウントすると、もう少し立っているのだが、それこそあのくらいの女の子は、一年合わないだけでも別人のように変わる。ならば、出会って五日というのも、間違いではないだろう。

 茜ちゃんが、苦手そうにしているもの。

 そこでふと、苦手、とは少しニュアンスが違うのだが、わたしは一つ思い当たることがあった。

 茜ちゃん、そういえば人に頼るのを、何より苦手というか、良しとしない節がある。それを聴いてみることにした。

「ちょっと違うかもしれないけど、茜ちゃんね、何でも一人でやろうとするっていうか、あんまりわたしに頼ろうとしないし、手助けしようとしても、頑なに拒まれるの。で、そういうのって、家でもあった?」

 言いながら、もしこれでそんなことはない。なんて言われたら。

 ただわたしがあの子に信頼されていないという、何よりも恐ろしい真相が露になるのだが。

 果たして。

 姉さんは、そんなわたしの質問に対して、コーヒーを飲もうとしていた手を止め、身体がまるで固まったかのように、微動だにしなくなった。

 その目と口は、驚愕の相貌を呈している。

「……姉さん?」

 わたしは、そんな姉さんの様子に驚きを隠せない。なにせ、この姉さんは、妹であるわたしからしてみても、感情の起伏が本当に乏しいというか、感情が死んでいるような素振りを見せる。特に驚いたり、そういう反応は、滅多にしない。

 一度、わたしが姉さんの誕生日に、サプライズパーティを目論んだことがある。その時、お母さんの手伝いを受け、姉さんが帰ってきて、玄関の扉を開けたところで、わたしがクラッカーを鳴らして、飾りつけをした部屋に招く。というまあ、我ながら幼い子供にできる精一杯の、サプライズを計画したのだ。

 そして実際、扉を開けて帰ってきた姉さんに、わたしは、これも幼いからこそ、許して欲しいのだが、顔に向けてクラッカーを放ってしまった。後々考えると、当然中から紙のリボンなどが出て行くわけで、とても危険な行為だと反省してはいるのだが、正直、その心配はなかった。

 なんなら、パイ投げくらいしてやってもよかったと、今は思っている。

 姉さんは、当時まだ小学生程度のわたしが放ったクラッカーのリボン。それを鋭敏な反射神経で、顔に届く前に手でかすめ取り、

「……びっくりした」

そう無表情で言ってのけたのである。

 鬼かと。

 この人には、子供相手に嘘でも大げさにリアクションをする、暖かい心は残っていないのかと。

 そう思った記憶が、ふと蘇った。

 そんな姉さんが、である。

 今こうして、自分の手を離れ、自分の知らない姿を聞かされて、驚愕に目を見開いている。人間、親になれば色々と変わるところも、思うところもあるということなのだろうか。

 それこそ、わたしが茜ちゃんのことに関して、姉さんに電話した時もそうだった。あの時はわたしもわたしで気が動転していて、何とも思わなかったというか、強いて言うならピーキーな姉さんの、たまにテンションがああして壊れた時の五月蠅さは、殺意を覚えるレベルだ。なんて思ってもいたのだが。

「あ、ああ……ごめん、姫子」

 姉さんはそういって、手にしていたグラスを、改めて持ち直す。それから、その中身を軽く煽った。それから、コースターの上に置く。しかしその手は、一連の所作の中、ひたすら震えていた。

 それほどまでに、驚くことなのだろうか。

「さっきの質問、よね」

 一息置いて、姉さんは少し落ち着いた様子を取り持つ。それから、わたしが知らない、家での様子を姉さんは、それからしばらくの間、語ってくれた。

「その、そもそもあんた、勘違いしてると思うんだけど、別にわたしも、茜が何でも一人で出来る様に、なんて思ってるわけじゃないのよ。ただ、昔っからあの子、泣き虫っていうか、甘えたがりっていうか……だから、わたしも躍起になって、なんとかしようとしてた訳」

 その後の話を聞くと、どうやら家での茜ちゃんの様子は、少なくともわたしがこの五日間、一緒に暮らしている中からは想像もできないほど、甘えたがりというか、お母さんにべったり。というような具合だった。それに、どうやら彼女は、あれで人見知りらしい。いやまあ、誰だって家にいるときの自分と、そこから一歩外に出た時の自分が乖離しているのなんて、当たり前すぎて取り上げられないほどのことだが。わたしだって、職場ではそれこそ統括という役職を背負っている以上は、真面目に仕事に励んでいる。だがその一方、家で一人で過ごしている時――今は茜ちゃんがいるので我慢しているが――は、それこそ休日などは、一日中、好きなお酒を嗜み、煙草を吸い、自堕落を絵に描いたような生活を送っている。

 だから結婚できないのよ。とか、彼氏がいないのよ。なんて、ちくちくとした言葉をぶつけてくる姉さんとは、この後久しぶりに、それこそ四年ぶりに喧嘩をするとして。

 閑話休題。

 ともかく、わたしは茜ちゃんの家での過ごし方、その姿にギャップを憶えていた。

 それこそ、人見知りだなんて素振り、少なくともわたしの目には、一切映っていなかった。ように思う。むしろ、社交的で、それこそ高校生という身分でありながら、わたしの同僚の麦くんとも、時たま学のある会話もしていたくらいだから、てっきり人付き合いが得意というよりも、好きな部類だと考えてしまっていた。

 だがそれは、おこがましいといっていいくらいの、勘違いに過ぎなかったのだ。

 無理をさせていた。のだろうか。

 本当は、彼女も家に帰りたいだろうし、家出したことも後悔しているだろうし、お母さんにやっぱり会いたいだろうし、取り繕うのもしんどいだろうし。

 やはり一ヶ月なんて期間は、長すぎたのかもしれない。

 別人のような自分で、常に余所行きの状態で過ごすには、その期間は長すぎる。それではいくら何でも、彼女も疲弊してしまうだろう。

 そんなことを考えて、それに姉さんも姉さんで、なにか思うところがあったのだろう。結果、二人の間には、どうしようもできない沈黙が発生する。

 そんな重苦しい空気の中、場を繋ぐようにつけられたテレビからは、ニュースが放映されていた。

『先日、埼玉県東松山市の倉庫内で発見された遺体の身元は未だ判明しておらず、警察は、全力を挙げて捜査に臨む、とのことです。これで、この事件は発生から、凡そ一週間が経過しており、警察は、全力を挙げて捜査に臨むとのことです。現場からは以上です』

 そんなどこかの事件を読み上げるアナウンサーの声が、静寂したリビングに流れていた。

 それを何の気なしに見つめていた姉さんが、ふと口を開き。

 放った言葉を、わたしはよく覚えている。

「ほんと、別人みたい」

 わたしの家に来てからの茜ちゃんを、そう表現した。

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