第11話
わたしの務める会社には、受付などがある一階を除いた各階に、喫煙所が設けられており、たいていの人はそこを利用している。たまに、室内の喫煙所を嫌い、屋上にまでわざわざ足を運ぶ人もいるらしいが、わたしはあまり利用したことはない。タバコが吸えたら、どこでもいいのだ。むしろ、こんなに太陽が燦々と照り付けている中、自ら進んで外に出ようとは思えない。日焼けをしたくないのだ。
昼休み。
一般社員と違い、わたしや黒澤くん、南乃くんの様な、いわゆる役職は、あまり定時に食事の休憩を取れることは少ない。それこそ、この三人が同じ時間に休憩を取れることなど、本当に滅多にないと言っても過言ではない。その理由は色々とあるが、やはり一番の理由としては、取引先からの電話を取れる人間が、最低でも一人は部署に残っていないといけない。そんな黒澤くんの発案が、元となっていた。なので普段の休憩は、まず黒澤くんと何人かの社員が、取れるうちに十一時から十二時までの間に、早めの休憩を取る。それから、南乃くんと大半の社員が、十二時から十三時の間に、いつもの時間の休憩。それから最後に、わたしとそこまでで休憩を取れていない社員たちが、十三時から十四時の間に、遅めの休憩。そんな風に、休憩を回していた。
といっても、普段から余程の立て込んだ用事でもない限り、わたし以外の人間が、遅休憩に回される事は滅多にない。大抵の場合、主任の彼ら二人で、休憩を回し終えてしまうのだ。だから、わたしはいつも、遅めの食事を一人で取って、それから一人で煙草を吸って、部署に戻るという流れを繰り返していた。
とはいえ、何もこれが寂しいとか、そんなことを言うつもりはない。悪しき風習といえばそうかもしれないが、わたしの部署は、基本的にタバコ休憩は自由に取れるようになっている。というかわたしがそう決めているので、仕事に遅延を来さない限りにおいて、喫煙者は自由に喫煙所へ足を運んでくる。だから、それなりにほかの社員たちと、煙草を一緒に吸う機会はあった。
昨今、喫煙者の肩身がどんどん狭くなってきているこのご時世に置いて、いつかその内、撤廃しなければならない制度ではあるのだが。
だからこの時も、わたしが喫煙所で電話をしているところを麦くんにうっかり見られてしまうなんてのも、少し考えればわかることだった。
「うん、そうそう、その引き出しにお箸とか入ってるから、それ適当に使って、お皿は、そう、使ったら洗うのはわたしが家帰ってからするから、水だけ漬けといて欲しいかな。うん、よろしく。うん、うん。ありがとね、じゃあまた仕事終わったらかけるから」
そういってスマホを耳から離し、わたしは何の気なしに眺めていた外の景色に背を向ける。その喫煙所の扉の前で、口を大きく開けて、こちらを見つめている麦くんに、だからその時気付いた。
一体いつから、そこにいたのだろう。
「……お疲れさま」
電話の相手は、勿論茜ちゃん。それに話していた内容も、別に聞かれて困るものではない。ただ、わたしはどうして彼、麦くんがそんなに口を開けて、驚いた顔でこちらを凝視しているのか、その理由はすぐにわかる。
自覚があるから、だから電話を聴かせたくなかったのだ。
「……おつ、かれさまです」
麦くんはそういって、取り敢えず喫煙所の中に入ってくる。だがその目は明らかに、動揺していた。
いや、動揺しているといえば、わたしもか。
「……いつから、聴いてたの」
わたしは思わず、尋ねる。すると彼は、咥えていたタバコに火をつけ、その煙を細く吐き出した。
「……えっと、もしもし、姫子だけど、って言ってたところから……」
彼はそういって、わたしと目を合わせようとしない。
わたしも、出来ることなら彼とは目を合わせず、何も聞かれなかったことにして、その場を去ってしまいたい。そんな気持ちで胸がいっぱいだった。
が、そうもいっていられない。
わたしはタバコを手に持ちながら、六畳ほどの広さの喫煙所を大股で歩く。そうして、椅子に小さく座って、完全に目を反らしている麦くんの元へ、歩み寄ると、隣へ座った。
「……」
「……」
「……あの、俺、何も聞いてないです」
「嘘つけ」
電話の内容。それを初めの方から全て聞いていて。そして、振り返って目が合った時の、あの顔。
明らかに全部聞いていただろ。
茜ちゃんが、気を利かして洗濯物を回そうとしてくれていたから、わたしが、ワイヤーの入っているブラと、入っていないブラとを、デザインを口頭で説明して、型崩れしないよう彼女に仕分けて貰っている、そのやり取りも。
ストッキングがズレてくるのが嫌だからという、至極真面目でまともな理由でガーターベルトをつけていて、それを洗う時の注意点とかも、事細かに説明しているところも。
いや、それだけならいい。ではなく、その後、茜ちゃんが部屋を掃除しているとき、当然悪気無く見つけてしまった、いわゆるそういうものを、わたしが名前をうっかり出してしまったり、茜ちゃんにそういう知識がないせいで、必死に電話越しに誤魔化していたり。
