第16話
土曜日。
わたしが茜ちゃんと、初めに出会った、というより、彼女がわたしの家へ押しかけてきたあの日から、五日が経過していた。そう思うと、なんだかあっという間だったような気がする。それほどまでに、あの子の存在は、これまでのわたしの生活を一変させたのだろう。
勿論、それが嫌なわけでも、ましてや茜ちゃんの存在が迷惑なわけでもない。むしろ、何でもよくやってくれて、非常に助かっている。それこそ、わたしの両腕よりも、彼女の片腕の方が、仕事量では勝るのではないか。そう不安になってくるほどだ。
麦くんがわたしの家へ飲みに来たあの日。その次の日、家のコンロの広さに適したフライパンや、鍋などを二人で、仕事終わりにニトリへ見に行った。そして、わたしは彼の薦める、そこの深い、大きなフライパンと、それから大きなザルを一つずつ、ただそれだけ購入した。どうやら彼曰く、大抵の料理は大きな鍋や、手鍋、大小のフライパンなどを揃えなくとも、それこそわたしが選んでもらったあの二つだけで、十分に事足りるというのだ。
まあ流石に自炊経験のない私といえど、これには流石に反論した。いやいや、それこそパスタとかカレーとか、そういうのは作れないでしょ。なんて、訝しんでいたものだ。だが、少なくとも茜ちゃんの手にかかれば、それは容易いことだったらしく――わたしも麦くん監修のもと、フライパンで試しに冷凍炒飯を炒めてみた。料理としてはとても簡単で、火加減の調整なども必要がないとは、麦くんの言葉だ。しかし、出来上がったそれを見て、NG、というか、キッチンに立たない方がいいというお触れが出た。曰く、この家が全焼するとのこと。失礼な後輩だ――家の料理担当に就任した茜ちゃんは、今朝も手際良く、わたしにフレンチトーストを作って見せた。
勿論、味も触感も、見た目すらとても綺麗で、本当に申し分ない。非の付け所がないとは、このことだ。少なくとも、わたしが作った、まるで泥団子の様な見た目の炒飯と比べると、天と地の差がそこにはあった。
余談だが、それを実食した麦くんと茜ちゃんからはそれぞれ、
「赤城さん、その、何でも適材適所、ですよ。大丈夫です」
「姫子さん……今後はわたしが作りますね」
というお言葉を頂き、それに不満を持って自ら食べたわたしも、
「煙草の吸殻みたい」
という言葉を残して、それからしばらくの記憶が今も戻らない。なので現在、家の仕事の割り振りとしては、洗濯と洗い物、買い出し、それからお風呂掃除などの雑務は主にわたしが。そして、料理や買ってくる食材の指定などは、茜ちゃんが担当していた。
正直、現役の高校生であるところの茜ちゃんに対して、料理を完全に任せきってしまうなんて、勉強の妨げになりかねないし、大の大人のやることではないと、自覚はしている。だからわたしも当然、再三に渡って反対した。しかしやはりというか、あるいは予想通りというか、茜ちゃんはそれでも、家に住まわせてもらっている以上は少しでもお手伝いを。と、言って聞かないのだ。
この頑固なところは、やはり姉さん譲りなのだろうか。あるいは、教育方針によるものか。
子供のいないわたしとしては、このくらいの子なら、家の手伝いなんかよりも、それこそ勉強とか、友達との遊びに打ち込むべきだと思うのだが。まあ、本人の精神衛生上、気が済まないのなら多少は手伝ってもらうのも、茜ちゃんの為なのだろうか。
一ヶ月。
高王政の姪っ子の面倒を見るという約束を、安請け合いしたつもりも、甘く見ていたつもりも無い。だが、やはりこうなってくると、悩みは尽きないのが人情というものだ。本当にこれでいいのか。間違ってはいないか。そんな思いが常に付いて回る。
ともあれ。
流石に運転中は、そう言ったことに思考を巡らせている場合でもないだろう。わたしは道中、ドライブスルーで購入したマックのポテトを袋からつまみ上げ、口の中へ放り込みながら、下道をゆっくりと走っていた。
