第7話

 その後、服を着たわたしは、化粧水を持っていない彼女に、乳液とボディミルクもセットで貸してあげるため、場所を案内していた。

 まあ、洗面所なんてそんな広いものでもないが、それでも櫛の位置なども含めて、伝えないといけないことは多い。

「あ、でも、色々と二人分揃えないといけないものもあるね。剃刀とか、使うでしょ?」

「あっ、そうですね、忘れてました……」

 彼女は少し、しまった、というような顔になる。

「後は……鼻――エチケット用のはさみとかも、買いに行かないとだね」

 そこでふと、わたしは洗面所の扉を閉めようとして、ドライヤーに手が振れる。そういえば、わたしも彼女も、まだ髪の毛を乾かしていない。まあ、髪の長さで考えるなら、わたしより彼女の方が髪の毛を乾かす時間は、短くて済むだろう。わたしはそれをフックから外し、手に持った。

 洗面所にもコンセントはあるが、如何せん狭い。まあ一人暮らし用の物件だし、一人でいる分には、まあちょうどいい広さではあるのだが、わたしはともかく、彼女は髪の毛を一人で乾かせないだろう。

 わたしは説明を終わり、リビングへ彼女を誘った。

「おいで、髪の毛乾かさないとだよね」

「あっ、まあ……」

 そしてソファに座ったところで、彼女は首にかけていたタオルを手に取る。それで頭を急いで拭き始めた。

 わたしは慌てて手を掴んで止める。

「いやいや待って!! そんな拭き方したら、髪の毛痛んじゃうよ?!」

 びっくりした。男の子じゃないんだから、そんな、じゃがいもでも洗うみたいな力加減で。

 わたしの声で、彼女は手を止める。そして、戸惑ったような表情でこちらを見つめる。

「え、でも、わたしドライヤー使えないから……」

 事も無げに言う彼女。その表情は、なにもわたしに気を遣っているわけではないのだろう。そうではなく、ただ本当にドライヤーを一人で使えないから。

 わたしは彼女の手からタオルを優しく取ると、ソファにかける。それからドライヤーのコンセントを繋ぎ、彼女の後ろに立った。

 ソファの背もたれ越しに、彼女は身体を捻ってわたしの方を見上げる。

「茜ちゃん、はい、もたれてー」

 彼女の肩を持って、ソファにもたれ掛けさせる。それから、ドライヤーのスイッチを入れた。

「わたしがちゃんと乾かしてあげるから、遠慮しないでいいからね」

 ドライヤーの音でまぎれてしまうため、わたしは彼女の耳元で言うと、少し眉をひそめて、首を縦に振った。

 まだ遠慮しているのだろう。

 出来ないことを人に頼るのは、迷惑でも何でもないんだけどな。わたしはそんなことを思いながら、改めて彼女の髪の毛に手を触れる。それをゆっくりと解きほぐしながら、ドライヤーの弱い風を当てていく。きっと普段は、ショートヘアーをヘアワックスか何かで整えているのだろう。わたしの家に来た時もそうだったろうから、つい気付けなかったが、こうしてお風呂上り、乾かしていると、本当にきれいな髪の毛をしている。

 染色はしていないだろうから、この栗毛色は生まれつきなのだろう。指先をさらさらと通り抜ける、本当にきれいな髪の毛。伸ばしていたら、もっと綺麗に映るだろう。それこそ、わたしぐらい伸ばしてほしい。わたしは乾かし終わり、温風を冷風に切り替えて、粗熱を取っている間も、ひたすら彼女の髪の毛に見とれていた。

 頭も小さいし、髪の毛はさらさらだし、おまけにいい香りがする。いや、これはわたしのシャンプーの匂いだけれど。わたしは思わず、彼女の頭をしばらく撫で続けていたらしい。

