第15話
「え、えっ、それじゃあ、お二人はまだ付き合っていないんですか!」
その後、ひとまず食卓に着いたわたしたちは、そもそも付き合っていないことを説明する。すると、器用に片手で、お茶碗からご飯を口に運ぼうとしていた茜ちゃんは、驚いた様子で口をあんぐりと開けていた。
だがその反応は、隣でご飯を食べていた麦くんも同様だったらしい。わたしの方を見つめ、大きく口を開けていた。
「いやなんで麦くんも同じ反応?」
というか、まだって何だろう。まるで今後、付き合う予定でもあるかのような言い方をしてくれるけど。
「え、いや、だって……そんな勘違いされてたなんて、ぼく全く知らなくて……」
「…………」
嘘じゃん。
え、あの時確か茜ちゃん、お二人ってお付き合いされてるんですか、みたいなことを聞いてきていたんだけど、どうやら彼の脳には、それよりも、夜更かしの方が気になる文言だったらしい。そこでわたしは納得がいく。あの時、夜更かしは良くないとか、深夜徘徊は危ないとか、そういうことを言っていたのは、何もボケているとか、あるいは照れ隠しとか、そういうのではなく。
本当に聞こえてなかったのか。
いよいよもって、彼が心配になってくるな。
「とっ、とにかく」
麦くんはそこでようやく、わたしと茜ちゃんにかなりの遅れを取りながらも状況を理解したらしい。慌てふためいて、机から身を乗り出す。
「ぼくと赤城さんは、お付き合いしているわけじゃなくて、ただ赤城さんの面倒見がいいから、お呼ばれしただけだから! だからほんと、深夜徘徊はダメだよ!」
「いやどんだけこだわるの」
PTAかよ。
君はそろそろ深夜徘徊から頭のチャンネルを変えてくれ。
事態がややこしくなる。
「え、あっ、そ、そうだったんですね!」
と。そこでようやく、誤解が解けたらしい。茜ちゃんは安堵した表情で、胸を撫で下した。
「わたしてっきり、姫子さんが電話越しで、職場の男の子、連れてくるって聞いて、そういう関係なのかと……い、いわゆる、彼氏……? なのかなーって、思ってました!」
はっ、恥ずかしいですね! なんかね! そういって、改めて顔を手で覆う茜ちゃん。
……おい。
なんだその動作。
かわいいな。
「いやいや、ぼくなんか、赤城さんとは釣り合わないですって! それこそ、赤城さんのことだから、他にお付き合いしてる彼氏さんとか、いらっしゃいますよね!」
「え?」
なにこいつ。
わたしのこと、傷つけるじゃん。
「いや、居な」
「そっ、そうですよね、麦さん! だってわたしにもいっつも優しいし、それに本当に綺麗でかっこいいし、きっと、彼氏さんとか……ね、いると思いますよ!」
「だから居な」
「だよね、茜ちゃん! ……いやあ、いいなあ。ぼくも、赤城さんみたいに素敵な人と、お付き合い出来たらなあ……」
「だから」
「あっ、でも姫子さん、もし家に彼氏さん、連れてこられるときは、ちゃんと教えてくださいね。わたし、今日調べたんですけど、その、お邪魔にならないように、その間は出かけますので……」
「だ」
「てか彼氏さんの写真とか、ないんですか? ぼく、見てみたいです!」
遮るなあ。
話せないよ。
「ちょ、ちょっと、二人とも落ち着いて」
わたしは矢継ぎ早な二人の間へ、強引に割って入った。すると向けられる、期待の眼差し。その目は明らかに、彼氏の写真を期待しているような、そんな視線だった。だが、わたしはその期待には生憎と応えられないのだ。
いや、なんでこれをわざわざ言わないといけないのか。何か悪いことでもしたのだろうか。死ぬほど恥ずかしいんだけど。
「……あの、勘違いしてるみたいだから、言うけど……わたし、そもそも彼氏とかいない、んだけど……」
そのわたしの言葉を最後に、食卓の時が止まったのかと錯覚してしまうような沈黙が、訪れる。
耳が聞こえなくなったのかと思うほどだった。
「……ほんとに」
そう付け加える。
その後、少しして、沈黙を破ったのは、口に頬張っていたサラダチキンを飲み込んだ麦くんだった。彼はわたしの方を、驚きで見開いた目で見つめつつ、ゆっくりとお箸をお皿の上に置く。それから一泊開けて口を開いた。
「……い……やいや、またまたあ、心配しなくても、会社の人たちには秘密にしておきますって」
しかしその声にも先ほどまでの様な、元気たっぷりな感じはない。むしろ、明らかに勢いを失っている。
そしてそれは、茜ちゃんも同じだった。