車で下道を使うなら、片道約10キロ。その大半を走り終え、大通りからいよいよ目的地へ向け、一つ中に入った通りを車で走りながら、わたしは法律の範囲内で走行する。なにせ、ペーパードライバーといっていいほど、わたしは普段から車にはほとんど乗らない。買い物だって、家のすぐ近くにスーパーがあるから、歩いていけるし、それこそフライパンを買いに行った日だって、麦くんが車を出してくれたので、わたしはその助手席に座らせてもらっていた。なので、自分一人でこうして車に乗るのなんか、思い返せばいつぶりになるか、皆目見当もつかない。そんな久しぶりのドライブなので、何かあってからでは遅いのだ。いや、片手運転しながらポテトはつまんでいるけれど。
そうしている間に、いつの間にかわたしは、姉さんの家の近くまで来ていたらしい。ナビを切り替え、近くのコインパーキングに車を止めると、荷物を持って外に出た。それから、携帯電話で近くまで来た連絡を、先に入れておく。するとすぐに既読がついて、家の中で待っているとの返答が来る。わたしはそれを確認してから、スマホをカバンの中に突っ込んだ。そうして忘れないように車の鍵を閉め、コインパーキングを後にした。この近くまで来たり、それこそ姉さんの家へ行くのはこれでかなり久しぶりのことなので、あまり道には自信がない。
わたしは昔からそうだった。何か、憶える必要性のある事柄を覚えておくのはとても得意としている一方、憶える必要の特にない事柄に関しては、すぐに忘れてしまう。だから当然、人の顔なんかも忘れがちだし、今だって、流石に姉さんの顔くらいは覚えているが――忘れてしまってもこれは特に問題もない――姉さんの旦那さんが、どういった風貌で、どういった人だったのか、ということを思い返そうとしても、どうにもこれといった像が浮かんでこない。それこそ、家の前で座り込んでいる茜ちゃんが、自分から名乗りだすまで気付けなかったのも、わたしのそういう悪癖によるものだった。
そんなわたしは、大人しく文明の利器に頼ることにした。外はかなりの気温だったので、適当に近くのコンビニでアイスコーヒーを買い、それをストローで飲みながら、外の喫煙所で再び地図アプリを開く。そして登録されている姉さんの家までの道を、表示する。するとすぐに、その道なりが地図上に青い線で描かれた。見ると、このコンビニからそれこそ1キロちょっとしか離れていない。本当に間近らしい。我ながら、よくこの距離にまで肉薄しておきながら、姉さんの家への道のりを忘れることが出来る。いっそ、変な自信すら湧き上がってくるほどだ。
これはわたしの持論なのだが、世の中に記憶力の優れた人間と分類される人たちは、大きく分けて二つの種類が存在する。ひとつは、わたしのように、必要性が生じるときに、その記憶力を発揮するタイプ。これはとても厄介で、本当に覚えなくても構わない事柄に関しては、本当に覚えない。それが憶えておく必要のある記憶かどうか、それだけで取捨選択を行っているのだ。
そして二つ目は、興味の有無によって、記憶力を発揮するタイプ。こちらもまた一長一短で、例えば自分の好きなことや、憶えようとしたことに関しては、ぐんぐん覚えていく。だが、逆もまた叱り。これは姉さんが該当するだろう。それに、この短期間ではよくわからないというのが正直なところだが、茜ちゃんなんかも、このタイプではないかと思っている。
どうやら料理がかなり好きらしく、それこそ興味の引かれる事柄なのだろう。だから、あっという間に技術をどんどん自らのものにして言っている様子は、その料理を毎日食べている身からすると、実感をもって理解できる。それこそ、一度作ったレシピなんかは、すでに自分のものとして記憶しているらしく、同じ料理を二度目以降、作るときの時間の短縮率は、わたしも驚かされる。本人は謙遜の後、
「いや、だって姫子さん、美味しそうに食べてくれるじゃないですか、だから嬉しくて、頑張って覚えようって思えるんです。記憶力とかじゃなくて、ただやる気の問題ですよ」
なんて言っていたが。
