第3話

 軽快な音を立て、電子レンジが温め終わったことを告げる。わたしはそれから、いつもの要領で夕食を用意した。といっても、大したことは何もしていない。次から次へ、電子レンジの中にあれやこれやを放り込んで、温めている間、ペットボトルから出したお茶をコップに注ぎ、彼女の前に出したり、食器に温まった食事を盛り付けて、用意した位である。

 そもそも、この家にあるものは、どれもおもてなしに使用するには、あまりに簡素すぎる。元々、食に関して、これといった強い思いがあるわけでもない。最悪、食べられて、栄養になればそれでいいとすら思っている節があるのだ。それゆえ、わたしの食器棚に並ぶ皿は、どれも引っ越してすぐに買った、大小の平皿、それから茶碗が一つに、箸が一善。これを見て、女性の一人暮らしの食器とは、あまり世間一般では思われないだろう。しかし、こんなものなのだ。女一人の暮らしぶりなど。

 女一人。わたしは一人前しかない皿を彼女のために盛り付けながら、少し自嘲的な気持ちになる。勿論、これまでこの家に誰も来なかったわけではない。しかし、わたしが家に招いたのは、それこそ南乃くんと、黒澤くん程度のもの。つまり、なにが言いたいかというと、わたしは一人暮らしを始めてからというもの、家に彼氏を呼んだこともなければ、そもそも彼氏が出来たことも、それに準ずる存在を家に招いたことも、出来たこともなかった。

 いや、これでも勿論、学生時代はそういった、恋人という関係になった相手は片手に収まる程度だが、いなかったわけではない。しかし、その誰も、わたしと付き合って、一か月と持たないのだ。何故か、すぐに破局してしまう。そんな思い出もあってか、わたしは社会人になってから、これまで恋人を作ったことは、凡そ一度もなかった。

 言っていて、自分で悲しくなってしまう。

 ので、言い訳を誰にするでもなく、させて貰うとするなら、わたしは何もそういう声が掛からないわけではない。ごく稀に、こんなわたしにありがたくも声をかけて、飲みに誘ってくれる人もいる。わたしは個人的嗜好として年下が好みなので、特に後輩の男の子からの誘いには、なるべく乗るようにしている。だが、いざそういう雰囲気になってくると、わたしはどうも自ら一線を引いてしまう癖があるらしい。そのせいで、言外に振ってしまった形になった後輩もいる。

 そんなわたしのことなので、誰かと自宅で食卓を囲む、そんな準備など当然しているわけもない。ちなみに、南乃くんと黒澤くんは、そんなわたしのことをちゃんとわかっているので、いつもわたしの家に来る時は、予め紙皿と割り箸を買ってくる。そして、この間、その余りを置き忘れて帰ったことを思い出した。それを探すと、すぐに戸棚から見つかる。これで、どうやら彼女とそれなりにまともに、食事を共にすることができそうだ。

 といっても、わたしが食べるのは、前述した通り、冷蔵庫の中にあるおつまみくらいなのだが。

「おまたせ、出来たよ」

 言いながら、わたしは最後に彼女の前に、自分用の夕食、もとい突き出しのような料理を並べる。というか、紙皿に枝豆と、それから一人前、食べきりサイズの冷ややっこを用意しただけだが、それは全く問題ではない。それよりも、わたしは少しの間、外で温くなっていたビールを、冷凍庫に入れて冷やしはしたものの、それが本当に冷えているか、その方が余程気になっていた。最早、気が気ではない。しかし彼女も彼女で、どうやら何かを気にしたように、そわそわと落ち着かない様子である。

 やがて、口を開いた。

「その……すみません、本当は、赤城さんの夜ご飯、だったんですよね」

 そういって、前に並べられたご飯たちを眺める。それから、遠慮したのだろう。それらをわたしの元へ、箸を置いた手で差し出してきた。

「やっぱり、た、食べられません」

「え、なんで? 遠慮せず、食べたらいいのに」

 かなりの割合で本心である。まあ、わたしが食べるつもりで買ってきた総菜たちだったが、極論、ビールが完璧に冷えていれば、それでいいとすら思う。しかし、わたしがプルタブに指をかけたところで、彼女は再び、わたしの突き返した皿を申し訳なさそうに掴む。