「……え、じゃああれは何のために……?」
ちょ。
大人をいじめないでよ。
嘘じゃん。
茜ちゃん、そんな人を傷つけるタイプだったっけ。
「あれ? あれって、何? 茜ちゃん」
不思議そうな顔で、麦くんは茜ちゃんの方を見る。
君は君で本当に、なんていうか、察しが悪いね。
普段ならかわいい後輩だと思えたかもしれないけど、今はなんていうのかな。
よっぽど海に沈めてやろうかと考えてるよ。
わたしは、恥ずかしさのあまり、顔が赤くなるのを感じながら、唇に人差し指を添える。茜ちゃんはそれを見て、言いかけていた口を閉じた。
「……いっ、言いません、言いませんから、姫子さん、目が、こ、怖いです」
「えっ、ああっ、ご、ごめんごめん!」
小刻みに首を振る茜ちゃんに、わたしは慌てて表情筋の力を入れて、笑顔を作る。
「に、にこー」
それからしばらくして。
お互いの勘違い、それから取っ散らかった話を、一度整理した。
そして二人とも、わたしに今彼氏はいないこと――正確には、居たことがない。というのが正しいけれど、それは言わないでもいいことだ。というか、言ったら死にたくなる――と、引き出しの中に、あれを備えていることを、食後に説明した。
「あ、なるほど、だから食事が終わってから説明するって言ってたんですね」
そういって手を叩く麦くん。
「え、あ、本当に彼氏は、いないんですね……」
そういって何故か、少し嬉しそうな顔を浮かべる茜ちゃん。
……いや待って、何その同類を見つけたような笑顔。
言っておくけど、高校生で彼氏がいないのと、25を過ぎて、彼氏がいないのとじゃ、緊迫感が違うからね。
そんな銘々の反応を聞いて、それからわたしは食後のお皿をひとまとめにして流しに突っ込み、水を上から流す。
「……麦くん」
「はいっ。あ、洗いものなら、勿論ぼくがやるッスよ」
「……いや、そうじゃなくて、わたしちょっとホームセンターで、ロープ買ってきていい?」
「ダメですけど?!」
ちなみに茜ちゃんは、わたしに残酷なセリフを吐いてから、ご機嫌な様子でお手洗いに席を外している。
わたしは流しの中で、重ねられたお皿の中に、水が溜まっていくのをただただ見つめながら、煙草に火をつけた。
「……いやあ、もう、この年で彼氏もいないとね……来世に期待しよっかなって」
「厭世的過ぎませんかね」
水を止め、流しにもたれかかる。それから換気扇のスイッチを、後ろ手に付けた。
麦くんは、そんなわたしに苦笑いを浮かべながら、近づいてくる。
「あ、赤城さん。洗い物の前に、ぼくも煙草吸っていいスか」
「ん、いいよ」
わたしがそういうと、彼はポケットから煙草を出すと、咥えた。しかし如何せん、換気扇の元はお世辞にも広いとは言えない。わたしは仕方なく、煙草の火種を落とした。あまり貧乏性なことはしたくなかったのだが、それにしても一口しか吸っていない煙草を、そのまま捨てるなんて、いわゆる社長吸いを出来るほど、豪奢な性格でもない。
そうして彼に場所を譲る。
「はい、お先どうぞ」
「え、あ、すみません、一人ずつだったんすね」
「ああ、気にしないでいいよ。ただ、冷蔵庫とか置いてるせいで、狭いからね」
「いや、まあ確かに換気扇の下は狭いかもしれないですけど、部屋全体はかなり広いと思いますよ」
そういって、わたしの前を半身で通って、彼はキッチンの奥の方へ身を寄せる。そしてその間に、わたしはやっておきたいことがあった。
何のことはない、ただの洗い物なのだが。
再び水を出し、スポンジに洗剤を付け、食べ終わったお皿に手を付ける。しかし、その様子を見ていた麦くんは、煙草を持ったまま、首をこちらに向けてきた。
「あっ、洗い物まで! いいッス、置いといてくれたら、ぼくやるッスから!」
「いや、何言ってんの、ただでさえ奢ってもらったんだから、これくらいはやるって」
「い、いやあ、でも……なんかすみません」
「それより、洗い物終わるまでに、煙草吸い終わってよ? わたしも早く吸いたいんだから」
あえて意地悪なことを言う。だが勿論、本心ではない。むしろゆっくり吸ってもらって構わないのだが、しかしこうでも言わないと、麦くんの性格的に、洗い物も自分がやると言って聞かない可能性がある。それを防ぐため、敢えてわたしはそう言ったのだ。
そして予想通り。彼は、渋々といったような表情で、ポケットからライターを取り出す。……取り出……取り……。
