第6話
わたしは自分のズボンをまくりあげ、濡れないようにしてから彼女に近づく。そして、差し出された腕に手を伸ばした。
両手の泡を、ゆっくりと彼女の細腕に乗せる。それを、丁寧に伸ばし、手のひらで優しくこする。
普段から日焼け止めをぬることは、欠かさないのだろう。そう一目でわかるほど、彼女の肌はとても色白で、若くきめ細かい。おまけにこの細さ。うっかり力加減を間違えれば、容易に折れてしまいそうなほどだった。なのでわたしは、洗うというより、撫でるようにして、彼女の腕をこする。
……この腕で。こんな柔い腕で、これまでの道中を、必死にわたしの家まで来たのだろう。そう思うと、そんなになるまで、そんな風に家出をしたくなるまで、どうして姉さんは、気付かなかったのだろう。彼女の悩みに。
なんて。
そんなお門違いですらある怒りを、抱かずにはいられない。
義手を家に置いてきて。それがどれほどの不便を被ることになるか、まさか彼女も、わからなかったわけではないだろう。それでも、家に置いてきた。その意味を、姉さんは果たしてわかっているのだろうか。
本当に、大人げない。
やっぱり嫌いだ。姉さん。
「……赤城、さん?」
そんな不安そうに呼びかける彼女の声に、わたしは我に返る。視線を腕から彼女の顔に向けると、こちらを心配そうに見つめていた。というより、今にも泣きだしそう。そういって差支えがないような顔ですらあった。
わたしは慌てて返事をする。
「ど、どうしたの、大丈夫?!」
「ああっ、い、いえ、なんか、赤城さん、怒ってるような顔になってたので、その……ごめんなさいっ」
わたしの手から、自分の腕を振りほどくようにして、彼女は膝の上にその右腕を置く。
「やっぱり、迷惑、ですよね……」
目に涙を浮かべる彼女。わたしはそこでようやく、彼女の前で、自分が怒気を孕んだ表情を浮かべていたことに気付く。
慌てて頬の力を抜くことを意識しながら、彼女に微笑みかけた。
「迷惑だなんて、そんなことないよ? ただ……」
「ただ?」
涙目で、唇を噛んでわたしを見つめる彼女。わたしは言葉に詰まってしまい、次の言葉を慎重に考える。例えばここでもし、彼女に対して本当に怒っている理由、つまり姉さんが、母親として至らないと思い、それに対して怒りを抱いた、なんてことを言った時のことを考えていた。
きっと彼女のことだ。特に今は、彼女が一番、母親を疎ましく、唾棄しているといっても過言ではない。繰り返しになるが、彼女があれほどの荷物を一人でわたしの家まで持ってくる、その労力はそれを言外に表しているといっても過言ではない。
本当に嫌いで、本当に離れたくて、だからわたしの元へ来た。
だが、そこでわたしが彼女に対して、姉さんのことをどう思っているか、それについて正直に答える。その行為は、今この場においては彼女と意見を同じくするとして、彼女からの信頼を得られるだろう。しかし、人間の感情とは、そんな単純なものではない。
嫌いという気持ち。それは長続きするものではない。増してや、我が母親である。一体彼女がどれほどのことを家庭内で言われていたか、されていたか、わたしは寡聞として知らないが、それでもまあ、一ヶ月という少し長めの期間を告げた時の彼女のあの表情を鑑みるに、母親に対して抱いている敵意とか、嫌厭の情とか、そういったものは長続きしないに決まっている。
そうなった時のことを考えると、今、わたしが姉さんの悪口を、あろうことか娘である彼女に対して吐露するのは、よくないことだ。
悩んだ末、わたしは楽な道を選んだ。
つまり、誤魔化すようにして、おどけた。
勿論、本人に悟られないように。
露呈しない嘘の吐き方とは、多数の真実に、一握りの嘘を忍び込ませることなのだ。
「いやあ、あんまりにも細い腕してるし、それに身体も痩せてるからさ、心配になって」
彼女は話が掴めないらしく、小首を傾げる。その様子を見て、わたしは続けた。
想定通り、混乱してくれている。