「いや、でもこれじゃあ、赤城さんの食べるご飯が……」

 心配ご無用。と突き放すのは、少し可哀そうだ。わたしはそこで、やはり遠慮した表情を浮かべる彼女を見つめる。しかし、別にご飯が今はこれだけしか、一人前しかないというだけで、コンビニに行って買ってくれば、いくらでもある。それを彼女に伝えると、ようやく彼女は諦めたらしい。渋々、納得できないというように目を落としながら、手に持った皿を自らの前に戻した。どうやら、この子はかなり、思いやりがあるらしい。

「いただきます」

 そういって彼女は、手を合わせる。わたしもそれに倣って、いただきますと言って、同じようにした。それから、実際、空腹ではあったのだろう。一口サバを口に運んだあと、とても美味しそうに食べ始めた彼女を眺めながら、わたしはコップにビールを注ぐ。そして、気になっていたことを、いよいよ聞いてみた。

「ねえ、ずっと気になってたことなんだけどさ」

 ビールで喉を潤しながら、わたしは彼女を見つめる。余程、お腹が空いていたらしい彼女は、口いっぱいにご飯を頬張りながら、顔を上げる。そんなに急いで食べずとも、誰も取らないというのに。わたしは少し微笑ましい気持ちになる。

 彼女はそれをもぐもぐと咀嚼し、ゆっくりと飲み込んでから、口を開いた。

「はい、なんですか?」

「どうして……家出なんかしたの?」

 答えたくないなら答えなくていい。そう付け加えて、わたしは彼女の顔を見つめた。すると彼女は、その顔をすこし曇らせ、視線を落とす。口を固く閉ざし、あまり進んで喋りたくはない、そんな思いが伝わってくる。勿論、わたしだって彼女が言いたくないことを、無理に聞くなんてことはしたくなかった。しかし、わたしだって一応、社会人であり、大人なのだ。流石に、事情も何も分からない状態で、自分の姉の子供とはいえ、何も知らない状態で家に匿っていられない。せめて、どういう経緯があったのか、それだけでも知っておかないと。

「……言わないと、駄目ですか」

 そして、想像していたような返答が返ってくる。わたしは首を縦に振った。

「うん、流石に何も知らない状態じゃあ、ねえ。……ああ、でも勘違いしないでね、別にわたし、家出が駄目だって言ってるんじゃないよ。嫌なことがあったら、そんなのは逃げていいんだし、別にわたしは、気持ちの整理がつくまで、いくらでも居てもらっていいから」

 これは社交辞令、ではない。本心だ。それこそわたしだって、母親と喧嘩して、家出をしたことがあるし、今考えるとあの頃は若かった、とも思わない。むしろ、わたしは自分の親が嫌いだった。憎かったといっても過言ではない。それほどに仲が悪く、だから家出をしたい、親が嫌いという気持ちは、痛いほどわかる。そんなことを、わたしは拙いながらも、頑張って話した。

 親との喧嘩。当時は理不尽だと思っていたが、大人になった今では笑い話。なんて、そんな気持ちにはなれない。

 その頃の自分を助けてくれた、いろんな人。だから今度はわたしが、誰かを助ける番だ。

 そんな思いの丈を吐き出したわたしに、彼女は少しだけ心を開いてくれたのか、あるいは行く場所がなくなると困るから、渋々行ったのか、それはわからない。ただ、彼女の口から、家出の事情が語られる。それを聴きながら、わたしは心の中で、予想を超えるような悩みではない、そう思っていた。

 何のことはない、きっかけはとても些細な出来事。どうやら、彼女の香水を、母親が、つまりわたしの姉が、冗談で悪く言ったらしい。それに対して、立腹した彼女が母親に言い返して、母親も言われたことにカチンと来て、言い返した。それから喧嘩になって、家を飛び出してきた。その程度のこと。

 まあわたしも妹の立場から言わせて貰うと、どうも姉さんは、そういうところがあるというか、人や物事を素直に褒めない、むしろ照れ隠しから貶してしまう、悪癖を持っていた。その懐かしい癖を思い出し、少しだけノスタルジックな気持ちにはなったが、それにしたって、思う。大人気無ないなと。

