BLUE notE
なすみ
第1話
例えば、家に帰ってきて、いつものようにエレベーターを降り、扉が開いた先に見える自分の家。その扉の前で、一人の少女が座り込んで眠っていたとする。その場合、模範解答はどういったものになるのだろう。
少なくとも、わたしが手に持っていたスマホで調べた限りにおいて、そんな状況自体、他に類を見ないものであることは確かだったし、模範解答や、過去の事例なんかも、当然出てこなかった。
いや、少なくとも、警察に通報するべきなのかもしれない。あるいは、マンションの管理人か。だが、相手は小柄で、夜はまだまだ冷えるこの季節に薄手のセーラー服一枚の少女だ。よほど寒いのか、眠りながら、無意識のうちに自分の肩を抱き寄せ、縮こまっている。そんな少女相手に、それこそいざとなれば力でこちらが優勢であることが明確な状態で、警察や管理人に頼るのは、どうも気が引けるというか、有体に言って、ダサい。そう感じてしまった。いや、自分の玄関の扉の前で、こんな風に寝られている時点で、通報しても問題はないのだが。
こんな二進も三進もいかない状況に陥る、一時間前。
わたしは確か、まだ会社にいた。丁度、務めている会社で新しいプロジェクトが発足し、その予算や立案などを、稟議書にまとめていたところだった。だが、あまり遅い時間まで残業すると、弊社は上層部からお叱りを受ける。基本、定時退社が原則なのだ。それはともすると、俗にいうホワイト企業として一般の目に映るかもしれない。だが、裏を返せば、定時で仕事をある程度のところまで計画的に、効率よく進めていかなければ、自分の評価はおろか、部下や上司にも、かなり迷惑が掛かってしまう。そんな側面も孕んでいた。とにかく、プレッシャーが凄いのだ。事実、定時が午後六時であるのに対し、わたしがその日、会社に残っていたのは午後八時だか八時半だか。その内、残業をする社員は残業時間に時間区切りに対して、十五分の休憩を取らなければならないという、厳密なルールまで決まっている。なのでわたしは、早く仕事の続きに着手したい。そんな気持ちを抑えながら、喫煙所で煙草を吸っていた。
途中から入ってきた後輩や、この春から入社した新入社員は、どうやら残業はしていないらしい。みんな、その代わりに疲弊しきった顔で、ギリギリ今日の分が終わった、なんて嘆きながら喫煙所で煙草を吸っているのを、わたしは部屋の隅で眺めていた。
誤解されがちなのだが、わたしは何も人付き合いが苦手なわけではない。ただ、何故か皆、わたしを避けているというか、遠巻きに見ているというか、そんな風に感じるのだ。勿論、仕事の上では誰もわたしを頼ってくれる。これでも一応、一部署の責任者として、統括という職位を拝しているわけだから。だが、それなら例えば休憩中、それこそ喫煙所なんて、わたしに雑談の一つでも振ってきてくれればいいのに。なんて思ってしまう。無論、そんな事を思って、受け身でいるわけではない。わたしが話しかけることも、多々ある。だが、何故か皆、特に男性社員はわたしのことを怖がっているのだろうか。わたしが話しかけると途端にしどろもどろになってしまって、逃げるように喫煙所を後にしてしまう。これは最近の、わたしの専らの悩みとなっていた。
やはり、男性ばかりが多数を占める会社の、それもわたしが担当している部署は極端もいいところで、わたしの他に、女性職員は一人も在籍していないのが、原因なのだろうか。
もしかして、もしかすると、本当に嫌われているのかもしれない。最近はそんなことを考えて、とても不安になってきていた。
だが思えば、わたしは昔からこうだった。いつも人好きしないのか、誰もわたしに自ら話しかけてくれないか、わたしから話しかけても、女性はともかく、男性たちはすぐにしどろもどろになって逃げて行ってしまう相手が多い。だから、わたしはせめて頼られるように、仕事でもなんでも頑張ってきたつもりだ。だが、それなのに。
