第10話

 夏休み。

 その懐かしい響きに、わたしは思わず膝から崩れ落ちる。

 その様子に、茜ちゃんはすぐ、心配そうな表情で、わたしに駆け寄る。

 優しい子だ。

「だ、大丈夫ですか、姫子さん?!」

「う、うん、大丈夫、ただちょっと、精神的にダメージを食らっただけだから」

「何故?!」

 君も、わたしくらいの年になったら分かるようになるからね。

 マジで。

 わたしは、膝に手をついて立ち上がる。

「血反吐、吐きそう」

「だから何故?!」

「いや、夏休みって単語にはね、わたしみたいな大人を、殺す威力があるんだよ……」

「え、やだこわい」

 と。

 そんなおふざけをしているような時間でもない。

 ともかく、茜ちゃんを学校に送る必要性は、これでなくなった。ならば、わたしは改めて、自分の出社に向けて、いつもの身支度をしなければならない。早速取り掛かろう。

 それからわたしは、脱衣所で服を脱いで、朝のシャワーを浴びた。といっても、髪の毛は濡らさない。寝ぐせは多少なりともついているが、それを直す必要がない。元より、わたしは職場ではもっぱら、ポニーテールにしているので、その必要がなかった。

 勿論、後輩の数少ない女性社員は、みんなかわいい髪形にしたり、それこそショートヘアーなら、ヘアワックスやアイロンなども必要になるのだろうが、わたしはそういったことには疎い。こんなんだから、彼氏の一人も出来ないのだろうか。なんて考えて、朝からナーバスな気持ちにもなるが。

 そして、その後はいつも通り、さっぱりした身体でスーツに袖を通し、洗顔は別途、洗面所で行って、化粧水と乳液を塗って、化粧をして、洋服にコロコロをかけて、お気に入りの香水を、手首と首筋に振って。

 その様子を、面白いものでも見る様に、ベッドに腰かけて見つめていた茜ちゃんは、わたしがそのまま荷物を持って、家から出ようとしたところで、声をかける。

「……あれ、朝ごはん、食べて行かないんですか?」

「え、ああ、うん。朝ごはんはいつも、電車を待つ間か、会社についてから食べるかな」

 よく見ているな、そう感心しながら、わたしは出社前のタバコを吸いつつ、答える。その煙草の灰を、灰皿に落としながら、その質問の真意に、少し経ってから気付いた。いや、茜ちゃん本人にとっては、そういう意図はなかったのかもしれないが、それでもわたしはハッとさせられる。

 夏休み。ということは当然、彼女は今日一日、わたしの部屋で過ごすか、あるいは出かけるか、そのどちらかだろう。勿論、その事については、例えば家の鍵の場所や、火の元に気を付けること――そもそもフライパンすらないこの家に置いて、火の元もなにもないが――それから、冷房はつけっぱなしでいいことは、伝えてある。だが、そればかりに気を取られて、本当に基本的なことを忘れていた。

 茜ちゃんの、朝ご飯と昼ご飯である。

 うっかりしていた。では済まされないのだけれど、それでも本当にうっかりしていた。ついつい、一人暮らしの感覚で居てしまっていた。勿論、茜ちゃんのことだ。わたしがこのまま、何も言わなければ、きっとそのままわたしを見送って、それこそお財布の中にお金があるなら、勝手にコンビニで食事を済ませるだろう。だが、それではいけない。

 見たところ、バイトはしていない、あるいは出来ないからしていないのかもしれないが、とにかく収入源はない茜ちゃんのことだ。きっと、毎日の朝ご飯と昼ご飯を買っていれば、すぐに財布は軽くなってしまうだろう。

 家を出る前に、気付けて良かった。わたしは安堵の溜息をついて、カバンの中に手を突っ込んだ。それから財布を取り出すと、取り敢えず多めに、5000円を取り出す。

 それを持って、彼女の元へ近寄ると、そのお金を彼女の手に握らせた。

「はい、朝ご飯とお昼ご飯代、渡しておくね。……明日からは、頑張って料理作るから、今日は適当に食べてて」

 わたしはそう言って、すぐに踵を返して玄関へ向かう。しかし彼女は、そんなわたしを後から追いかけてきて、予想通り、その握らせたお金を返してこようとする。

「い、いや、頂けません、こんな大金! わたしなら、大丈夫です! ちゃんと、そういうのは自分のお金で、やりくりしますから!」

 大金。そんな額を渡したつもりはないし、それはいささか大袈裟だと思ったが、しかしまあ、高校生の茜ちゃんにとっては、それほど重い額なのだろう。アルバイトもしていなくて、きっとお小遣い制の彼女にとっては。