「……赤城さん」
「はい」
「……火貸してください」
なんだこいつ。
「……人の親切心をよくわからない感じにしやがって」
「うわ怖っ」
「ふふ、冗談」
わたしは真顔で彼を見つめる。
「おー絶対冗談じゃないやつ」
そういってわたしからゆっくりと後ずさりを始める麦くん。
ともかく。
「えっと、ライターね。良いよ、そこ置いてるでしょ。使って」
「あ、ありがとうございます。オイルライターでしたよね、確か」
「うん、わたしはライターとか無くさないからね。あれ一個を長く使ってるの」
「刺々しっ」
わたしは洗い物を進める手を止めず、首を伸ばして自分のタバコが置いてある場所を見る。
「確かわたしの箱の上に……置いてない?」
「……無いッス」
そう答えるのと同時に、わたし自身もそこに置いていないことを確認する。
となると。
わたしは軽く右の太もも辺りを揺する。すると中で、重いものが揺れるのを感じた。どうやらパンツの、右ポケットに入れてしまったらしい。
「あ、あった」
「え、どこすか」
再び洗い物に視線を戻したわたしに、麦くんはまだわたしのタバコの箱辺りを見ながら尋ねる。
「いや、ここ」
なのでわたしは、今度は視線を自分の太もも辺りに向けた。
「ほら、取って」
そういって、足を麦くんの方へ差し出す。ちなみに、今は手が泡まみれで、洗い物はようやく半分を過ぎたところ。自分で取るのは面倒なのだ。だから、麦くんに取ってもらおうと思っての発言だったのだが。何故か彼は、そんなわたしの言葉に対して、手を差し出そうとしない。
「……ほら」
「い、いやあ、で、でも、そんな……いいんですか?」
見ると、少し恥ずかしそうに顔を背けていた。
「……恥ずかしがってんの?」
「きっ、気を遣ってるって言ってくださいよ」
「いや、気を遣ってるんだったら、早く取って早く吸って早く変わってほしいかなって」
ほら早く。そういって、わたしは彼の方に右ポケットを向ける。すると彼は、顔を背けたまま、わたしの腰へ手を伸ばしてきた。その手がゆっくりとパンツに触れ、指が、まるでカタツムリの進むような速さでゆっくりと、わたしのポケットの中へ入ってくる。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
「あんっ」
「ねえわざとやってるでしょ?!」
大声を上げる麦くん。バレたか。
そりゃあこんなこともしたくなる。いわゆる仕返しだ。なにせ、わたしはさっきまでとても恥ずかしい目に遭わされ、あまつさえ彼氏がいないと公言させられたのだ。これくらいの仕返し、してもバチは当たるまい。
「いやいや、ゆっくりゆっくり入れてくるもんだから、くすぐったくて。もっと一気に入れてほしいんだけど。……指を」
「いや、その倒置法やめてもらえません?」
「ほーら、早くしないと、茜ちゃん帰ってきちゃうよ」
「だーもう!」
そんな風に雄叫びこそ上げたものの、しかし彼の手は、相変わらず、わたしのポケットの中にあるライターに手が届かない。
ふふ。
仕返しじゃい。
恥ずかしがれ、恥ずかしがれ。
「と、取りにくいから、後ろに回りますけど、怒らないでくださいね!」
と。
そこで麦くんも、少し躍起になったのだろう。おもむろに手を入れたまま、わたしの後ろへ回ると、先ほどまで入れていた左手を引き抜き、今度は右手をポケットの中に入れてくる。しかも今度は力強く。わたしは、ポケットが破れそうなのを少し心配したが、今度はすぐにライターへ手が届いたらしい。それをするすると、抜き取っていく。
「ほらもうちょっともうちょっと」
「わ、分かってますって! 変に指先でつまんだから、落としそうで、ってか女の人のズボンのポケット、小さすぎません?!」
「パンツね」
「どっちでもいいですけど!」
そんな声を最後に、彼はようやくわたしのポケットから、ライターを抜き取り終えたらしい。そのまますぐに身体を翻して、換気扇の元へ戻った。それと同じくして、わたしも洗い物が終わった。手を最後に洗い、水道を止め、タオルで手を拭き。
一体いつからそこにいたのか分からない茜ちゃんと、そこで目が合った。
「……」
「……」
「……」
なんだろう、今日はこういう日なのかな。
わたしが恥ずかしい思いばっかりする日?
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