第8話
それからわたしの髪の毛を、丁寧に乾かしてくれる彼女。といっても、温風を後ろから当ててくれるだけだが、それ以上のことを望むのは、いくら何でも酷だとわたしはわかっている。当然、片腕しか使えない茜ちゃんのことだ。温風を当てながら、もう片方の手で乾かす。そんな普通にわたしが意識せずやっている動作が出来ないのは、物理的に不可能だからである。というか、これで彼女が後ろから温風を当てつつ、わたしの髪の毛を普通に乾かしてくれていたら、それこそもうお化けの仕業か何かだろう。怖い話みたいになる。
なのでわたしは、空いている両手で、自分の髪の毛に当たる温風を感じながら、髪の毛を自分で解きほぐしていく。そして、それが終わった頃。
茜ちゃんから受け取ったドライヤーのコードを巻き付け、洗面所に置いて、後はもう寝るだけになっていた。そして、ようやく気付く。
この家に、ベッドが一つしかないことを。
いや、考えてみれば当然だ。わたしは一人暮らしだし、それこそ仕事の後輩が遊びに来ることはあっても、泊めることはほとんどなかった。黒澤くんと南乃くんは、たまに酔ってそのまま家で寝てしまう、そんなことはあったが、その時はふたりともリビングのソファやらカーペットの上で雑魚寝をしているだけだったし。しかし、それを女の子に、増してや茜ちゃんに真似させるわけにはいかない。一ヶ月面倒を見ると、豪語してしまった手前、ちゃんと一定水準以上の生活は、不自由なく送らせてあげなければならない。なのでわたしが、ひとまずソファーで寝ることにした。
幸い、外は少し冷えるといっても、それでも初夏。それなりに気温は高いし、部屋の中に居れば猶更。クローゼットの中から引っ張り出した毛布もあるし、これを被って寝れば、なにも寒いことはない。まあ少し寝心地は悪いかもしれないが、そこはご愛敬。
そんなことを考えながら、わたしは寝床を着々と用意していく。その様子を見て、しかし茜ちゃんは何を思ったのか。わたしの側で、整えられたソファを見つめて、何故かスマホの充電ケーブル、恐らく私物をその近くに配置し始めていた。
そのケーブルに、スマホを繋ぎながら、彼女は振り返る。
「あっ、ごめんなさい、寝る用意までして頂いて」
「……ん? う、ん」
とりあえず返事をして、それから理解する。どうやらこの子は、自分がソファで寝るつもりらしい。それも、先ほどのような、迷惑をかけてはいけない。という考えからきた発言、というより、本当にそう思い込んでいるのだろう。わたしは慌てて否定する。
「いや、多分勘違いしてるっぽいから言うけど、ここはわたしが使うからね? 当たり前だけど、茜ちゃんはベッド使っていいから」
「え?」
今度は茜ちゃんが首を傾げる番だった。そして、すぐに身を乗り出してわたしに抗議する。
「いやいや、駄目です! 赤――姫子さんの家なんですから、居候のわたしが、ベッドで寝るなんて!」
「何言ってんの、こっちこそ、そんな未成年の女の子をソファに寝かせて、ベッドで一人安眠なんて出来ないって。わたし、そんなにメンタル強くないから」
「で、でも……」
言葉に詰まる茜ちゃん。きっと、わたしの言いたいことを理解してくれたのだろう。こう見えて、茜ちゃんは物分かりがいいし、思慮深い。そんなことは出会って少し会話を交わすだけで、伝わってきた。なんというか、あまり未成年の姪っ子と話している、そんな気持ちがしない。それこそ、部下と話しているような気持になってしまう。
とはいえ、茜ちゃんの主張も、同時に理解できる。わたしが、申し訳ない気持ちになる、気が引けると言ったが、それは彼女も全く一緒で、つまり申し訳なく感じるのだ。お互いが、お互いに対して。
この場合の最善策として、わたしが主張しようと思ったのは、なんて、もうこの時点で折衷案を出そうとしている辺り、それこそ部下に対する態度だが、ともかく。