 だって、相手は自分の半分くらいしかない、あまつさえ我が子なのだ。まあ、わたしに子供はいないので――そもそも相手もいないし、経験もない――そんな姉さんの立場には立てないけれど、それでも言っていいなら、もう姉さんも三十を過ぎているのだから、いい加減に天邪鬼を直せ。そう思う。

 思い返せば、年の離れた姉として敬うには、あまりにも姉さんは私に対して意地悪というか、あくまで我を貫くスタイルだったし、とても頑固だった。

 それに引き換え、わたしは当時の、その喧嘩をしていた様子を語る先ほどまでの彼女に視線を向ける。余程溜まり溜まったものがあったのだろう。彼女は肩で息をして、目に涙を浮かべながら、必死にわたしの方を見つめていた。

「ひっ、ひどく、ないですか?! わたし、頑張って貯めたアルバイト代で、ようやく買った香水だったのにっ。ど、どっちが悪いと思いますか!?」

 怒りのあまり、しゃくりあげ、今にも落涙しそうな彼女。しかし、責任の所在を求める彼女の発言に、わたしは驚いてしまう。いや、誰かに対して怒っている人なら、必ずと言っていいほど、口にするこの言葉。

 どっちが悪いと思いますか。

 わたしも役名を担うようになってから、かなりの回数、色んな部下からこの言葉や、これに準ずる言葉を聞いてきた。なので、その心理は手に取るように解る。

 要は、自分を肯定してほしいのだ。

 誰だって、自分が正しいと、根っこから思っている。だからこそ争いは怒るのであって、相手が正しいと分かっていながら怒る争いなど、存在しない。例え相手が正しいと自覚していたとして、それ以上に自分が正しい、そう信じて止まないからこそ、対立は怒るのだ。そして、彼女も、きっとそうなのだろう。

 自分が正しいと、言ってほしい。親戚で、最近は面識もなかったわたしを頼ったのは、恐らくそれが起因しているのだろう。自分の母親を、これまで自分よりも長く、側で見ていた存在。その存在に自分の意見を肯定されるのは、自分の意見の裏付けになる。

 そこまでわかっていて、わたしはそれでも、彼女に対して、手放しの共感をせずにはいられなかった。

「いや、それは……少なくとも、茜ちゃんは悪くないよ」

 わたしは本心を打ち明けた。

 だってその通りだ。彼女は何も悪くない。強いて、それでも悪いところを探そうとするなら、香水の香りというのは、嫌いな人間にとってはかなり嫌いだと感じてしまうものだから、それを考えずに振った彼女にも、責任の所在が全くない訳ではない。ただ、それ以上に、わたしの姉が悪すぎる。いくら天邪鬼な性格だとして、それでも自分の娘が、そういう色気着いたことを気付いた上で、アルバイトで頑張って買った香水、値段だって、香水にしてはかなりの上物、それを、やれキャバクラみたいだ、やれ品がない匂いだ、なんていうのは、あまりにも酷すぎる。少なくとも、わたしが今そんなことを言われたら、その鼻っ面に拳を打ち込んでいるかもしれない。それほどの誹謗だ。

「ですよねっ!!」

 食べかけのご飯をしっかりと飲み込み、箸を皿の上に置いてから、彼女は机に身を乗り出す。わたしはびっくりして、ビールの入ったコップを思わず引っ繰り返しそうになりながら、彼女の話を聞く。

「だってね、わたし、頑張ってパン屋さんでバイトしたんですよ?! それなのに……ママ、酷いですよね!!」

 泣き出しそう。を通り越して、鼻を啜りながら、彼女はわたしに、赤らんだ瞳を向ける。

 というか、気になったけど、ママっていうんだ。

 かわいいね。

「ほんと、昔からそういうところあって、わたしのすることに一々文句つけるし、口うるさいし」

 わたしは激しく首を縦に振る。

 わかるよ。

 痛いほどわかる。

 わたしも一度、子供の頃、あの姉さんに本気で毒でも盛ってやろうかと、思ったくらいだし。

 ビールのグラスを傾け、杯を進めながら、彼女の話を聞く。

 彼女は、しっかりとご飯は食べ、その口の中に何も無くなってから、再び話し始めた。

「もう、あの家には帰りたくないですっ……」

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