第5話

「湯加減、どう?」

 わたしは彼女がこの後使うであろう、タオルを用意しながら、浴室ドア越しに声をかける。すると、湯船に浸かっていたらしい彼女は、湯の零れる音をさせながら、返事をする。

「あっ、はい、最高ですっ! なんというか、広くて、落ち着きます!」

「……うん、それならよかった」

 わたしは思わず口に手を当て、笑い出しそうな口を抑えながら、応える。いや、どう考えても彼女が暮らしている家の方が、浴室も広いに決まっているのに。それでも、どうやら気を遣ってくれたらしい。まだ高校生だというのに、なかなかどうして、気遣いが出来る子らしい。わたしは思わず、感心してしまう。

「あっ、そうだ、赤城さん」

 浴室から続けて声がする。

「その、シャンプーとかって、使っても、いいですか?」

「え、うん、いいよ。……どれがどれか、わかる?」

「はい、それはわかるんですけど、その……なんか、お高そうなので」

 お高そう。

 そんな気遣い、わたしが高校生の頃、果たして同じような気遣いが出来ていただろうか。いや、少なくとも今の環境において、そんな気遣いは不要なのだが。何せ、わたしが半ば無理矢理に、彼女を家に泊めているだけに過ぎない今の状況において、家のものはすべて、わたしと彼女の共有物といっても過言ではない。わたしはその旨をドア越しに伝えたが、しかし彼女は慌てたような声で否定する。

「いや、でも本当に見たことがないようなかわいいシャンプーなので……じゃあ、使わせていただきます」

 反響する声は、明らかに遠慮しているようだった。

 そしてわたしは、彼女の綺麗に畳まれた洗濯物を、念のためランドリーネットに入れてから、洗濯機の中へ入れる。どうせこれからわたしが洗うと分かっていて、それでも敢えて彼女は、この洗濯物も畳んでくれたのだろう。本当に感服する。間接的に自分の姉を褒めるようで、あまり素直には認められないが、本当に育てられ方がよかったのだろう。

 昔からわたしのものを、勝手に食べたり飲んだり使ったりしていた姉さん。その育て方がよかったと、心の底から認めたくないけれど。

 わたしは洗面所の引き出しに手をかけ、中から新しい歯ブラシを取り出す。幸い、過去のわたしはカップラーメンこそ常備していなかったものの、歯ブラシは買い置きしていたらしい。色も違うし、これで区別もつくだろう。わたしはそれをパッケージから取り出して、歯ブラシスタンドに立てる。それから、次の用意へ向かった。

 これから一ヶ月、わたしの家で暮らして欲しい。電話を切ったわたしが、そう告げた時、彼女は初め、驚きを隠せないようだった。明らかに動揺したように視線を泳がせ、あれこれと考えることもあったのだろう。わたしに迷惑をかけるんじゃないかとか、家に帰りたくないとは言ったけどそんなに長い期間はどうだろうとか、そういった旨のことを。事実、彼女はわたしへ迷惑をかけるからと、すぐに断ってきた。しかし、わたしが事情を話すと、彼女は渋々、といった様子ではあったが、どうやら納得してくれたらしい。何とも言い難いような顔で、首を縦に振ってくれた。

「着替え……は、自分で準備するかな」

 呟いて、わたしはせめて手助けを、と彼女が壁際に置いていたリュックサックを、移動させようと手をかける。初め、外に置いていた、あの着替えなどの荷物が詰まっているらしいリュックサックだ。その肩紐を何の気なしに掴んで、持ち上げようとして。

「っ!? お、重っ!」

 その重さに、思わず両手で掴んでしまう。

 何の気なしなんて、とんでもない。いやまあ、彼女も女の子だし、それこそ男の一人旅のように、軽装とはいかないだろう。何日ほど家出をするつもりだったのか、定かではないが、着替えや化粧品、その他諸々、きっと学校に持っていく教科書なども入っているのか、背中の部分が、とても固い。それなら、この重さにも納得がいく。だが、これはとても、高校生の女の子が、それも片腕に着けている義手を、何かの当てつけとしてなのか、家に置いてきた身で、持ち歩ける重さではない。