そのやり取りも、聴いていたんだよね。多分。
そう詰め寄るが、しかし麦くんは、それでもわたしの目を見ようとせず、首を横に振った。
「い、いえ、大丈夫ッス。俺、まだ長生きしたいので、誰にも、ハイ、言わないッス」
顔を青くしたり、赤くしたりしながら、恥ずかしいのか何なのかわからない様子で、麦くんはそういって少しずつ、わたしから離れる様にベンチを横に移動する。そうして、近くにあった灰皿に吸いかけのタバコを静かに捨てると、そのままゆっくりと立ち上がって、部屋から出て行こうとする。
「あ、あー、俺、まだ仕事結構残ってるんで、お先に失礼しイタタタタ」
「あれ、麦くん、まだタバコ吸ってていいよ。ほら、残ろうよ」
わたしは顔が真っ赤になるのを、必死で気づかない振りをして、必死に麦くんの肩を後ろから掴む。というより握りしめる。
逃がして堪るか。
うちの統括、家にゴムとかおもちゃとか置いてるらしいぜ。そんな風に言いふらすような人ではないと、分かってはいるが、それでも一度聞かれてしまった以上、ちゃんと話をしておかないといけない。わたしの沽券にかかわる。
こうなりゃいっそ、死なば諸共……。
「い、いや、わかりました、わかりました、逃げませんから、その手を放してほしいッス。俺の肩、さっきから有り得ないくらい痛いッス」
「逃げたら……わかってるよね」
「わかってるッス、大丈夫ッス」
……。
わたしはそこでようやく手の力を抜く。すると彼は、しばらく痛そうに肩を擦っていたが、やがて先ほどのように、わたしが腰を下ろした隣へ、やや間隔をいつもより開けて腰を下ろす。
おい。
「……なんだろう、遠くない?」
「え、いえ、そんなことな近く行くッス。だから、そんな風にボールペンを持つのはやめて欲しいッス。え、三色ボールペンのクリップをどうするつもりですか、それ」
ともあれ。
わたしは先にスマホで、黒澤くんに、麦くんとしばらく仕事の話をするから、時間を貰うとメッセージを送り、了承が得られたのを確認してから、改めて煙草に火をつける。
あまり職権を乱用するのは良くないと、自分でも分かってはいるのだが、流石にそうも言っていられないだろう。
「えー、では改めて」
わたしは自分の顔が赤くなっているのを、もう認めざるを得ないくらい、感じながら、隣に座る彼を見つめた。彼もまた、蛇に睨まれた蛙よろしく、わたしの方から目が離せないらしい。当然だ。もしも少しでも逃げようとしたり、そういう素振りを見せたら、わたしは彼の命を獲りかねない。
「……順を追って説明します」
「は、はい」
「まず、麦くんが聞いていた内容は、まあおおむねその通り、ではあるんだけど、まあ、そうね。うん、わたしも大人、だからさ。家に、常備は、してるんだね」
「……はい」
「それにまあ、その、ぶるぶる震えるやつもまあ、ね」
「ん、ん? んー、ん。……ん? あ、はい」
分かったのか分からないのか、曖昧な返答を返された。
ので、わたしは思わず口を滑らせる。
「だからピンクロー」
「待って?!」
麦くんはそこで咄嗟にわたしの口を、その大きな手で塞いでくる。それに一瞬、驚きはしたものの、すぐに自分が同様の末、とんでもないことをこの部屋にも聞こえそうなくらいの声で言っていたことに気付く。危うく、本当に社会的に死んでしまうところだった。
危ない。
「ちょ、わかりました、わかりましたから、そんな具体的な商品名を出さなくても大丈夫ッスから!」
顔を真っ赤にして、わたしの肩と口を抑え続けながら、麦くんは必死にそう言った。やがて、その手が口から離れる頃には、わたしも少しだけ、平静を取り戻していることに気付く。というか、さっきまでが動揺しすぎて、完全に頭おかしかった。
バグってんのかな。
とにかく。
「……とにかく、まあわたしも、そりゃあ人間だから、そういうのは、まあ、あるんです」
「……ウッス」
すごく気まずそうな麦くん。だが、それはわたしも同じだ。わたしの場合、茜ちゃんにそんなものを見つけられたのだから。彼女にその知識が、本当に乏しかったのが幸いだったが。
「で、それを茜ちゃんに見つけられて、今に至ってるわけなんだけど」
「はい。……茜ちゃん? え、ああ、やっぱり誰かに見つけられたんスね。妹さん、ですか?」
限界だったのだろう。麦くんは、とうとう強引に話題をすり替える。わたしは、そんな彼の様子から、取り敢えず無暗矢鱈と他言する危険性は少ないと思い、それから顔がいよいよ、赤熱した鉄のように赤くなっている彼に、流石に同情を禁じえず、その話題の転換に乗ってあげることにした。
「うん、妹……みたいなものかな。姪っ子なんだけど、年が近いから」
「へえ、そうなんスね……」
「うん……」
沈黙。再び、である。
