第2話

 と、ここまでがわたしの、会社から家に帰ってくるまでの、おおよその回想。だが、そんな風に現実逃避もしていられないだろう。どうしたって、それこそ通報するにしたって、わたしは彼女と少なからず、関りを持つことがこの時点で運命付けられている。そういっても過言ではない。

 それこそ、今日は家に入ることを諦める覚悟で、近くの公園や、それこそ居酒屋あたりで時間を潰そうか。とも考えた。流石にこの寒さだ。この少女にしたって、いつまでも安眠できるはずがない。きっとすぐに起きて、それから立ち退いてくれるかもしれない。そんなことを考えて、すぐに諦めた。そもそも、その程度で立ち退くくらいなら、この子は何も、わたしの家の前で座り込んで、眠ってはいないのだ。夜の冷たい風を凌ぐだけでいいなら、それこそ上から数えた方が早い階数の、わたしの玄関の前で寝なくとも、他にも場所はいろいろとある。最悪、わたしなら下手に通報されかねない、人の家の前より、エントランスなどを選ぶだろう。

 それよりも、あえてわたしの家の前で眠る理由。それは、他ならぬわたしに用事があるから、ということで間違いはないだろう。それが一体どんな用事か、それはともかくとして。

 その考えに至ったわたしは、そこで表札に目をやる。より正確には、表札プレートに、自分の名前を記入するなりプリントするなりして、差し込むための、表札入れに。よくマンションの部屋などについている、あれだ。どうやら最近は、リテラシーの観点から、特に一人暮らしの人は、あまり自分の名前を戸外に向ける風習がないのか、最近はすっかり廃れてしまったが。まあ、宅配便だって、部屋の番号などもあるし、無意味に名前を張り出すのにも、余計に抵抗があるのだろう。そして、わたしもその一人だった。

 つまるところ、わたしはその表札に名前を張り出していないし、その他にも、わたしがそこの部屋で住んでいると、一見して分かるものなど、何も置いてはいない。それこそわたしのマンション名から、部屋番号から、すべて知っているのは母と父、それから年の離れた姉ぐらいに思う。

 もしかして、この子も身内なのだろうか。わたしは俯いて口を閉じ、目を瞑っている彼女の顔を覗き込む。わたしの髪型と違い、彼女はショートヘアーか、精々が肩にかかる程度の髪の毛であったため、その顔を覗き込むのは容易だ。勿論、顔の造形だって、知り合いだったら分かる程度にははっきりと見える。だが、結果から言うと、その顔を覗き込んだわたしは、顔を上げて首を傾げた。なぜなら、その顔に全くと言っていいほど、見覚えがなかったのだ。

 それからしばらく、ビールが少し温くなるほどの時間、わたしは彼女を見下ろしながら、悩んだ。そして、意を決する。

 彼女の肩に、手を置いたのだ。そして、ゆっくりと揺すった。

 まだまだ子供なのだろう。彼女の肩は、手の小さいわたしでも感じられるほど薄く、力加減を考えてしまうほど、脆く感じる。まあ、人間の骨がそんな風に、簡単に折れてしまうことなどはないのだが、そう頭でわかっていても、ついつい力を抜いてしまうほどの、華奢な身体。

 果たして。

 彼女はしばらくわたしに揺すられ、眠そうな声を上げながら、ゆっくりと目を開ける。わたしは安心した。呼吸や体温は、意識して確認していなかったので、もしかしたらこの初夏とは思えない、梅雨明けの冷気で凍死でもしてしまったのでは、なんて。そんな杞憂に駆られていたから、素直に安堵した。だがすぐに、それどころではないことを思い出す。なにせ、わたしの家の前で、眠っていた彼女のことだ。これこそ杞憂だが、それこそ彼女がわたしに対して、危害を働くつもりでここに居座っていたのだとしたら、危ないのは彼女より、むしろわたしの方だった。

 慌ててその場を離れ、少し距離を取る。そんなわたしを、寝ぼけ眼で彼女は辺りを見渡した後で、見つけたらしい。視線と視線が、ぶつかる。

「……おはよう?」

 こういうことは初めてなので――二度も三度も経験があってたまるか――わたしはとりあえず、大人として、彼女にまずは挨拶をしてみる。動揺が隠しきれていないようで、こんばんわではなく、おはようと言ってしまったのは、わたしのコミュニケーション能力の低さ故である。そこはご容赦頂きたい。