 そこでわたしは気付く。彼女が玄関で寝ていた理由に。

 何も、わたしを待ちぼうけて、こんな寒空の下、眠っていたのではない。ただ、力尽きただけなのだ。こんな重たい荷物を、年端もいかない女の子が、必死に片腕を失っている状態で、背負いあげ、恐らく電車か何かで移動してきて、わたしの家について。それならこの寒さに、あの薄着で眠れていた理由も説明がつく。きっと、彼女にとっては寒いどころか、汗ばむほどの重労働だったに違いない。それこそ、何度心が折れそうになったことだろうか。きっとわたしなら、とうに諦めているかもしれない。

 両手で何とか持ち上げ、わたしはそれを必死に脱衣所の中へ持っていきながら、考える。

 家に入るとき。わたしは気遣いのつもりで、善意で彼女が入りやすいよう、扉を開けてあげていた。だがそれでは足りなかった。それこそ、片腕、義手を装着していないと分かっていたなら、せめてあの時、リュックを代わりに持ってあげるべきだったのだ。

 あの時、顔色一つ変えず、わたしに心配をかけさせまいと、持ち上げた彼女の右腕。到底、筋肉があるようには見えない。むしろ細いと言っても過言ではない、その腕で、これを持ち上げていたのか。

 息を切らしながら、再び脱衣所を後にして、わたしは手のひらを見た。この短時間でも、力を込めて持ち上げたおかげで、両手は真っ赤になっている。それを眺めながら、わたしは歯噛みをした。

 なにが悪役になる、だろうか。

 こんなことにも気付いてあげられなかった時点で、わたしは十分に悪役じゃないだろうか。

 溜息をついて、わたしはどんよりと陰った気持ちで、換気扇の下に立つ。それを弱で回しながら、引き出しから取り出した煙草に火をつける。

 これからの一ヶ月。考えることはそればかりである。

 不安がない、どころか、不安しかない。当たり前だ。わたしはこれまで、家族以外の誰かと共同生活を送ったことなど、一度もない。増してや、隻腕で、女子高生なんて、経験があるはずもない。何に気を付けて、何を手伝えばいいのか、それすらわからない。

 自分で言い出したことながら、不安に感じる自らに、わたしは無責任さを感じるが、しかし不安な気持ちは確かにあって。

 わたしなんかに、この役目が務まるのだろうか。そんな気持ちも、煙草の煙みたいに、換気扇に吸い込まれて行ってほしい。なんて。

「すっ、すみません、赤城さんっ!」

 そんなわたしのセンチメンタルな気持ちは、浴室から響いてくる、彼女の悲痛な叫び声で掻き消えた。そして次に脳裏を過ったのは、なにか大変な、それこそ命にでもかかわるようなことでも起きたのではないか、そんな心配だった。

 いや、後から考えてみると、そんな状況にいたなら、そもそもはっきりとわたしのことを呼べていないだろうし、完全に心配のし過ぎだったと、後から反省することになるのだが、ともかく、この時のわたしはとても焦りながら、浴室のドアの前に立っていた。

「どうしたの、大丈夫?!」

 それがお風呂に持っていけるものかどうかはともかくとして、片腕では不便だろう。わたしは慌てて声をかける。

「はいっ! あ、いえっ、大丈夫、ではないです……」

 段々と勢いを失っていく声。しかし、それが一刻を争うような心配事、ではないことが分かり、わたしはひとまず安堵の溜息を吐いた。

 だが、溺れそう、というわけでもないなら、一体何なんだろう。わたしはその言葉の続きを待つ。すると彼女は、とても気まずそうというか、申し訳なさそうに、扉の向こうから言葉を続けた。

「その……すみません、腕を、洗ってほしくて……」

「……へ? え、だって、右腕は動くからそれで」

 言いかけて、わたしは気付いた。そうか。

 この言葉は不適切かもしれないが、これまでわたしは五体満足で生きてきた。なので、それこそ今の今まで、すっかり忘れていたことなのだが、そうだ、冷静になって考えれば、至極当たり前のことじゃないか。

 彼女は、右腕だけだからこそ、右腕を洗えないのだ。まるで、右手で右ひじを触れないように。それこそ、右手で右肩くらいなら、なんとか届くかもしれない。ただ、それより先は。

 わたしは言いかけていた言葉を猛省する。気にしすぎ、と言われればそれまでなのかもしれないが、どうにもこういう話は苦手だ。それこそ、彼女が気にしていなくとも、わたしの何気ない一言で、彼女を傷つけてしまうかもしれない。そういう点では、やはり姉さんには劣るだろう。その気持ちが、余計に過敏にしてしまう。

 義手をつけていないことに気づいてしまってからは、猶更。それこそ、何かにつけ、それを考えてしまうほど、わたしは彼女の腕に意識が向けられているように感じる。

「……ごめんなさい」

 思わず謝罪の言葉が、口を突いて出る。浴室ドア越しに、彼女はわたしが謝っている理由を理解して、何も謝ることはないと、言ってはくれるが。

 ともかく。

 わたしはどうやら、彼女の右腕を洗ってあげなければならないらしい。いや、それに関しては一切の抵抗はない。むしろ、わたしがこの家に一ヶ月、居させるのだから、これは義手のない彼女にとって、毎日わたしが出来る数少ない手助けだ。喜ばしくも思う。

 だが、いいのだろうか。年頃の女の子のお風呂に、わたしが入っても。その不安が、扉にかけた手を動かそうとしない。

 勿論、彼女が頼んできたことだ。わたしだって、抵抗はない。だが、彼女だって年頃。恥ずかしいに決まっている。

「……どうかしました?」

「ああ、いや。……恥ずかしくない?」

「……? え、だって、女の子同士ですよ」

 二つ言わせていただきたい。

 まず一つ。わたしは女の子に分類されるような年齢ではない。少なくとも、二十代も三分の二を過ぎれば、それは女の子、なんてブランドは失っている。少なくともわたしはそう思う。だから、小っ恥ずかしいからその女の子扱いをやめていただきい。

 そして二つ目。……別に恥ずかしくないの? え、わたしの思い過ごし? 気にしすぎ? お姉さん、最近の女子高生とのジェネレーションギャップをモロに感じて、軽く死にたくなったんだけど。

 まあ、彼女が恥ずかしくないというなら、なにも問題はあるまい。わたしは、冷静を装って返事をすると、浴室の扉を開けた。

「じゃじゃじゃああけあけ開けるねねね」

「えっ、赤城さんバグりました?」

「だっ! 大丈夫、別にあれだよ、変に恥ずかしいのかなとか心配しすぎるの、おばさんっぽくて死にたくなったとかじゃ、ないからっ」

「返答に困るなあ」

 ともかく。

 わたしは扉を開け、こちらを向いて笑っている彼女と対面する。彼女は、裸であるため、余計に目立つその左腕をややわたしから遠ざける様に、身体を斜めにしていたので、対面したのは首から上だけだが、わたしは泡立った手で、ボディソープのボトルを渡される。

「じゃあ、すみません、お願いします」

 そのボトルを渡されて、わたしはもう一つの、泡立てボールを探す。正式な名前はわからないが、よく百均ショップで取り扱いがある、ボディソープを泡立てて、身体をこするためのあれを。だが、それはいつものところにかかっていて、どうやら使われた形跡がない。

 私は気になって尋ねた。

「え、これ使ってないの? 遠慮せず、使えばいいのに」

 そういってシャワーで、そのボールを濡らす。

「いや、でも、なんか気が引けて……手で洗ってました」

「あー……」

 まあ、手で洗うのも悪くはないだろう。わたしだって、このボールで泡立てた後、その泡は結局手で身体に塗り伸ばすことになるし。事実、身体の垢は、それで綺麗になる。むしろ、ナイロン生地のタオルなどでゴシゴシと擦るのは、肌トラブルに繋がるらしい。

 わたしはともかく、彼女の年齢でも、やっぱりそういったことには気を遣っているらしい。

 女子力高いなあ。

 とはいえ、あわあわの泡で身体を洗った方が、汚れも取れるだろうし、何より気持ちがいい。そう伝え、わたしは次からこれを使うことを彼女に薦めて、その濡らしたボールにボディソープを垂らす。それから何度か揉み込むと、すぐにきめ細やかな泡が立ってくる。それを手に掬うと、彼女は右腕をわたしの手元へ、遠慮がちに伸ばしてきた。

「ほんとすみません、ご迷惑おかけします……」

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