「大丈夫、ちゃんと毎日ご飯食べてる? わたし、ちょっと心配だよ。……無理なダイエットとか、してないよね?」
口に出す言葉。それらはすべて、真っ赤な嘘ではない。むしろ、ほとんどが本心だ。だが、それを心配して、あの表情を露呈してしまったわけではない、というのが味噌である。事実、彼女の脳内は恐らく、どうして怒ったような表情を浮かべているのだろう。という悩みから、ちゃんとご飯を食べているとわたしに伝える、という方向へシフトしているのが、伝わってくる。
「むしろ……最近太ったのかなって気になってます」
自分の身体に視線を落としながら、彼女はわたしに恥ずかしそうな笑みを向ける。わたしはそんな彼女の腕を洗い終え、シャワーを手に取りながら返す。
「いやいや、どう考えても細いから大丈夫だって。……ほんとにあのご飯で、足りた? お腹空いてたりしない?」
「あっ、はい、お腹いっぱいです」
少し和らいだ表情で、彼女はわたしに、満足そうな笑みを向けてくれる。
かわいいなあ。
その後、わたしは浴室を後にした。本当は、お風呂上りに身体を自分で拭けるのか、とか、他にも心配なことはあった。それこそ着替えも、もしかしたら手伝ってあげる必要があるのかもしれない。しかし、彼女から頼んできていないのに、こちらから色々と手を差し伸べるのは、ひょっとしたら彼女の自尊心を傷つけてしまうかもしれない。そう考えて、リビングに戻る。
事実、彼女は着替えも含め、ほとんどのことを終わらせた状態で、脱衣所から出てきた。
自分でリュックの中から用意した、部屋着、あるいはパジャマだろうか。薄手の半袖のシャツと、半ズボン。ブラもどうやら、器用に付けたらしい。その年にしてはやや豊満な胸元は、ピンク色のブラが透けていた。いや、別に変な意味で見ていたわけではない。ただ、大概の人はブラをつけるとき、後ろのホックは両手でも着けるのに難儀することがあるくらいだ。それを彼女はどうやってつけたのか、それが不思議で仕方ない。
とはいえ、彼女からしてみれば、わたしはただの久しぶりに会った親戚、程度の関係性。まだ出会って一日も経っていないのだ。それなのに、いきなりブラの話までするのは、如何なものだろう。そう考え、わたしは尋ねかけた口を噤んだ。
変に警戒でもされたら、それこそ事だ。
「あ。赤城さん、お先にお風呂頂きました」
髪の毛を片手で器用に拭きながら、彼女はわたしの側まで来る。わたしは慌てて、閲覧していたウィンドウを、あらかじめ用意していた猫の画像検索結果と入れ替える。
「すみません、お仕事中、でしたか?」
気になるのだろう。パソコンの画面を隣から覗き込むようにして、彼女は興味を示した。わたしは、洗いたての髪の毛から香るシャンプーの香りに、どうして自分では香らないのに、人が使ったらこんなにいい匂いに感じるんだろう。なんて、素朴なことを考えながら、応える。
「って、猫ちゃんじゃないですか。好きなんですか?」
「うん、好きだし、出来たら飼いたいなーって」
「へえ、いいですねっ! 猫ちゃんかー、わたしも飼いたいなあ」
顔が綻ぶ彼女。だがわたしは、画面に映る猫たちに、同じく頬を緩めていられるほど、冷静ではなかった。なにせ、先ほどまで見ていたウィンドウが、もし何かの手違いで今、全画面表示でもされたら。そんなことを思うと、少しゾッとする。
勿論、セクシーなものを調べていたとか、そんな男子高校生が母親に見つからないようにパソコンを使っているような、そんな調べモノではない。ただ、わたしはこの先、彼女と暮らしていくうえで、片腕がないことで出来ないことを、先に調べておきたかったのだ。だが、そうやって調べていることを彼女に知られるわけにはいかない。きっと彼女のことだ。余計に申し訳なく思ったりするに違いない。腕を洗う力加減を指定する。たったそれだけのことでも、酷く落ち込んでしまうほどなのだ。
一体、どんな距離感で接するべきなんだろう。