ともかく、ベッドで二人、寝ること。これに尽きる。
まあ、わたしの家にあるベッドが、シングルベッドで、とても一人で眠るサイズだから、二人はそれこそお互いの身体を引っ付けあってでもしないと、眠れない。そんな問題点に目を瞑れば、おおむね最善策といえるだろう。
わたしは悩んだ末、彼女に一時休戦を申し込む。
「まま、どうせすぐ寝るわけじゃないから、ちょっと一服させてもらっていいかな」
「あっ、はい、どうぞお構いなく」
彼女も、何もどちらが相手に譲るかなんて、そんなつまらないことで争いたくはないのだろう。それからわたしがタバコに火をつけるまで、手を鼻の下に当てて口元を隠すような姿勢で、考え込んでいた。
わたしもわたしで、茜ちゃんとベッドを交互に見つめながら、その考え付いた案を、果たして言っていいものか。それについて、考える。いや、これが、茜ちゃんではなく、つまり同性ではなく、異性の、つまり未成年の男の子だったとしたなら、わたしは迷うことなく、ソファで眠ることだろう。いくら何でも、わたしが未成年に対する猥褻罪か何かで捕まりかねない。しかし、わたしと茜ちゃんは同性。女同士。例え一つベッドの上、お互いに抱き合って眠ったとしても、間違いは起こるまい。
だが、それはあくまでわたしの考え。もしかしたら茜ちゃんは、そうは思わないかもしれない。そもそも、わたしとそうやってベッドで一緒に寝るなんて、そんなことをしたくないという可能性すら、十分に考えられる。なにせこれだけ育ちがいいのだ。きっと、そういうことについても厳しく育てられているだろう。
わたしがこの案を言い出せない理由。それは、以上の点にあった。
本当にどうしたものか。そう考えようとするが、酔いの回り始めた脳みそでは、あまり大したプランは出てこない。そうして頭に手をやり、悩んでいると、茜ちゃんが不意に、こちらへ小走りで近寄ってきた。一体なんだ。思わず身構えたが、茜ちゃんは再びわたしの近くまで来ると、嬉しそうに見上げる。
「わたし、いい案を思いつきました! これなら二人とも、文句はないと思います!!」
……うん。大体この後の展開は予想できたけど、一応聞こうかな。
わたしは彼女の身体から、煙草の火を遠ざける様にして、それを吸う。そして換気扇に向かって煙を吐いた。
「どんな案……?」
「簡単な話です、わたしと姫子さんが、一緒にベッドで寝たらいいんです!」
ほらね。
「え、いや、でも……大丈夫? わたしと一緒に寝て……」
なんかここで変に気にするのも、逆に意識しているみたいだな。そんなことを今度は心配になりながら、わたしはそれでも茜ちゃんに尋ねてしまう。だが茜ちゃんは、どうやら本当に気にしていないらしい。意味が分からない、と言いたげな顔で、首を傾げた。
「え、何が大丈夫なんですか? 何かするんですか?」
「いや、完全に茜ちゃんが、正しい」
そうだ。何をやっているんだわたしは。冷静になれ。女同士だ。何も起こるわけがないだろう。いやまあ、同性愛者を差別するわけではないが、少なくともわたしはそうではないし、それに恐らく彼女も、そうではないだろう。ならば、そんな前作みたいなことが起きる訳がない。そんな、女性二人がベッドに入って寝る。ただそれだけで、そういう展開を想像するなんて、そんな幼少期に算数のドリルが出来ないからって、縦笛で頭部を強打されたような思考回路、持ち合わせる方がおかしい。
「じゃあ、そうしましょう!」
そういって彼女は、にっこりと笑う。
だが。
それから煙草の火を消して、部屋の明かりを豆電球だけに落とした部屋で、ベッドに二人、上がってみて、思った。
いや明らかに狭い。
なんだこれ。
ぎゅうぎゅう詰めというか、なんというか。