やがて麦くんは、改めて蒼白した顔色で、わたしを見つめる。
「え、姪っ子さんに、見つかったって、ことッスか」
「……うん」
「……ヤバいじゃないスか」
ヤバいに決まってる。
いや。
ヤバいなんてもんじゃないし、それを部下である君にもバレてるのもヤバいんだよ。
「え、あ、それで、あんなに電話越しで、必死に引き出しの中に置いておくように言ってたんスね」
手を叩いて、納得したような顔の麦くん。
「……そんなところまで聞いてたんだね」
「あ、あっ、いえ」
手遅れだって。
「とにかく、今に至ってるわけなんだけど」
わたしは話を戻す。
ダメだ。動揺してしまっているせいで、どうしても話があちこちに飛んでしまう。
「わたしはこれから、君にこのことを確実に黙っていて貰わないといけなくて、そのために最善を尽くさないといけないんだよね」
「……はい」
生唾を飲み込む麦くん。それはなにも、それこそエッチな本の様な展開を期待して、ではないのは、顔を見ればわかる。明らかに、恐怖に慄いている顔は、とてもそんな色のある期待をしているようには見えない。むしろ、命の危険すら感じていそうな。
わたしは言葉を続ける。次第に、その顔が険しくなっていくのを自分でも感じる。
「とりあえず君の口の中にホッチキスでも入れてみようかと思うんだけど」
「それは危ないッス。身体的にも、著作権的にも」
ではなく。
「まあさっきのは冗談だとしても、わたしは黙ってもらうために、何が出来るのか、考えたんだけど」
「……はい」
わたしはゆっくりとベンチを立ち上がると、彼の前に立った。幸いと言っていいのか分からないが、この喫煙所に、監視カメラは存在しない。だから、多少のことなら出来ないでもないのだ。
足を開いて座っている麦くん。その足と足の間に見えるベンチに、わたしはスカートを少し上にたくし上げて、膝をついた。男性の防衛反応として、麦くんは大げさに腰を引いたが、わたしはそのまま後ろの壁に両手をつく。
丁度、その両手で麦くんの頭を両側から挟むような形で。
いわゆる壁ドンのような姿勢である。
「……あ、赤城、さん?」
顔を青くしたり、赤くしたり、忙しい子だ。わたしは妙に冷静な頭で、パニックになっている麦くんを見下ろす。すると彼もまた、わたしを上目使いで見つめてきた。
二人の視線が交錯する。
彼が息を呑む音が聞こえる。
わたしはそのまま、彼にゆっくりと顔を近づけ。
「今日の飲み代、好きなだけご馳走するから、許してくれないかな」
沈黙。
やがて、麦くんはゆっくりと首を縦に振る。わたしはそれを確認して、目を細める。
「いい子だね、麦くんは」
「……まだ死にたくないので」
「あれれれ」
わたしは思わず彼の肩に手を置く。そして力を入れてしまった。
「あーもうこれですよこれ痛いんですってイタタタ!! 折れるって!」
と。
そうして、本日の仕事終わり、わたしは麦くんを買収することに成功した。そして話も一段落。腕時計を確認すると、どうやら二人とも休憩を超過してしまっている。まあ、わたしが麦くんをこうして拘束している分には、周りの人は特に不審に思うことはないだろう。むしろ、麦くんがわたしに説教されたのかと、変に勘繰られないか、それを心配してしまうほどだ。
わたしは、握りしめた肩を痛そうに擦りながら、わたしの分の灰皿も片づけてくれる彼を眺めつつ、喫煙所に持ってきた飲み物などを冷蔵庫にしまう。それから扉を開けて、彼が出るのを待っていた。
「ほら、早く戻らないと、黒澤くんに怒られるよ」
「勘弁してくださいよぉ、赤城さん」
そういって、扉を潜り抜けようとする麦くん。わたしはそこで、伝え忘れていたことを思い出して、手を引っ張る。
「きゃっ!!」
「いや女子」
だって、赤城さん、今度は俺の手を握りつぶすんじゃないかって心配になって。なんて、よく聞けば失礼かもしれないことを麦くんは言っていたが、ともかく。
わたしは、伝え忘れていたこと――今は茜ちゃんがいるから、飲むならわたしの家で。それだけ伝えておいた。
「え、赤城さんの家スか? ぼくは嬉しいですけど、行っていいんですか?」
わたしは首を縦に振る。
「うん、むしろ助かるかな。茜ちゃん一人ってのも、不安だし」
「ああ、また他にも色々見つかるかもしれないですもんね何でもないですごめんなさい」
「ん、良かった良かった。君は賢いね」
わたしは手にしていた、名札の安全ピンをしまうと、胸に付けなおした。
「まあ何せ不安なの。だから、わたしの家で飲もうね」
「うす、分かったッス」
元気よく返事を返してくれる麦くん。わたしはそこで、もう一点、聴いておきたいことを思い出して、部署に戻るように歩き出した麦くんの耳元へ、追い抜き際に唇を寄せる。
「さっき、壁ドンしたとき、何期待してたの?」
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