第9話
翌日。
目が覚めたわたしは、時計を見て驚く。
といっても、何も遅刻してしまったわけではない。むしろその逆。あまりにも早起きをしてしまった自分に驚いてしまった。なにせこのわたしのことだ。旅先においても、枕が変わったから眠れない、どころか、まさかの寝坊というとんでもない失態を侵し、その日の予定の、昼までの分が頓挫するという、とんでもないエピソードもある。まあその時は、わたし一人での旅だったので、特に問題はなかったけれど。
そのわたしが、早起き。
枕が変わる、それ以上に何か変わったことでも起きていなければ、これほど早い時間に目が覚めることはあり得ない。そう思って辺りを見渡して。
隣で眠っている茜ちゃんを見て、ようやく合点がいった。そうだ、思い出した。わたしは昨日、家出少女である茜ちゃんを、部屋に招き入れ、一か月間、様子を見ると決めたのだ。
今日はその二日目。
とはいっても、わたしは当然、朝から仕事がある。今日は水曜日、丁度一週間の真ん中だから、休日まではまだまだ、今日を含めて、最低でも三日は出勤しなければならない。いや、別に仕事が嫌いなわけではない。ただ。
ベッドの上で身体を起こしたわたしは、こちらに身体を向けて、すやすやと眠っている茜ちゃんの頭に手をやる。その綺麗な髪の毛を撫でながら、思うことがあった。
これからの生活のこと。茜ちゃん自身のこと。腕のこと。学校のこと。それから、家庭のこと。色々と尋ねないといけないことや、解決しないといけないことが山積みで、そのどれも、後回しにしていい事柄など、一つもない。わたしはこれから一か月間、茜ちゃんの保護者代理という立場になる。それを自分で選んだからには、それなりにやらないといけないことも多い。差し当たっては、茜ちゃんがこれから先、どうやって通勤――ではないか、茜ちゃんは学生だから、通学するか。その足を考えなければならないだろう。
電車か、もしくは車で送るか。
まず電車について考える。昨日、茜ちゃんの制服に書いてあった、学校の名前。それを調べてみると、どうやら私の家と、茜ちゃんの家。どちらも主要とまではいかないにしても、快速列車の停止駅であり、その学校も、同じ路線内にある。だから、通学する上で、それほど不便なわけではないだろう。ただ、義手がない状態で、公共の場に出る。そのことに、恐らく茜ちゃんは慣れていないんじゃないだろうか。なにせ茜ちゃんの親、つまりわたしの姉さんが、毎年毎年、成長に合わせて新調し続けていた、義手。きっと、通学の時も、それこそ学校でも、着けているのだろう。それをつけない状態での、学校生活も心配ではある。だがそれ以上に、公共の場で、周囲の目に晒される、その心配があった。
きっと、学校では理解してくれる人も多いに違いない。クラスメイトなどは、茜ちゃんの事情をわかっているだろうし、先生も配慮はしているだろう。だが、それはあくまで学校だから。毎日、同じ顔触れがいて、勉学に励む場だから。しかしその学校を一歩出た先はどうか。きっと、好奇の目に晒されることもあるだろう。その苦労は、分からないなりに想像できる。きっと、あまり心地の良いものではない。不快とも言える。
ならば、車。そう考えたが、茜ちゃんを学校に送って、それから会社。そう考えると、今度は時間の問題が出てくる。つまり間に合わないのだ。いや、茜ちゃんを始業時間の一時間前に学校に到着させても構わないのなら、わたしはそれもアリだと思う。なにせ、わたしの会社は、始業が9時。茜ちゃんの学校も、始業が9時。そして、茜ちゃんの学校からわたしの職場までは、方向も真反対で、車でもかなりの時間がかかる。
不可能ではないが、それでは茜ちゃんにとって負担ではないだろうか。必然、起きる時間も、朝の支度をする時間も、前倒し前倒しで、早くなっていくのだから。
そんなことを考えながら、わたしは茜ちゃんの髪の毛を撫で続ける。すると、それに気づいたのだろうか。茜ちゃんは、眠たそうな声を上げながら身を捩り、そして目を開けてわたしの方を見つめた。
目がしょぼしょぼしている。
「あっ、ごめんね、起こしちゃった?」
「……じょぶ……す」
え?