 頭が動き、丁度、彼女の頭に鼻を近づけているところで、こちらを不思議そうに見上げる彼女と目が合った。

「……赤城さん、どうかしましたか?」

 わたしはドライヤーのスイッチを切る。それから、彼女の頭から手を離した。

「い、いや? 特に何でもないよ。ただ、綺麗な髪の毛だから、いいなーって、触り心地をね」

 恥ずかしい。なんでわたしは姪っ子の頭を撫でているんだ。というか嗅いでいるんだ。冷静になって考えてみると、いきなり初日で髪の毛を嗅がれたら、誰だって警戒する。きっとわたしがこの子の立場なら、警戒する。というかビビる。え、犬ッスか? ってなる。

 だが彼女の表情を伺う限りにおいて、まあ不思議に思っている、程度の顔であったため、ひとまずは大丈夫だろうか。

 わたしは誤魔化すように、ドライヤーのコードを本体に巻き付け始めた。

「サー取リ敢エズ片付ケ、シナイトー」

「ええ誤魔化すの下手……。赤城さん、下手です。頭撫でた原因が分からず仕舞いです」

「いや、なにもしてないよ」

「え……嘘つきが居る」

「冷静になって考えてみてよ。いきなり人の髪の毛乾かすついでに、匂い嗅ぐとか。変態じゃん」

「え、あれ匂い嗅いでたんですか?!」

 彼女は驚いた様子で、同時に恥ずかしそうに顔を赤らめて、頭の上に手を置いた。

「え、なんか、変な匂い、しましたか?」

「いや、シャンプ」

 そこでわたしは慌てて口を噤む。危ない危ない。ここでうっかり、シャンプーの匂いだったし、いい匂いだった、なんて言ってしまったら、それは匂いを嗅いだと自白するようなものだ。わたしとしたことが、人の頭を嗅ぎなれていないがために、失敗をするところだった。

 いや、もう自白はしたようなものだし、失敗してるけど。

 そんな胸中のわたしを、彼女は恥ずかしそうに睨んでくる。

「……嗅いだんですね」

 バレてら。

 とまあ、そんなやりとりは、結論として、わたしが酔っぱらうと匂いフェチになる、という方向で収束した。わたしとしては、そんな悪癖を持っているつもりはないので、大変遺憾だが、まあそれは後日、主任二人にも聞いてみるとして。

 髪の毛を乾かし終わった彼女は、それでもちゃんと、わたしにお礼を言ってくれる。

「ありがとうございました」

 そういって深々と頭を下げる彼女に、わたしはやはり、手を伸ばして頭をあげさせる。

「いやいや、だからいちいち大げさなんだって! 別にこれくらい、当然のことだから!」

「で、でも、わたし、こんな風に髪の毛を人に乾かして貰ったのなんて、初めてで……本当に助かりました」

 ついでに言うと、匂いを嗅がれたのも多分初めてです。そういって、彼女は怒るふりをする。

 かわいい。

 ではなく。

「……え?」

 わたしは聞き捨てのならない言葉に、訊き返してしまう。

「乾かして貰ったの、初めて?」

 じゃあ普段は。

 そう尋ねると、彼女はまたしても、事も無げに言った。

 だって、お母さんは自分でできることは、自分でやりなさいって。

 だからわたし。

 いつも自分でやってますよ。

 その表情には、それが辛いとか、自分一人ではできないとか、そんな色は一切見えない。ただそれが当たり前であるかのように、そして自慢気な顔すらして、彼女は語るのである。

 勿論、それが家庭の教育方針の一環なんだろうし、わたしはよその家の、そういうルールとかに、口を出すような人間ではないという自覚はある。どの家にも、それぞれのルールがあって然るべきだ。

 でも。

 いくら何でもそれは、少し厳しすぎはしないだろうか。なんといっても、彼女は右腕しかないというのに。それで、ドライヤーを掴んだら、髪の毛をほぐせないし、どこかに置くわけにもいかない。まあ恐らく、両足でドライヤーをはさみでもして、それを髪の毛に当てるとか、机の上に置いて、自分はその下でしゃがみ込むとか、そういう工夫をすれば出来ないことはないけれど。でもそんなことをしなくても、努力でどうにもならないことでなくても、それが難しいことなら、手伝ってあげるべきじゃ。わたしは、姉さんが身内であるから、姉妹であるから、余計にそう思ってしまう。