一応、わたしは茜ちゃんに気を遣って、それなりにベッドの左側から、もう身体がはみ出そうな程、というか落ちそうな程、寄ってはみたが、なんというか。こうして二人で上を向いていると、わたしの右肩と、茜ちゃんの左肩。わたしの右脚と彼女の右脚。それらがピッタリとくっついている。
幸い、今夜は冷えるし、暑苦しかったり、そういうことはないのだが……。それにしても、女性二人とはいえ、やはりシングルベッドに二人というのは、なかなかの無茶であると、ようやく分かった。
「……狭いね」
わたしは天井を見上げながら、呟く。彼女も隣で、同じことを思っていたらしい。わずかに笑いを堪えるような声を漏らした後、
「そうですね」
と呟いた。
「そっち、もう余裕ない感じ?」
「んー、そうですね、まあ腕一本分くらいなら」
「腕一本分かあ……」
「はい。まあわたし、腕無いので」
「いや笑えないよ? 大丈夫?」
そのギャグセンス。
いくら自分では気にしていないとはいえ、笑えないって。
「まあ、真面目に答えるなら、もう少しくらいは寄れますよ。ほら」
そういってわずかに身じろぎをして、彼女と私の肩と脚が離れる。いや、それなりにそっちにスペースあったんだ。少しそう思ったのも束の間。
わたしはどうして彼女が、そのスペースを無視してくっついてきていたのかを理解する。
動いた茜ちゃんに合わせて、薄手のタオルケットが、ずりずりと引っ張られ、お互いに身体の三分の一が、タオルからはみ出した。
「……なるほど」
「はい」
だからくっついてきていたのか。いくら夏とはいえ、まあ今日は本当に冷えるし、いくら空調を送風にしているとはいえ、窓を閉め切っているのに、冷房を強めに回しているような冷気が部屋を満たしている。こんな中、お腹にタオル一枚でもかけていないと、お腹を壊しかねない。元より、女性は冷えやすいという。わたしはむしろ、暑がりなので、今は丁度快適なくらいだが。
そこでふと、名案を思い付いた。
「そうだ、じゃあさ」
そういって、わたしはタオルケットの角を掴む。それを、四分の一回転。つまり、横にして、二人のお腹にかけた。
どうだろう。これなら足と身体ははみ出てしまうけれど、それでもお腹は守られる。我ながらコロンブスの卵的発想の転換。天才だと自負せざるを得ない。は言い過ぎにしても、名案だとは思う。
だが、そのタオルの向きにした瞬間。彼女はわたしにぶつかるくらいの勢いで、近づいてきて。そのままわたしの左腕に、右腕を絡めてきた。同時に両足で、わたしの左足を絡めとる。
いや、なになに。
急に何。
「え、あ、茜ちゃん? どうしたの?」
だが彼女は、足はそのまま、器用に右腕だけを使い、身体をあれこれと捩ったりして、そのままタオルケットの向きを変える。つまり、元通りにして、足先まですっぽりと入る姿勢に戻した。
「ほ、ほら、こっちの方がいいですよ。寒いですし」
「……え、いや、そしたらわたし、タオルいらな――」
「ダメです」
「――いから、つか、う……」
ダメらしかった。
茜ちゃんは、今度こそわたしの元を離れようとしない。試しに、それとなく絡めとられている足を動かそうともがいてみたりもしたが、明らかに本気で両足に力を入れているのだろう。離れない。というか痛い。痛い痛い。やめて。
まあ。
時々いるよね。
夜寝るとき、お化けの想像なんかしちゃって、足を布団から出したくなくなったり。その想像をしてしまったものだから、余計に怖さが増したり。
恐らく彼女も、その類なのだろう。
なんだ。
年相応に、かわいいところ、あるじゃない。とは言わないであげたのは、姫子お姉さんの優しさだった。
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