あの?
apple社の、前CEOの?
思わずそう訊きそうになったが、茜ちゃんは、大丈夫です、と言っていたらしい。
昨日の疲れが、まだ残っているのだろうか。確かに昨日も、お風呂上りにうとうとしていたし、それに寝つきも早かった。かなり疲れている風に見える。だが、それでも茜ちゃんは、わたしが起きていることを見て、自分も。という具合に腕一本で、器用に起き上がろうとする。なのでわたしは、それを慌てて止めた。
「いやいや、いいよ、まだ寝てていいから」
「……でも……もう、朝……」
そうだけど。
早すぎるんだって。
「大丈夫、まだ朝の5時だから」
「…………はやい」
「うん、早い。だから寝てていいの」
そういって、茜ちゃんの身体をゆっくりと、布団に寝かしつける。
時刻を聴いて安心したのだろうか。茜ちゃんも、わたしにされるがまま、布団へ横になった。それから、再びこちらへ向き直る。その身体にタオルケットをかけて、わたしはベッドの上で方向を変え、降りるために足を下したところで、背中に感覚を覚える。
振り返ると、茜ちゃんが何故か、わたしの服の背中を引っ張っていた。
「え、なに、どうしたの?」
わたしは気になって尋ねる。すると茜ちゃんは、まだ眠たそうな顔で、その手に力を込めた。
「……いっしょが、いい」
「え、なになに、どういうこと?」
「ぅー……いっしょが、いい……」
だから何が。
わたしは可愛さに当てられ、思わず叫びそうになるのを抑えるため、口に手を当てながら、平静を装った。
「なに、一緒に寝たいの?」
「……んぅ」
肯定するように、茜ちゃんは首を縦に振った。
いやまあ、特に起きていてすることもないし、どの道、お手洗いと一服だけ行ってから、朝の支度を始める6時半には、起きるつもりだったけど。なんだこのかわいい生き物。返事するときも、眠いのだろう。目なんか開いてないし、なんかすごい甘えんぼさんになってるし。
わたしは部屋と洗面所を往復したい気持ちに駆られながら、茜ちゃんの手をゆっくりと解くと、ベッドに置く。
「大丈夫、お手洗いとたばこ吸って、すぐ戻るからね。どこにもいかないから、大丈夫だよ?」
「……わかった……」
じゃあ待っててね。そういって、わたしは茜ちゃんの頭を撫でてから、改めてタオルを身体にかける。そうして、ベッドから降りた。
それから約束通り、まずはお手洗い。それから帰ってきて、手を洗って、煙草に火をつけて。
ベッドの方へ視線をやると、茜ちゃんはその時にはすでに、再び寝息を立てていた。しかし無理もない。本当に、昨日は茜ちゃんにとって、人生でも思い出に残るほど、忙しく、大変な1日になったことだろう。それこそ、とても今日がまだ2日目なんて、自覚できていないほど。
わたしは、そんな茜ちゃんの様子を見ながら、煙草を数回口に運び、まだ長さがある煙草を、灰皿に押し付ける。その火種をしっかりと消し、換気扇のスイッチを切ると、約束通り、ベッドに戻った。
茜ちゃんほどではないにしても、わたしだって疲れている。なんていうと、茜ちゃんは気にしてしまうだろうが、それでもこれまで一人で悠々自適に暮らしていたところへ、いきなり人が増える。当然、疲れもするし、それなりに気を遣うこともある。だからといって、茜ちゃんを引き取ったことに、後悔はないけれど。昨日の1日を見てるだけでも、この子は色々と手伝いをしてくれようとしていたし、それに、半ば遣い過ぎなほど、わたしに対して気を遣っていた。
迷惑はかけないように。そんな考えが見て取れるほど。