 言葉を選ばずに言わせていただけるなら、手伝ってあげろよ、意地悪だろ。とすら思う。勿論、意地悪でやっているわけではないと、わかってはいるが。

 酷いな。とは思う。

 その後、わたしは先ほどのお礼だと彼女に言われ、髪の毛を乾かして貰うことになる。その最中、彼女は急にこんなことを言い出した。

「あ、そうだ、改めて、わたし、鈴谷茜って言います」

「え、何急に? 会ってすぐに教えてもらったよ?」

 だが彼女は、何もそれを忘れていたわけではないらしい。驚いて振り返ったわたしの言葉を受け、首を横に振る。

「いや、わかってます! そうじゃなくて、赤城さんの名前を、教えてほしくて……」

「ああ、なるほど」

 わたしは納得する。人に名前を尋ねるときは自分から。ということなのだろう。別にそこまでわたしに気を遣う必要もないのに。

 わたしは、もっと楽に、それこそ敬語を禁止にでもしようかな。そんなことを考える。

「姫子。お姫様の姫に、子供の子。……名前負けしてるとか言わないでね」

 冗談めかして言ったつもりなのだが、彼女は顔の前で激しく手を横に振る。

「いやいや、かわいい名前じゃないですか! え、姫子さんっていうんですか! なんか、こう……」

 だがそこで、彼女はすぐ言葉に詰まる。まあ当然だ。わたしの印象は、少なくともお姫さまって感じではないだろうし、パジャマも着古した適当なものだし。本当はジェラピケのパジャマとか、凄い憧れる。それに仕事場でも、名刺を渡したり、書類にフルネームのサインが必要な時は、どうにも恥ずかしい気持ちになる。自分で言うのもあれだが、他の社員の女の子たちみたいに、女子女子していないのに、名前だけすごいメルヘンだから。

 彼女は相当、考えてくれたのだろう。いささか時間を要して、ようやく。

 意を決したように、その口を開いた。

「なんか……確かにお姫様って感じしますもんね!」

「……」

 いや適当に言ったよね。

 絶対思ってないよね。

 思ってたら、目を見て言うもんね。

 どこ見てるの? え、それどこ向いてるの? こわいね。

 ともかく。

 彼女はそれから、少し気恥ずかしそうにして、わたしの方へ向き直る。

「……あの、相談なんですけど」

 わたしは、先ほどの彼女のお姫様みたい、という発言が未だに気にはなっていたが、取り敢えず話を最後まで聞くことにする。

 彼女は声が通りやすいよう、ドライヤーのスイッチを一度切った。それから、それを片手で掴んだまま、恥ずかしそうに続ける。

「その、赤城さんのこと、下の名前で呼びたいんですけど……い、いいですか?」

「え、下の名前? 姫子って?」

「うぅ……はい……」

 耐えきれなくなって、下に視線を逃がす彼女。まあわたしとしては、この名前はあんまりお気に入りとは言えないのだが、しかしだからといって、それを無下に断ることもできない。折角、彼女とわたしとの距離感を詰められる、いい機会だ。わたしは少し悩んで、首を縦に振った。

「うん、別に良いよ」

「あっ、ありがとうございます!」

 彼女は表情を明るくして、嬉しそうにする。まあ、喜んでくれるなら悪い気はしないし、良いか。それこそ、わたしは彼女のことを、茜ちゃんと呼んでいるわけだし。これが何かの切っ掛けとなって、少しでもわたしに無用な気を遣うことが、少しでも無くなればいいな。そう思った。

「じゃ、じゃあ、改めて、姫子さん、髪の毛、乾かしますね!!」

 嬉しそうに彼女、茜ちゃんはドライヤーを持ち直すと、そういって微笑んだ。

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