 そんな思いが伝わったのか、彼女は大きな目を見開いて、こちらを見つめながら、眠たそうな声を上げる。

「……朝?」

「ううん違うね、夜だね」

 紛らわしいよね。そうだよね。

「え、でも、おはようって……。おはようございますっ」

 混乱した様子で、彼女はその場に立ち上がる。そして頭を下げて、丁寧にわたしへ挨拶を返してくれる。だが少し、寝起きの彼女を混乱させてしまったらしい。

 おはようって言っちゃってんじゃん。

 違うって。

 ……ともかく。

 わたしは彼女に対して、未だ警戒心を解いたわけではない。こうして起き上がって、彼女の声を聴いたところで、それでもわたしの記憶に、彼女の見覚えは無かったのだ。むしろ、より一層、誰だろう。そんな気持ちが強くなる。しかし、それでいうならわたしはあまり人の顔を覚えておくのが得意ではない。もしかしたら、鶴の恩返しよろしく、わたしに何らかの恩があって、それを返しに来た少女、なんてことも、もしかしたら有り得るのかもしれなかった。あるいは復讐? いや、そんな夜道に怯えなければならないような生活は、送っていないはずだが。

 少しの間、フル回転で過去の記憶を漁ったわたしは、そこでとうとう諦めた。眠っている顔を見ただけならともかく、こうして起きて、動いている様を見て、それでも思い出せないのだ。となると、いよいよわたしが思い出そうとして、思い出せるものではない。面識が本当に一切無い、という可能性だって、こうなれば考えなければならないだろう。いや、そんな関係性だったら怖すぎるけれど。

 とにかく、わたしは彼女が何者であるのかを探ることを諦めた。直接聞くのが、一番手っ取り早い。

 そう決まれば、早くに聞いてしまうに限る。わたしは彼女に対し、口を開いた。

「あのっ」

「あ、そうだ。赤城姉さん、お久しぶりです、こんな夜分遅く、すみません」

 赤城。

 わたしの言葉と被り、確かにそう言った彼女は、改めてわたしの元へ近づくと、丁寧に頭を下げてくる。そして、どうやらわたしのことを知っているらしい彼女は、続ける。

「そ、その、突然押しかけてしまって、申し訳ありません。……一晩、わたしを、泊めていただきたくて……」

 申し訳なさそうに目を地面に落とし、彼女はわたしの前に立つ。だが、わたしはその泊める泊めない、それに対しての返答をする前に、先に聞いておかなければならないことがあった。

「……えっと、ごめん、本当に申し訳ないんだけど、一つ聞いてもいい、かな」

「え? はい。なんですか?」

「その……どこかで、会ったこと、ある?」

 わたしはとても、人に対して言い難い言葉を、やっと口にできた。というか、これはあくまで彼女が見るからに高校生程度の子供であり、わたしの苗字も知っているからこそ、この対応である。この質問は、有体に言って、お前誰だよ、ということである。

 いや本当に誰だよ。

 なんで苗字知ってるの。

 怖いんだけど。

 だが彼女の方は、わたしの苗字を口にした辺りで想像していたが、どうやら本当に面識があるらしい。一度きょとんとした顔を浮かべていたが、少し考えるように指を折って数を数え、それから合点がいった、という風に微笑んだ。

「いやいや、そうですよね、すみません。四年ぶりくらいだし、多分、当時とだいぶ印象、違うかもですね」

 そういって笑う彼女。一方のわたしは、今度は四年前を思い出そうとしていた。

 その手間を省くように、彼女は名前を名乗る。

 聞き覚えがある、なんてものではない、名前を。

「改めまして赤城姉さん、お久しぶりです。わたし、鈴谷茜です。赤城姉さんからしたら……わたしのママはお姉さんだから、その子供ってことに、なるんですかね?」

 鈴谷あかね。

 そう名乗った少女は、しかしその名前を聞かされたところで、それでも見覚えがない。なんてものではない。かわいらしい丸顔や、女子高生らしい化粧や、きらきらとした爪。それは、わたしが確かに知っている四年前の記憶にある、鈴谷茜とは本当に似ても似つかないというか、わたしは思わずその気持ちを口にしていた。

「いや変わりすぎてない?!」

 印象が違う、なんてものではない。別人と言って差支えがないレベルだった。なにせ、今が高校一年生だろうから、その四年前。中学一年生の頃の鈴谷茜は、こんなかわいく着飾る女の子ではなかった。それはよく覚えている。というか、そもそも。