いわゆる身体にハンディキャップを抱える人と、こうして一つ屋根の下で暮らす経験など、わたしはしたことがない。だから、そこの距離感、温度感が分からない。手助けしまくるのも、鬱陶しく思うだろうし、かといって何もしないというのも、思い遣りに欠けるし。
色々と、わからないことだらけだ。
わたしはその後、入れ違いにお風呂に入った。といっても、わたしは湯船に漬かったりしない。すぐにのぼせてしまうし、お酒の入った状態で、湯船でじっくり身体を温めてしまうと、どうも酔いが早く回る気がして、苦手だ。なので、手早くメイクを落とし、頭と身体を洗い、お風呂から上がった。そしてタオルで身体を拭き、化粧水を手に取る。
それを塗りながら、そういえば彼女は、自分の化粧水などを持っているのか、ふと気になる。
わたしは続いて乳液を顔に塗り、身体にボディミルクを塗り終わると、すぐにタオルを巻きなおして、脱衣所を後にする。
もし持ってきていないのだとしたら、貸してあげないと。同じ女性として、お風呂上がりの化粧水と乳液は、欠かさせるわけにいかない。
いくら若く綺麗な肌、とはいえ、流石に肌トラブルに見舞われてしまう。
リビングに出ると、果たして彼女は、テレビ前のソファに座っている。わたしは近づきつつ、後ろから声をかけた。
「おーい、茜ちゃん」
「きゃっ!!」
弁明しておくと、何もわたしは後ろから抱きついたわけでも、大声で呼んだわけでもない。ただ後ろから、小さく声をかけただけだ。だが彼女は、ソファの上で身体をびくりと跳ねさせ、それから慌ててこちらに振り返った。
大きな目をぱちぱちと、眠そうに瞬きしている。もしかして、うとうとしていたのだろうか。だとしたら申し訳ないことをした。
「あっ、赤城さん、おかえりなさい。……すみません、寝ちゃってたみたいです」
彼女は右手で目を擦ると、改めてこちらを見つめる。
そして、その視線がわたしの胸元へ注ぎ込まれるのを、わたしは感じる。
なんだろう。
「あ、茜ちゃん? わたしの胸に、なにかついてる?」
そんな目を丸くしてみることもないだろう。というか見つめすぎだろう。わたしはそう思いながら彼女を見つめ返すが、視線は合わない。彼女の視線は、相変わらず胸から動かない。
やがて彼女は口を開く。
「……赤城さん、いいですね」
なにがだろう。
今度は自分の胸と、わたしの胸を見比べるのをぜひやめていただきたい。
君もちゃんと大きい方だって。
わたしは、恥ずかしいやら困るやら、そんな気持ちで彼女に改めて声をかける。
「そっ、そうだ、化粧水とか、持ってる? もし持ってないんだったら、わたしのでよければ使っていいからね。洗面所に置いてるから」
「……わかりました」
彼女は俯いて、自分の胸を見つめながら答える。というか、明らかにテンションが下がっているのが見て取れる。
怒ってるの?
「ありがたく、使わせていただきます……」
怒ってるじゃん。
彼女は口を尖らせて、再びわたしの胸を見つめてくる。無言で。
いや怖いって。
「な、なに、かな?」
「いえ、ただ、どうしたらそんなに大きく育つのかなって、気になっただけですね」
「育てた覚えはないんだけどなあ」
わたしも自分の胸に改めて意識を向ける。まあ、昔から大きかったのは確かだ。といっても、何も人並み外れた大きさではない。カップ数は、だいたいEだし、それに大きいと将来的に垂れるとも聞く。恐ろしい話だ。
「ママも、大きいんです」
「そ、そう……」
「赤城さん、これからわたし、一か月間ここで暮らすんですよね」
「ん? うん、そうだけど」
「わたしも赤城さんと同じご飯、食べるってことですよね」
「……うん? うん」
「じゃあわたしも成長が見込めるってことですね」
彼女は自分の胸に手を当てる。
きっと彼女が言っている成長。これは、人間として成長する、という意味ではないだろう。それだけは確かだ。
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