 今度は握らされそうになるお金に、ふとそんなことを思う。

 ノスタルジックな気持ちだ。それこそわたしも、高校生くらいの時は、そりゃあ今みたいに生活費から家賃から、色々と出費がなかったので、稼いだお金は全て好きに使えた。が、その分、収入も高々知れている。あの頃のわたしも、茜ちゃんの立場に立ってみれば、同じことを思うのだろうか。

 しかし茜ちゃんだって、それこそ遊び盛り。まさかお金が全く欲しくないわけではないだろう。今や、何をするにもお金が要る時代だ。少なくとも、自分のこれから先、一ヶ月のご飯などに、少ない所持金を割く余裕はないはず。

 わたしは少し考えて、言葉を付け加えた。

「そしたら、さ。これはお給料だと思って、受け取ってよ」

「お給料……?」

 茜ちゃんは不思議そうに首を傾げる。

「でもわたし、この家に来てから、何も姫子さんの役に立つこと、出来てませんけど……。むしろ、何でもしてもらうばっかりで。……ほんと迷惑ばっかりかけて」

「いや、迷惑だとか思ってないから、そういうこと言わないの!」

 目を潤ませる茜ちゃんの手をわたしは握る。

 握らせたお金ごと。

「ほら、これから先、茜ちゃんにも色々、家のこととか任せることも増えるだろうしさ。それこそ、茜ちゃんが出来るなら、料理の手伝いとか、そういう大人になるまでに、覚えておかないと不便なことも、覚えないとだめでしょ?」

 その大人になるまでに出来ないと不便なこと。それを出来ていなくて、わたしは絶賛困っているのだが。

 なんだろう、無性に劣等感に駆られる。近くに川でもあったら身を投げてしまいたくなるなあ。

 ともかく。

「そういうことを手伝ってもらう時、タダって訳にはいかないでしょ」

「で、でもわたし、家に居させてもらってるから……」

 わたしはダメ押しをする。

「それだけじゃダメ。お金が絡むことで、責任のある仕事になるの。この理屈、分かる?」

 それが大人の世界なんだよ。そういうと、彼女の顔が、少し色めきだったのが伝わってくる。

 なんというか、半ば無理矢理に納得させたようで、とても申し訳ない気持ちに駆られるが、しかし、間違ったことは何も言っていない。

 お金が発生しない仕事ほど、無責任になってしまうものはない。

 何かを得ているのだから、それに見合うだけの何かを対価として支払う。この行動こそ、人間の使命感を掻き立てるという。

 それにダメ押しで、大人とはこういうものと示すことで、間接的に、高校生くらいなら誰しもが抱いている、大人になりたい。そんな気持ちを掻き立てるような文言を含めて。

 果たして、彼女はそのお金を綺麗に折りたたむと、おっかなびっくりといった様子でポケットにしまい込んだ。

「わかりました。そしたら、姫子さんが帰ってくるまで、頑張って色々、やっておきますね!」

「うん、よろしくね。期待してるよ」

 そういって、わたしは茜ちゃんに部屋のことを任せた。

 といっても、頼んだことは大したことではない。間違っても、本来の目的を見失ってはいけないのだ。わたしはなにも、召使いを雇ったわけではない。家のことをしてもらうのは、あくまで茜ちゃんがお金を受け取りやすいように。ただそれだけの理由だ。だから、掃除や家事などは、本当に最低限のことしか頼んでいないし、わたしがそもそも、普段から部屋の中は綺麗にするよう、それなりに心がけている。その上から、いつもわたしがしているように、乾拭きなり、アルコールを含ませた布で拭きとったり、その程度。

 忘れないようにしないといけない。彼女は片腕しかないのだ。普通の人が当たり前にできること、それこそ昨晩の髪の毛を乾かすことだって、彼女にとってはあれこれ試行錯誤して、ようやくそれなりに出来る、それほど難易度の高いものなのだということを。

 とはいえ、流石に一人でコンビニくらいはいけるだろう。一応、わたしがよく行くおすすめのコンビニを紹介しておいたし、あそこの店員さんたちは、いつ行っても、どの店員さんがいても、丁寧に接客してくれる。だから心配はないだろう。

 腕がない。そのことを配慮するのと、同情するのと。その二つは紙一重だが、意味合いはまるで異なってくる。そのことを、わたしは再度、自らに言い聞かせた。

 あの子は大変ではあっても、可哀そうではない。

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