 いや、それはあまり触れるべきではないのかもしれない。誰だって、あまり変わったことについて、触れられたいことと同じくらい、触れられたくないこともあるのだろう。

 わたしはとにかく、そこには口を噤んだ。

 というかいい加減、立ち話も体が冷えてきた。わたしは、彼女の正体が分かったことで、とにもかくにも、部屋に入りたい気持ちに駆られ、胸ポケットから家の鍵を取り出す。そして、茜を、もとい茜ちゃんを手招きした。

「……ま、まあ、とりあえず入ろっか」

「え、いいんですか?」

 今更になって遠慮する彼女の声は、しかし寒さ故に震えていた。確かに、この時期にその薄手のセーラー服一枚は、いくら何でも冷え込むだろう。

「うん、わたしも外でこうしてると寒いし、散らかった部屋だけど、よかったら。……それに、泊まりたいんでしょ?」

「あっ、は、はい! ちょっと、色々あって……」

 わたしは、彼女がどうして母親の、わたしの姉の元を離れ、親戚、いわゆる叔母であるわたしの元へ訪ねてきたのか、それを聞くためにも玄関の扉を開け、彼女を中に招き入れる。彼女は、待機していた自分の隣に置いていたらしい、私物の大きなリュックサックを片手で持ち上げ、それを持って部屋へ入った。わたしも後に続く。

 本当に今晩は、どうも冷え込む。勿論、冬場の夜ほどではない。むしろ、これが冬なら暖かいほどの気温だが、日中の温度が三十度に迫る日々が、かれこれ数か月続いていて、すっかりそれに慣れている身としては、余計に寒く感じる。

 彼女と同じくらい、わたしの夏服のスーツも、風通しがいい。普段は涼しいこれが、今やすっかり裏目に出てしまっている。

 ふたりして寒い寒いと言いながら、玄関の扉を閉め、靴を脱いで家に上がる。わたしは、彼女のローファーとわたしのヒールを下駄箱へ突っ込むと、改めて彼女に振り返った。

 ヒールを脱いだことで、わたしは多少、身長が縮む。だがそれでも、彼女はわたしよりも、というか平均的な女子の身長と比べても、少し小さい印象を受ける。まあ、わたしはわたしで大きい、というのもあるのだろうが。

 わたしの身長が165センチ。だから、彼女は10センチ、ないし15センチは差があるだろうか。なんというか、小ぢんまりしていてかわいい。リュックサックを持っている姿も、なんだかこうしてみると、かわいい。そこでわたしは思い出す。確か、四年前、わたしの家に遊びに来たわたしの姉と、彼女。その姿を見て、今と同じようにかわいいかわいいと言っていた記憶がある。何なら、頭を撫でていた記憶すらある。

 でも、その時とは違い、彼女も今や高校生。あまり子ども扱いするのも、失礼に値するかもしれない。わたしは自重した。

 欲を言うなら、撫でたいが。

「まあ、適当に座って。荷物も、どっか壁の方にでも置いといていいからさ」

「あ、ありがとうございます」

 そういって、彼女をリビングに通しながら、わたしは冷蔵庫へ向かう。その中にビールを入れて、コンビニの総菜は電子レンジで温めながら、冷蔵庫の中身を見た。

 そして、彼女に尋ねてみる。

「……もしかして、晩御飯、まだ食べてない?」

「え、ああ、はい。食べてないです」

 なるほど。

 わたしは買ってきたコンビニの総菜を彼女に食べさせることを考えて、冷蔵庫を閉じた。そして、食器棚の引き出しを次に開ける。

 育ち盛りの年頃の子に、夕食としてコンビニの総菜を食べさせるだなんて、ともすれば虐待として捉えられてもおかしくない昨今。しかし、それでも自炊をしないわたしの家に、そんな上等な食べ物などあるハズもない。それに、昨今のコンビニの総菜だって、かなりクオリティが高いのだ。今日買ってきた、サバの味噌煮だって、電子レンジで温めると、味噌とサバの濃厚な脂が、じゅわりと溢れ出し、柔らかい身に箸が、まるで溶ける様に刺さっていく。味も格別で、白米が進むのだ。

 まあ、足らなかったら、わたしは後で買いに行けばいいか。そんなことを考えながら、相変わらずカップラーメンの常備など、そんな用意周到さを兼ね備えていない自分を呪いながら、引き出しを閉めた。

 言うまでもないが、勿論冷蔵庫の中にも、酒しか入っていない。あとは一部のおつまみたち。

 完全に、おっさんの冷蔵庫である。

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