再び、今度こそ茜ちゃんを起こしてしまわないよう、わたしは細心の注意を払って、ベッドに上がる。それから、隣に寝そべった。その視線の先では、枕を抱えるようにして、幸せそうな顔で眠る茜ちゃん。またしてもわたしは、頭を撫でようとしていた手を抑え、その様子をただ見守る。
しかし、早起きの反動とはなかなかのものだ。こうして、ベッドに横たわっているだけで、何度もあくびを繰り返してしまうし、それにまぶたも重い。一度目を瞑ってしまえば、もうそのまま夢の世界へ誘われてしまいそうになる。こうなってしまえば、それこそ無理をして起きていることはない。わたしはその睡魔に身を任せる決断を下し、スマホでアラームを、6時半にセットして、枕元に放り投げた。それから、目を閉じて、改めてベッドへ身体を預ける。
それにしても、不思議なものだ。目を開けている間や、起きようと意識している間はあくびがひっきりなしに出るというのに、こうして目を瞑って、さあ寝るぞと思った瞬間、あくびはピタリと止まる。 最後に考えていたのは、そんなしょうもないことだっただろうか。
わたしは眠りに落ちていき、意識がゆっくりと、薄まっていく。
そして次は、わたしが茜ちゃんに起こされる番だったらしい。
「ひ、姫子さん? 姫子さーん? 起きてください、朝ですよ」
「ん、んー……朝だね……」
わたしは、肩を茜ちゃんに揺すられて、ゆっくりと目を開ける。そうして、ベッドの上で軽く伸びをした。
二度寝。それは、とても気持ちがいいものだが、こうして二度寝して、起きた時、いつも思う。するんじゃなかった、と。なんというか、二度目の起床は、目覚めがとても悪い気がする。少なくとも、わたしはこれまでの人生で、すっきり起きれたことがないので、何とも言い難いけれど、このままもう一度、枕に頭を預けて、目を閉じられたらどれほど気持ちのいいことだろうか。そんなことを考えながら、ベッドの上で身体を起こす。
隣では、今度はしっかりと目を覚ましたらしい茜ちゃんが、わたしのスマホを手渡してくれるところだった。
「すみません、アラーム鳴ってたので、先に起きて切っちゃいました。大丈夫、でしたか?」
「あーうん、大丈夫……ねむぅ」
そういって、スマホを受け取り、時刻を確認する。6時半過ぎ。これ以上の二度寝、もとい三度寝は、出来ない時間だった。起きて、朝の支度をしなければならない。
わたしは至極憂鬱な気持ちで、そのままもぞもぞと、ベッドから降りる。そして、枕元に置いていたヘアゴムで、ひとまず髪の毛を括った。
そういえば。
わたしはこの後、勿論仕事に行かなければいけないけれど、結局彼女はどうやって学校に行かせよう。それを考えるのを、忘れていた。
仕方ない。わたしは直接、訪ねてみることにした。
「茜ちゃん」
わたしが呼ぶと、わたしに続いてベッドから降りた茜ちゃんは、自分のスマホを触っていた。時間割でも見ているのか、それとも友達とのラインだろうか。
「その、今日から学校、どうやって行くか、なんだけど……」
やはり送った方がいいだろうか。わたしは負担ではないけれど、彼女はどう思うだろうか。人に頼ることを、この上なく嫌う彼女のことである。きっと断られるかもしれない。そんなことを思って、次の言葉に悩んでいると、茜ちゃんは不思議そうに、眉を顰めた。
「学校……? え、わたしが、ですか?」
他に誰が行くの。
そう心の中でわたしは突っ込んだが、茜ちゃんの次の言葉は、わたしも、学生という身分から社会人になり、随分と時間が経った。そう思い知らされるには、十分過ぎるほどの、一言だった。
というかショックだった。わたしも年を取ったということだろうか。
「……今日から夏休みですけど」
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