何故かみんな、よりわたしのことを遠巻きに見てくるようになる。最近なんて、余計な気遣いすらされている始末だ。今日も机に向かって作業をしていると、新入社員の男の子が、おずおずとわたしの元へ、コーヒーを持ってきてくれた。まあそれはありがたく受け取ったのだが、わたしが礼を言うと、彼は頭が振り千切れるのではないか心配になってしまうほどの勢いで、激しく一礼を繰り返すと――一礼を繰り返す、という表現は少しおかしいか。なにせ彼は、十回くらい礼をしていたのだから、この場合は激しく十礼をした、が正しい――そのまま、遠くでその様子を眺めていた男性社員たちの元へ逃げ帰っていった。その後、彼たちは帰ってきた男の子を、まるで英雄でも扱うかのような賛美の声を上げていたのだから、わたしはどうにも、居心地が悪いというか、なんというか。
そんなに、わたしに気を遣わなくていいのに。と、思ってしまう。
ともかく、残業時間は大体、実働で二時間プラスマイナス、といったところだろう。わたしは一区切りのついたところで、そのデータを部署の共有ファイルに入れて更新をすると、だれもいない部屋から荷物を持って、退室した。
セキュリティーキーで最後に施錠をして、タイムカードを切る。今月こそは、一度も残業をせずに帰ろう。と思っていたタイムカードに、赤いインクで残業時間がまた記載されてしまったことは、どうにも不服というか、またも目標達成ならず、という気持ちになる。だが、今回の残業にしたって、その例の新入社員の男の子。麦くんの代わりに、わたしが残業していたようなものだから、まあ良しとしよう。彼は最近、いつもわたしにコーヒーを入れてくれる。まあ、わたしはどうも天邪鬼というか、そういうことをされるのが照れくさくて苦手なので、あまり愛想よくできている自信はないが、それでも彼の入れてくれるコーヒーは、いつも美味しい。わたし好みの、甘めの味付けだ。それに、仕事の覚えだって早い。彼の教育について、進捗を色々な人から報告を受けることも、統括の役目なのだが、彼はかなり優秀らしい。教えた仕事は卒なくこなすし、応用も効く。まあ、我が部署はいわゆるファーストペンギン、会社全体の部署の中でも、先進的なプロジェクトの、切り込み隊長といった役割であるので、部下たちは皆、精鋭揃いだが。その中でも、彼は頑張ってくれている、と、わたしは思う。
あまり人に、面と向かって褒めるということが苦手なので、まだ伝えられてはいないが。まあそこは、わたしの部下、彼の上司達が、代わりに可愛がってくれているだろう。
南乃くんと、黒澤くん。どちらも、わたしより一つ下の職位、主任として、仕事にとても精が出る二人だ。お互いに、性格こそ真反対だが、それが意外と噛み合っているのだろう。
ともかく。わたしはその日、麦くんから珍しく、コーヒーと一緒に渡されたチョコレートのお菓子の箱を開け、それをつまみながら部屋の電気を落とす。そして、会社を後にした。
通勤は電車だった。元より、残業自体があったとしても、それこそ四時間も残業をしようものなら、わたしより上の上司からはこっぴどく怒られる。そんな会社である。電車を逃す、なんてことは、そうそうない。それに、わたしが電車を利用しているのには、実はもう一つの理由があった。
わたしは会社では、あまり公言していないものの、お酒がかなり好きなのである。それを、気が向いたとき、仕事終わりなんかに飲みに行けるよう、いつも電車で通勤していた。
ちなみに、どれくらい好きかと問われれば、人生で一度は、居酒屋にあるメニュー表のお酒を、すべて一度に頼んでみたいという野望を抱えていたり、家にも業務用の、4Lサイズのウィスキーが常備してあったり、それくらい好きなのだ。だが、こんなことは流石に、職場の誰にも言えない。どうやら、酔った拍子で主任の二人――そういえばあの二人は、まだわたしに話しかけてくれるし、ちょくちょく麦くんをコーヒーレディ、もといコーヒーボーイとしてけしかけてくる――には、一度言ってしまっているらしい。勿論後日、二人が震え上がるまで、口外しないようにきつく口止めをしておいたが。
威厳とか、沽券が心配なのではない。ただ単に、恥ずかしい。
だってわたし、統括として一部署の最高責任者を任されてはいるけれど、今年三十の主任二人に比べて、年下なのだ。ぶっちゃけた話、二十六である。それなりに、まだ女としての羞恥心は持ち合わせている。