ちなみにわたしは、そのスマホが指し示す方向に、コーヒーを飲みながら歩き続け、大体コンビニから15分ほどで家に到着した。そしてそのアパートの前に立ったのだが、しかしそれでも、本当にこんな家だっただろうか。なんて、実感が湧いてこないほど、憶えていないらしい。まあ、あまり姉さんとは進んで接点を持ちたいとも思えないから、ある種当然と言えば当然か。それこそ、昔から折が合わない間柄だ。仲が良いとか悪いとかではなく、単に意見が食い違う。おまけに価値観も対極を行っているものだから、きっとお互いに、自分の意見と真逆なことをいう存在、という認識があるのだろう。そして実際に話していて、これほど鬱陶しい相手もいない。何をいっても、対立意見を上げてくる存在など、仲良くしようがない。それでも子供の頃は、子供ながらに、大人にでもなればそれなりに仲良くできるのかな、なんて期待もしていた。だが、どうもそんな上手くことは運ばない。むしろわたしも二十歳を超える頃には、どうして年の離れた姉として、相応しい、大人の対応が出来ないんだ、この人は、なんて思っている始末だ。だから今日も、別に会いたくはない。話もそんなにするつもりはない。それは何も、嫌いだから、ではない。ただ、無用なトラブルは避けたいのだ。お互いに。
わたしは部屋の番号を教えてもらい、チャイムに指をかける。今日は休日、土曜日。だというのに、姉さんの旦那さんは仕事に出かけていて、今は家に姉さんが一人。だからなにも気負うことはないのだが、それでも久しぶりともなると、少し緊張してくる。
わたしは溜息を一つ、小さく吐くと、チャイムをゆっくりと指で押し込んだ。
すると程なくして、家の中から、返事をする姉さんの声が聞こえる。それからすぐに、扉が勢い良く開いた。
「ああ、いらっしゃい」
果たして出てきた姉さんは、そういって、わたしを家の中に招き入れた。
ルームウェア、というよりは、ただの部屋着。それこそ着古した服を着ているだけだろうし、髪の毛も後ろで雑に一つ括り。外に出る用事がなかったのか、化粧も一切していない。それだのに、わたしは姉さんに対して、いつも羨ましく思うことが一つだけあった。
姉さんは、家族であるわたしが見ても、美人なのだ。
それこそ、だらしない格好で、部屋にいる様子一つとっても、その綺麗な居住まいが崩れることがない程。背筋がしゃんと伸びた姿勢も綺麗だし、あまり動かないその表情も、プラスの印象に働いてしまうのだろう。姉さんが結婚するまで、彼氏が途切れていなかったのを、幼いながらに覚えている。それにマナーにも五月蠅くて、色々と言われたものだ。だから、そんな環境下で育った茜ちゃんも、あれほどまでによく出来た子なのだろうか。
わたしはクーラーの効いた部屋の中、出されたコーヒーに手を付ける。二杯目だったが、しかし外を歩いている間に少し汗をかいて、喉も乾いた。それほどまでに日中はとても気温が高い。じりじりと日差しが首や腕を照り付けてくる。だから、本当は茜ちゃんの着替えだけ回収して、すぐに帰ろうと目論んでもいたのだが、もう少しだけ涼んでからでもいいかもしれない。
「茜、だけど」
対面に座った姉さんは、背筋を伸ばして、足を組む。その様子は、いつも通りの落ち着きというか。ピーキーな性格なので、うるさいときは本当にうるさいし、小尾次期割と本当に耳障りといっても差し支えないほどなのだが、今みたいに落ち着いている時は落ち着いていて、話も通じる。いわゆる、黙っていれば美人。というタイプだろう。
喋れば犬だが。チワワみたいな感じだ。
「迷惑かけてないかしら」
その眉尻が少し下がる。やはり不安なのだろうが、それを押し殺したような反応だ。
心配ご無用。わたしは首を軽く横に振った。
「迷惑どころか。勉強もちゃんとやってるし、家の掃除だってやってくれてるよ、ありがたいことに」
「そう。それならいいんだけど……」
そういって口元に手を当てる姉さん。その理由はなんとなくわかる。きっと、本当に聞きたいことは、そんな事じゃないんだろう。
「心配しなくても、元気にしてるよ。茜ちゃんは」
わたしは、そんな不器用な姉さんの様子に溜息を吐いて、助け舟を出す。
姉さんのこういう、心配していたり、不安な気持ちだったりを外に出すのが苦手なところ。
こういう弱みをたまに見せてくるところが、嫌いだった。
これでは姉さんのことを、根っこから嫌いになることなど、出来ないから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます