第4話
自ら発した、その言葉を皮切りに、彼女はとうとう声を上げて泣き始めてしまう。先ほどの所作からもわかる通り、どうやらかなり泣くことを我慢していたらしい。だが、一度流れ始めてしまえば、もう止められない。
わたしはすぐに隣に行くと、顔を手で覆って泣き始めた彼女を、抱き寄せる。すると彼女は、すぐにわたしへ身を委ねてきた。その頭を優しく撫でながら、わたしは彼女が悩んでいることについて考えた。
勿論、香水のことだけではない。彼女は今回、香水の件に対しての怒りや悔しさを話してくれたが、何もそれだけが家出の原因、というわけではないだろう。恐らく、同様のやり取りが、他にも為されたものと考える。妹だから、わかる。姉さんは、ああいう人だから。
まあ、姉さんの名誉のために弁解しておくと、姉さんはそんな天邪鬼な気質ではあるけれど、同時にとても真面目というか、正義感が強いところがあったり、短所と同じだけ、長所もちゃんと兼ね備えている。それこそ、根っからの悪人、ではないのだ。……それでも、自分の娘に対して、あまりにも大人気がないとは思うが。
わたしは、彼女の頭を自分の胸に当てる。彼女もまた、顔を覆っていた右手を、わたしの背中に回してきた。
泣かないで。なんて、そんなことは言えないな。
わたしはさっき会ったばかりの少女に対して、何とも言えない感情を抱きながら、落ち着くまでの間、彼女の頭を撫で続けた。
「あ、あの……もう、大丈夫です」
いったいどれくらいそうしていただろう。気が付くと、彼女がわたしに回していた腕は脱力して垂れ下がっており、泣き声も止んでいた。わたしは抱き寄せて、頭を撫でていた両手を開放する。彼女は改めて、椅子に座りなおした。その目は、散々泣いたせいで、赤くなってしまっていた。
明日の学校に、支障を来さなければいいけれど。わたしはそんなことを心配して、彼女の顔を見つめる。しかし彼女は、泣いた後は、恥ずかしさにさいなまれているらしい。わたしと目を合わせようとせず、視線を下に落とし、気まずそうに視線を左右に泳がせていた。そして時々、鼻を啜る。泣いたせいで、鼻水でも出ているのだろうか。
わたしは机の上に置いてあるティッシュの箱を、彼女に差し出す。
「使う?」
「あ、はい、ありがとう、ございます……」
ティッシュを数枚、手に取り、鼻をかむ。それを何度か繰り返し、最後に目も拭ってから、近くのごみ箱へ捨てて、戻ってきた。
そのタイミングで、わたしは改めて口を開く。
「どう、少しは、落ち着いたかな」
そういって彼女の顔を覗き込む。果たして彼女は、わたしの声にハッとした様子で顔を上げ、首を縦に何度も振った。
「はい、少し……落ち着きま」
そこでタイミング悪く、わたしの電話が鳴り響き、二人とも驚いたように顔を見合わせる。まあ、わたしはその着信相手に、だいたいの予想は立っていたし、茜ちゃんに至っては、より確実に予想出来ているだろう。
ディスプレイに示された通知名。そこには、わたしの姉さんの名前が、表示されていた。
「お母さん……」
彼女は心底嫌そう、そして不安そうな顔でわたしのスマホを見つめる。なにせ、自分が家出をするに至った相手だ。快くは思わないだろう。さっきも、帰りたくないと、悲痛な叫びを聞いている分、わたしはどうしたものか悩む。電話に出るべきか、否か。
「どうする?」
わたしは迷った末、苦笑いで彼女に判断を仰ぐ。
「ど、どうするって……」
「わたしが出るか、茜ちゃんが出るか。それとも、無視するか」
「む、無視だなんて、そんな!」
「じゃあ、茜ちゃん、出てみる?」
かわいい顔が何をどうすればそんな風に、歪むの。と言いたくなるような顔で、彼女は首を横に振った。
「……わたしかあ」
彼女ほどではないにせよ、わたしだって気乗りしないのは確かなのだ。元々、姉さんのことはあまり好きでも、得意でもない。嫌いだし苦手だし。それでいうなら、わたしだってこの着信に出たくはない。
わたしの姉さんも、まさか着信の向こう側で二人から、悪評を得ているとは思いもしないだろう。だが、それだけあの姉さんは、人に好かれないように心がけているのかと疑いたくなるほど、天邪鬼なのだ。
親しい人間には、特に。
『もしもし、姫子!?!?!?」
うるっさ。
切ろ。
……ではなく。
わたしは通話開始のボタンを押して、耳にスマホを当てるのを、一瞬遅らせた。そして、その判断は正しかったらしい。姉さんのことを思って、スピーカーにしていないはずなのに、それが無駄に思えるほどの大音量で、わたしのことを呼んできた。
「どうしたの、姉さん」
もううんざりしたし、もう切りたいな。そんなことを思いながら、わたしはまだ耳から少しスマホを話して、返事をする。
『どうしたもこうしたも!! ねえ、アンタのところに、あたしの子供、訪ねてこなかった?!?! ねえほんとどこ行ったんだろ、なんか家出するって言って、出て行って、わたしもほら、こんな性格だからさ、売り言葉に買い言葉っていうの? じゃあ出て行けばって言っちゃったんだけど、そしたらあの子本当に出て行って、まだ帰ってこないの!! だからアンタのところにでも行ってるんじゃないかなって思って、どう、訪ねてきてない?!」
わたしは彼女の方をちらりと見つめる。彼女は、何とも言えない様子で目を反らしていた。わたしは電話の方に意識を戻す。
「なに、姉さんもやっぱり心配なんだ」
『何言ってんの!! 自分の娘なんだから、当たり前でしょ?!」
視界の端で、彼女の身体がびくりと跳ねる。顔をこちらに向けるようなことはしなかったが、それでもあえて不機嫌そうにあろうとする顔に、少し期待するような色が混じる。
「心配なんて、今更……出て行くって言ったときは、心配してくれなかったのに……」
ぼそりと、彼女の口から言葉が漏れる。それに、わたしは思わず笑いだしそうになる。
『あーもう、あの子ったら本当にどこ行ったのかしら、こんな時間になっても帰ってこないなんて、あーもう!!」
「姉さん」
『もしかして、なにか事件に巻き込まれてたりしないわよね、もしそうなったら、わたし、本当になんてことを……ああもうっ!」
「姉さんってば」
『何よっ!!』
怖い。なんでこの状況でわたしに怒れるの?
わたしは、いつ話しても相変わらずな姉さんの様子に、笑いを堪えるので必死だった。どうにも、この姉さんは人の話を聞かないし、感情は全部表出するし、それでいて、困ったことがあっても、素直に人に頼れない性格で。
そこでふと、わたしは思い出す。確かあれは、それこそ茜ちゃんが生まれたときだろうか。もしかしたら先天性の病気があるとか、そんな相談を、それとなくされた記憶が、ふと蘇る。確かその時も、明らかに動揺して、自分を責めているような口調でわたしに相談してきた姉さんは、しかしそんなことを悟らせまいと、必死に気丈な態度でいたような記憶がある。むしろ、わたしの方が動揺していた、といっても過言ではない。
エコー検査では見つからなかったのに、生まれてきてから、片腕がないことを知らされるなんて。わたしは母親になったことがないので、その気持ちは計り知れないが、しかしそれでも、当事者でなくとも動揺したし、掛ける言葉も見つからなかった。
そんな中でも、周りに、それこそ姉妹であるわたしにも心配をかけさせまいと、いっそ不謹慎なほど気丈にふるまう姉さん。そのことを思い出してしまう。
だからこそ、わたしは初め、彼女――茜ちゃんが覚醒して、立ち上がった時、その姿を見て、違和感を覚えたのだろう。
これまで、つけていた義手。毎年の彼女の成長に合わせて、決して裕福ではない姉さんと、その旦那さんが、それでも大枚を叩いて新しくしていた、彼女の左腕。それをつけていないことに、違和感を覚えた。
わたしは四年前を思い出す。最後に茜ちゃんとあった、あの日のことを。確かあの日はお正月の集まりで、彼女はいつも通り義手を装着していて、触らせてもらった記憶もある。だが、技術の進歩とはかくも早いものかと、わたしは感動を覚えた。それほどまでに、彼女のつけている義手は、いわゆるパッシブ義手、つまり外見と機能性を両立させたもので、訓練を積めば思い通りに動かせるし、更に質感も、人肌に近い。そんなハイエンドモデルの義手、当然のことながら、値段はかなりのものだろう。わたしは思わず、心配になって姉さんに尋ねた。だが、その時の姉さんは、おせちを口いっぱいに頬張りながら、まるで世間話でもするような口調で言った。
あの子の笑顔には変えられないでしょ。
だからこそ、わたしは驚いたのだろう。なにせ、セーラー服の肩から下、正確には、二の腕の半分より下から先が、ないのだ。恐らくこの四年間、そして今年も新しくしてもらったであろう、義手。それが今、彼女にはついていない。本来の、右腕しかないのだ。
『だってあの子、義手も家に置いて行ったままだし、スーツケースと服もないし、わたし、心配で心配で!!』
わたしはそんな姉さんの本心が、いよいよ隠し切れなくなるのと紙一重で、スマホの音量を下げていた自分を褒めてあげたく思う。いや、彼女、茜ちゃんにはこれを聞かせてもよかったのかもしれない。姉さんは間違いなく嫌がるだろうし、またぞろ天邪鬼なことを言うだろうが、それでもこれが姉さんの、嘘偽りのない気持ちなのだと思うと、どうしても彼女に伝えたくなった。
大丈夫。
君のお母さんは、これくらい君を心配してるよ。
わたしはそう言いたい気持ちを抑え、手短に事情を伝えた。
彼女はわたしの家にいること。ご飯は食べさせたこと。家には帰りたくないと言っていること。わたしは問題ない、とのこと。
それらをすべて、特に家に帰りたくないと言っている彼女の気持ちは、ありのまま伝えた。これは何も、姉さんに意地悪をしたいわけではない。むしろ、わたしは姉さんが素直になれば、それですべてが丸く収まって、明日からまた彼女は姉さんの元で過ごせるようになるのだと、わかっている。しかし、敢えてわたしは、彼女をしばらく家で預かりたい旨を伝えた。
姉さんは、わたしの予想通り、ぜひそうしてほしい。と、そうしてほしくない声音で言った。きっと、姉さんも本当は彼女を家に連れ戻したいのだろう。当たり前だ。なにせ自分の一人娘である。可愛くないわけがないし、だからこそ私にこうして電話までかけてきているのだ。
しかし、わたしもわたしで、見過ごせないことがあった。
頭に来ている、そういっても過言ではない。
まあ、母親と娘の間で喧嘩することも、それで娘が泣いてしまうことも、勿論あるだろうし、わたしは親子喧嘩なんて、いくらでも、それこそ気が済むまですればいいと思う。そういう考え方をしているし、子供の頃に母親と交わした数多の喧嘩も、後悔はない。
親子とて、意見が食い違うこともあれば、正しいことばかり言えず、理不尽なことで怒ってしまうこともあるだろう。
だが、今回はそうでもないらしい。
四年ぶりに、わたしを頼ってきた。家の前で、ひたすら寒空の下で待っていた。義手を、忘れるはずがないものを置いてきた。重たいリュックを一人で持ってきた。それに何より、彼女の涙が、わたしの気持ちを、しばらく預からないといけない。身勝手ながら、そう考えさせた。
あの涙は、きっと今回の一件だけで流れた涙ではない。そんなことは、わたしでなくとも、一目でわかることだ。
勿論、これが二人にとって、最良の選択とは言えない。本当はどちらも、相手に会いたいに決まっている。茜ちゃんも、姉さんも、同じ屋根の元で暮らしたいという気持ちに嘘偽りはないだろうし、わたしはその邪魔をしているに過ぎない。
だが、当事者でないからこそ、出来ることもある。
少なくとも、姉さんには頭を冷やして、冷静に茜ちゃんに謝ってもらう必要がある。
茜ちゃんには、そんな姉さんの、これまでの行いも含めて許してあげられるだけの精神の余裕を、確保する必要がある。
わたしは、だから預かる旨を姉さんに伝えて、電話を切った。
期間は、こちらから提示した。
一か月後。つまり来月の八月二日。それを期限として、わたしと彼女の共同生活が始まった。
といっても、これはわたしが決めた期限。どれだけわたしが離れ離れで、頭を冷やす期間を設けようとしても、所詮それは当事者の二人からしてみれば、自分の妹、そして親戚の人からの発言に過ぎない。だが、それを断れないことをわたしは知った上で、発言した。
事実、姉さんは断らなかった。後は、電話のやり取り、その一部始終を耳にしている彼女、茜ちゃんがどう答えるか、だが。
わたしは通話の切れた電話をポケットにしまうと、彼女に目を向けた。
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