お酒大好き女なんてレッテル、張られたくないもん。
だが、今日は生憎と、そんな元気はなかった。なにせ残業時間を少しでも減らそうと、めいいっぱい頑張って、仕事を必死に片づけたのだ。本当なら、、会社から少し離れたいつもの居酒屋で、仕事終わりのビールでも飲もうかな。なんてずっと考えてはいたが、断腸の思いで諦めることにして、帰路に就く。とはいえ、お酒、それ自体を諦めたというわけではない。この喉の渇きを潤してくれるのは、ビール以外に考えられない。わたしはカバンを振り回さん勢いで、電車を降りてすぐ、近くのコンビニへと入った。
行きつけのコンビニなので、店員さんもわたしの顔を最近、覚えてくれたらしい。いつもこの時間からシフトに入っているらしいバイトの女の子が、カウンター越しに少し微笑んでくれた。わたしはそれに、満面の笑みで手を振る。少なくとも、仕事場でのわたしはこんな風ににっこりと笑うことがない。正直に言って、仕事に追われていて、そんな余裕は持ち合わせていないのだ。統括なんてのも、何度か辞退して、それでもと上司から強くおねがいされたが為、仕方なく、就任した位、わたしは仕事が好きではなかった。いや、勿論やりがいや楽しいことだってある。一つのプロジェクトが見事成功した時などは、かなりの充足感を感じている。だが、そもそも労働すること自体が嫌いだった。部署のトップが、こんなことを言ったらそれこそ士気が下がってしまうので、これは主任二人にも言ってはいないことだが、わたしは仕事をするよりも、家でお酒を飲みながら、テレビを見たり、ゲームをしたりして、ぐうたらと過ごす方が、生を実感できると感じていた。いや、それでいうなら、誰だってそうなのかもしれない。
プライベートを楽しく、充実して過ごせるよう、仕事を頑張る。それはとても素晴らしいことだ。わたしの場合、そこに若干のアルコールが入っているだけで。
今日は発泡酒ではなく、生ビールを買うことにした。正直、喉がこれほど乾いている状態では、どれを飲んでもあまり変化はないと、自分でもわかっている。だが、どうせ飲むなら、やっぱり高い方が美味しいに決まっている。今日は、初めの一本はビール、そのあとはこの間お酒屋さんで買ってきた、ちょっとお高いウィスキーでも飲もうかな。そんなことを考えながら、次に晩御飯を選ぶ。
これもまた、同僚たちとの会話では決して言えないことだが、わたしはほとんど、自炊というものをしない。いや、勿論わたしだって、たまには炊いたご飯でチャーハンとか、肉とキャベツをタレで炒める回鍋肉なんかは作る。だが、その程度である。その為、普段はもっぱら、コンビニでお惣菜を買って、それをおかずに炊いているご飯を食べたり、おつまみを買って、それとお酒を飲む。そんな生活をかれこれ、五年は繰り返していた。
おかげで、このコンビニの店員さんにもすっかり顔を覚えられてしまったし、煙草の銘柄も、毎日仕事終わりにここで一箱買うため、覚えられてしまった。なんだか、このバイトの子の仕事を変にわたしが増やしてしまっているみたいで、煙草の銘柄は本当に申し訳なく思う。
大学生、くらいだろうか。望月さん、いつもわたしのタバコ、何も言わなくても出してくれてありがとうございます。
「お会計が、千二百九十一円になります!」
素敵な笑顔で、いつも接客してくれる彼女に、わたしは財布から現金を取り出して、会計を済ませる。だが、お互いに相手のことは名前も含め――わたしが公共料金の支払いも、ここで済ませるせいで、覚えさせてしまった――知っているのに、大した会話は行われない。勿論、相手は仕事中だし、その邪魔をしてしまうのも申し訳ない。そう思って、わたしはあえて控えているのだが、それと同時に、この常連感が、少し心地良くもあった。
顔も名前も知っていて、煙草の銘柄も把握されていて、でもあえて会話は行わない。それが、良かった。
その代わり、わたしはいつも、ありがとうございましたと、元気よく言ってくれる彼女に、必ず言う一言を決めていた。
「いつも、ありがとね、もっちーちゃん」
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